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芥川龍之介「あばばばば」の解説【主人公の退屈な自意識】

母の愛情のイメージ

 

今回は芥川龍之介「あばばばば」の解説です。

この作品は「保吉」という名前の主人公が登場する一群の作品の一つで、保吉ものの一つとされています。

大正十二年に中央公論誌上で発表された作品で、作品の時代設定も同時代を描いたものと思われます。

現代人の知らない当時の煙草の銘柄や、イメージの湧きにくい小物の名前などが多く登場し、書き並べられているところを除けば、決して読みにくい作品ではないかと思います。

ただ、保吉の心理は比較的明確に描写されているように見えても、案外裏に隠された部分があるようにも思われます。

このようなところで、私は「或阿呆の一生」の前書きの一文、「(都会人と云う僕の皮を剥ぎさえすれば)どうかこの原稿の中に僕の阿呆さ加減を笑ってくれ給え」という芥川の言葉を思い出します。

都会人、あるいは近代人のこじれた自意識の問題が、「あばばばば」という、印象の強い作品の題に表れていると考えることができます。

保吉は主観的な小説の如く自意識を包み隠さず告白しているように見えますが、それは実は困難なことで、読み解きは読者に委ねられています。

そういった意味で、今回の解説が少しばかりでもご参考になれば幸いです。

 

1. 芥川龍之介「あばばばば」の解説

まずはこの作品の大体の筋を整理しておきましょう。

ある日、主人公の保吉は海軍の学校の教師となりました。「英吉利語講演会」を行ったという記述が見られることから、保吉は英語教師であるかと思われます。

保吉が海軍学校へ赴任した頃のようですが、その時から、保吉とある煙草屋との関係が始まりました。煙草屋と言っても酒やココアなども置いてあるので、嗜好品店と言うべきなのかもしれません。

そこには眇(すが)めで仏頂面の店主と、ぼんやりした面皰(にきび)面の小僧がいましたが、ある時から、そこに十九歳くらいの娘が現れるようになりました。店主の代わりに勘定台の向こうに座っているのです。

その娘ははにかみやで、娘らしく、店主の妻であるはずですが、全然女房らしくありませんでした。

保吉は娘に恋愛感情こそ抱かなかったものの、多少は警戒を解いたような、少なくとも店主や小僧に対するのとは違う心的態度を娘に対して持ったようです。

しかし、ある時から娘の姿が見えなくなります。保吉はその理由について店主に問うこともしないのですが、ある年の二月の末、娘は戻ってきました。

保吉が彼女の姿を再び見たのは夜のことでしたが、彼女は店の前で赤ん坊をあやしているのでした。「あばばばばばば、ばあ!」と赤ん坊をあやす彼女を見て、保吉が何を思ったかは分かりませんが、その時、保吉と彼女の目が合います。

すると、はにかみ屋であったはずの彼女は保吉のことなどは意にも介さない様子で、赤ん坊をあやし続けました。はにかみ屋の娘はもうどこにもいないのです。

最後の場面では、どうやら保吉はその光景に「娘じみた細君の代りに図図しい母を見出し」ながらも、そのことに対する自身の気持ちが明確な輪郭を描いてくれないのでぼぼんやりしてしまったようです。

このように、芥川らしくもある、懐疑主義的な匂いのする余韻と、若干の寂寥感を漂わせながら、作品は閉じられます。

簡単に読み取れるところで言えば、保吉ははにかみ屋であったはずの娘の変化に、あるいは一般に「図図しい母」というものに対して、何か嫌悪らしきものを感じているようではあります。

それは間違いのないことのように思われるのですが、その嫌悪が一体何を意味しているのかと言うと、それはおよそ退屈というものに対する、主人公の自意識の、習慣的な反発であると言ってよいだろうと私は思います。

退屈に関して保吉が言及している部分があります。

保吉は海軍の学校へ赴任した頃から、仏頂面の店主のいる、そしてある時からはにかみ屋の娘が勘定台の後ろに座るようになった、その煙草店へ通うことになるのですが、保吉はその店にある物や、店主の癖や行動まで、知らないことはないくらいに見慣れていきます。

そのことに関して、保吉はこのように言っています。

―(自分は)主人の一挙一動さえ悉くとうに心得ている。心得ているのは悪いことではない。しかし退屈なことは事実である。

この一文に芥川らしさを感じることは言うまでもないことですが、保吉はその店に馴染むことによって、そこに愛着や安心を感じるのではなく、退屈の一念によって、むしろ心が多少引いていくような心持ちをしているようなのです。

これは、保吉の他者との関わり方に一つの原因があるように思われます。

というのも、保吉はその煙草店に通いはするのですが、店主とも小僧とも、また娘との間でも、買い物という目的から離れるような、他愛のない話さえろくにしなかったようなのです。

どうやら、店主は仏頂面でありながらも、変に親切と言いますか、保吉に対して気を回すところがあり、お代をとらずにマッチを渡そうとしたり、ココアなどはより上等な銘柄を勧めたりなどしたようです。

それが、保吉には「客を悩ませる」ように感じられていたようなのですが、それは保吉が必要以上に心を開いて彼らと関わるつもりがなかったからなのでしょう。

保吉は決して柄の悪い人間ではないのですが、この時代の知識人らしいと言えばよいのでしょうか、どこか他人に対して横柄なところがあります。

例えば、電話をかけた際に交換手がなかなか応答しないので、自分が待っていることを伝えるためにベルを鳴らし続けて交換手と格闘したり、また、口から出まかせを言って娘と小僧を動かして、自分の欲しいココアの銘柄を探させたりなどしています。

このように、保吉は煙草店の人たちとは一線を引きながら、彼らを観察し、次第に退屈を感じるようにもなっていったわけです。ここに近代人的で傍観者的な他者との関わり方を読み取ることができると思います。

とはいえ、保吉にとって、はにかみ屋の娘の登場は「変化」であり、おそらくは多少新鮮なことでもあったようです。

この娘がどういった女性であったのかと言うと、最初、保吉が初めてその娘に煙草の銘柄「朝日」を求めた時などは、銘柄「三笠」を渡すなどして、不慣れなところを見せています。

それだけでなく、注目すべき点は、その後店主に助けられて「朝日」を渡すことができると猫のように「喉を鳴らしそうに」媚びた様子で「マッチは?」と店主に聞いています。店主が頷くと「咄嗟に(!)」マッチを一箱取り出しました。

この辺りの記述で、その娘が自立した女房であるというよりは、依存的な子供らしさを見せる女性であることがよく分かります。

このような娘の反応には、それが予想できないところがあります。娘らしいという点での新鮮さの一つの要素には、分かり切った退屈さとは異なる、娘がどんな風に動くか分からない、反応の瑞々しさのようなものがあるということです。

そのような娘に対して、保吉はどうやら一度だけ、悪魔のような心持ちに傾いたことがあったようです。

それは先にも述べた、口から出まかせを言って娘と小僧に、希望のココアの銘柄を探させた時のことだったのですが、どうやら保吉は、娘が鼻から汗をかいたりなどしている様子が滑稽でもあり、また変に従順でもあったためか、一つ引っかけてやりたくなってしまったようなのです。

すなわち、目を合わせたり、指先をちょっと触れさえすれば、まるで「含羞草(おじぎそう)」のように反応を見せるだろうと思ったのです。すでに自分の方に、恋愛感情とは全然違いますが、力関係として傾いているその娘を、もう一歩自分の方に転がしてやりたい悪い気持ちを抱いたということです。

ただ、保吉は、おそらくはそこまでのことをするだけの価値はないと、倫理的というよりはドライな見積もりで、それを思いとどまったようです。

この時は、保吉は悪魔に囁かれたとも言えるのですが、一方で、天使に囁かれたような場面もあったようです。

それは、娘が店先で店主と話して、「ゼンマイ珈琲」が実は「玄米珈琲」の聞き間違えだったことに何か納得しているらしい時に保吉が話しかけたので、娘がいつも以上に顔を赤らめた時でした。

どうやら、その時だけは、保吉は「殊勝に」返事をしたようです。すなわち、普段の必要以上の感情を持ち込まない返答なのではなく、ある種の労りのような気持ちを持って返事をしたということです。

このように、娘に対しては悪魔に囁かれたり、天使に囁かれたりもして、この時は普段以上の歩み寄りを自ら見せもしたのですが、その後娘がその店から姿を消します。

それでも、保吉はその理由を店主に尋ねることができません。これは、保吉にその気がなかったとも言えますし、他者との関わり方に心からの積極性を持つことができていないために叶わなかったとも言えます。

そして、作品は最後の場面へと移ります。はにかみ屋であったはずの娘が「図図しい母親」に代わってしまったことを、保吉は発見するのです。

これは変に男性的に過ぎない心持ちに過ぎないのかもしれませんが、勘定台の向こうに座ってお客の相手をしたり、自分の他愛のない会話を他人に聞かれたりするより、人前で「あばばばばばば、ばあ!」と赤ん坊をあやすことの方が、余程大胆なことのようにも思われます。

そのような大胆さを娘が得たことを一方では祝福する一方、保吉は「しかし娘じみた細君の代りに図図しい母を見出したのは、......」と語っています。

場合によっては横柄とも言える、社交とも言えない社交しかできない、しかし知識人として職業上立派であると言えなくもない保吉は、母となった娘と目が合っても、何も言ってやることもできません。

そうではなく、「我知らずににやにや笑い出し」て、「図図しい母」を見出してしまったことに何かを思いながら歩いてゆきます。

作品の最後の一文は「空には南風の渡る中に円い春の月が一つ、白じろとかすかにかかっている」という記述で終わっており、寂寥感を伴いつつ、保吉の心象風景が比喩的に語られているようです。

ここに、私は芥川らしい、知的でありながらも詩的でもある作品の雰囲気を感じることができると思います。

すなわち、保吉はただ、「図図しい母親」に対して、小利口な嫌悪を感じているのではなく、「南風」や「円い春の月」を生々しく感じるような、自然的な心も同時に持っているのだということです。

もし、この作品が、単に「図図しい母親」の俗っぽさのようなものを、世の中のありふれた退屈を嫌悪する知的な立場として描いただけのものであったのであれば、後世に読まれるべき程のものではなかったでしょう。

保吉は近代的な知識人なだけあって、全てがありふれたものに見えてしまうような退屈な自意識を抱えてしまっていますが、その一方で、全てに触れ得る心も同時に持っているようなのです。

その矛盾が、退屈な自意識の問題というものを、単なる思考実験上のものでなしに、より生々しく、読者に迫る形で訴えているところに、この作品のどこか悲しい魅力があるのではないかと、私は思います。

 

2. 参考文献

芥川龍之介「あばばばば」『戯作三昧・一塊の土』(新潮文庫)

 

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