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カフカ「あるアカデミーへの報告」の解説【出口と自由の解釈】

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この記事では、カフカ「あるアカデミーへの報告」を解説していきます。私は光文社古典新訳文庫の翻訳で読んでいますが、この文庫では、タイトルが「アカデミーで報告する」と翻訳されています。

この作品は解釈が難しいですが、その鍵は「出口」や「自由」といった言葉の意味の理解にあります。この記事では、これらの言葉を中心に、カフカ「あるアカデミーへの報告」を理解していきますので、お付き合い頂ければ幸いです。

 

1. あらすじを簡単に

この記事の読者の皆様は、おそらく「あるアカデミーへの報告」を一度読んだことがあるのではないかと思いますが、便宜のため、ここで作品のあらすじを簡単に確認しておきましょう。

アカデミーというのは学会か、大学の講演かは分かりませんが、元猿であり、努力の末に人間の仲間入りを果たした、通称赤のペーターが演壇に立っています。元猿というのは比喩ではなく、生物学的には猿です。体は毛むくじゃらです。

しかし、ペーターは人間の言葉を喋りますし、人間の作法も分かります。ペーターはサーカスの一流の演者です。あるサーカス団に所属しているのか、フリーの演者なのかは分かりませんが、人間のマネージャーが付いています。ペーターは人間として、人間社会において認知されているわけです。

そんな元猿のペーターに、アカデミーの人達は彼が猿であった時の話をするように依頼しました。そこで、ペーターは猿であった頃の記憶は不鮮明であると断りながらも、自分が猿から人間へと生まれ変わった時の経緯について語ります。

そこでペーターが語ったのは、追い詰められた猿が狭い檻から脱出するために、猿であることを捨てて人間になるべく努力した、ある意味華麗な転身劇なのでした。その努力のおかげでペータの人間としての地位は安泰と言えますが、ペーターの人間としての成功は果たして彼の幸福であるかどうか、私たち読者には今一つ分かりません。

 

2. 「あるアカデミーへの報告」の解説

(a)「出口」と「自由」

この作品の解釈が難しいことは言うまでもありません。その理由は色々あるかもしれませんが、私が感じたのは、作中に登場する「出口」や「自由」という言葉の意味が分かりにくいぞ、ということでした。

まず、「出口」という言葉は、元々西アフリカの黄金海岸にいたらしいペーターがハンターに捕獲され、狭い檻の中に入れられてしまった時の事を振り返って、この言葉を使用しています。すなわち、ペーターはその時、「生まれてはじめて出口がなかった」のでした。

ペーターは檻に人が近づくと「歯をむいて舌を出したり」していたようですが、そんなこともしても、ペーターは「出口がない」ということを感じるばかりでした。檻は非常に狭く、ペーターは中腰で立ち、お尻を檻の柵に食い込ませながら小さくなっていなければなりませんでした。

これまではいくらでも出口はあったのに、いまはひとつもない。身動きひとつできなかった。(…)出口がなかった。でも出口を見つけなければ。出口なしでは生きていけないからだ。

檻に閉じ込められているペーターの思考において、「出口」という言葉がいかに中心的な役割を占めていたか、何となく伝わってくるものと思います。

この時点では、まだ「出口」という言葉は、単純に「脱出」のような意味合いであるように思われるかもしれません。つまり、檻から出ることです。ただ、先の引用をよく読んでみると、ペーターは「出口なしでは生きていけない」という風に言っており、どこか人生論的な意味合いが込められているようにも読めます。

そして、解釈は決定的に複雑化していきます。

出口とはなにか。ぼくの理解していることが精確に理解されているのかどうか、心配です。ごくごく日常的で、ごくごく広い意味でぼくはこの言葉を使っているのです。わざと自由とは言わない。つまり、すべての方向にひらかれた自由という、偉大な感情のことではないのです。

この引用から分かることは、①「出口」とはごく日常的な意味での出口であり、②「出口」と「自由」とは別の概念である、ということです。私はこの辺りで、一回意味が全く分からなくなりました。ごく素直に考えれば、「出口」=脱出=「自由」という図式が成り立つはずだからです。

だから、カフカは「出口」はごく日常的な意味のものだ、と書いているかもしれませんが、それをそのまま信じても理解できないので、読者はこの「出口」と「自由」という概念の意味合いを自分で考えて見る必要があると言えます。

 

(b)「出口」の意味

ペーターは以下のように言っています。

いまにして思えば、ぼくはすくなくとも気づいていたようです。生きるつもりなら、出口を見つけなきゃならない。でも出口は逃げたって見つからないんだ、と。

また、解釈が複雑になってくるようです。というのも、ペーターによれば、「出口」とは逃げることではないのですが、常識的な感覚で考えれば、逃げることも「出口」の意味内容に含まれそうなものです。ここで、決定的に「出口」=脱出という図式は崩壊することになります。

では、「出口」とはどういう意味なのかと言うと、そのヒントは、当然この後のペーターの行動にあります。すなわち、ペーターは檻の外に出るために、猿であることを放棄して、人間になることを考えつきます。猿だから檻に閉じ込められるのであって、人間になってしまえば、檻の向こう側の存在になれる、ということです。

この逆転の発想は確かに逃げではなく、飛び込むことでした。すなわち、人間社会への同化です。だから、猿という存在を捨てることが「出口」であり、人間という存在に成り切ることが「入口」であったと言えるでしょう。ただ、出口と入口とは、ここでは同じものです。

しかし、「出口」とは猿でなくなることである、というと、ペーターの「出口なしでは生きていけない」とか、「生きるつもりなら、出口を見つけなきゃならない」とかいった言葉が生きてこなくなります。そのため、読者は更に、ペーターにとって猿でなくなることとは何だったのか、を考えていく必要があります。

まず、ペーターにとって、猿であることは、自分自身であることです。これまでの自分自身のままであることと言っていいでしょう。普通に生活している限り、ペーターは自分自身のままであることに大きな問題を感じないはずですが、今回は致命的な状況に追い込まれてしまっています。

猿、すなわち、これまでの自分自身のままであるペーターは、檻に近付く人間に「歯をむいて舌を出したり」しました。これは自己と他者との間に線引きをし、敵対の意志を示すことです。このままではペーターは檻から出られないので、ここでは自分自身でいることは絶体絶命で八方ふさがりな状況を意味します。

ペーターが人間社会に溶け込むという方向に舵を向け直したことは、この危険状態を脱して、より安全な状態に移行することでした。すなわち、ペーターは自己を捨て、相手側社会に溶け込むことで、危険から安全への移行を遂げたことになります。八方ふさがり状況から脱したのです。

ペーターは「これまではいくらでも出口はあった」と言っています。すなわち、猿であった頃のペーターは、今回のような一見「出口」のなさそうな状況には遭遇してこなかったということです。

それは、猿社会の中で、自分自身を全的に放棄するような厳しい場面に遭遇しなかったということでしょう。これまでは、自己の微調整程度の「出口」があれば十分な、比較的社会的な摩擦を感じない生活を送っていたのです。

ところで、ペーターは以下のようにも言っています。

どうしてぼくが人間になれたのか。かたくなに自分の生まれや若いころの記憶にこだわろうとしなかったからでしょう。自分にたいするあらゆるこだわりを捨てること。それこそが自分に課した至上命令だった。

人間(あるいは猿も)の人格は社会生活によって形成されていきます。それは特定の小社会の影響を大きく受けるものなので、学校とか職場とか、環境が変われば、今まで形成してきた自分では上手く交われないことがあります。

基本的に、環境が変わっても、自分を微調整していけば大きな問題にならないことが多いものです。しかし、場合によっては、そのような微調整ではどうしようもない場面も想定されます。

そういう時、いたずらに新しい環境や、その環境の人間との間で摩擦を起こしていくことは、この作品の文脈では逃げることだと言えるでしょう。

一方、その全く未知で、異質な環境に飛び込み、同化して成功してしまうことは、この作品では逃げることの反対にある行為です。

八方ふさがり状況から脱するため、敢えて未知という危険に飛び込み、一転して社会的な安全・安心を得ること、これが「出口」の意味であると言えます。ペーターが飛び込んだ「出口」の先にあったのは、人間社会での安全・安心な地位でした。

ペーターの「出口なしでは生きていけない」とか、「生きるつもりなら、出口を見つけなきゃならない」という言葉は、生きるためには環境やその環境の人間との間に調和を見出し、自己調整していかなければならない、という意味だと考えられます。

 

(c)「自由」の意味

ペーターによれば、「自由」とは、「すべての方向にひらかれた自由という、偉大な感情」と人間が思っているもののことです。ただ、人間が実際に感じている自由の感情は錯覚の場合が多いと、ペーターは指摘します。

例えば、ペーターはサーカスにおいて、仲間の曲芸師のペアの、空中ブランコのパフォーマンスが「手前勝手な運動だな」と思われると、「神聖な自然を馬鹿にしてる」ように感じられて、どうやら滑稽なようです。少し分かりにくいですが、曲芸のような一見自由奔放に見える動きも、動きの自然さというものを失えば、もう何とも名付けようもないものになってしまうということです。

これらを考え合わせると、「自由」とは「すべての方向にひらかれ」ている感覚を伴うものなので、本来の自分のまま随意に行為できることであるが、更にそれが妙な作為の影響を受けず、自然体であること、と言えます。

先ほどの「出口」と異なり、「自由」に関する記述は少ないので、考察も難しいところがあるのですが、このように考えてみると、「出口」と「自由」とが相入れない概念であることが分かります。

というのも、「出口」とは自己と他者(新しい環境)との摩擦状況において、敢えて新しい環境に飛び込むことで、かえって社会的な安全・安心を得ることでした。そのためには「自分にたいするあらゆるこだわりを捨てること」が必要であったと、ペーターは述懐しています。つまり、自然体であることは問題ではないのです。

一方、「自由」はより理想的、あるいは空想的な概念であると言えます。随意に行動することができて、それが自然体でもあるということは、社会生活を送る上ではあまり期待できませんし、多くの人がその自然体であることを捨てることで、社会的な地位を得ている節があります。

ペーターは「昔もいまも自由を求めません」と言っています。ペーターがより現実的な行動によって、具体的な成果を求めていく意志を持っていることが分かります。ペータにとっての「自由」は、今回の状況では海に飛び込んで死ぬことを意味したと言っていいのであって、生きることを重視するペータには、現実的な選択肢とは思われなかったようです。

 

(d)更なる考察

一度、ここまでの結論をまとめておきましょう。

①「出口」とは、八方ふさがり状況から脱するため、今までの社会を抜け、またはそこで形成された自己を捨て、未知で危険な新しい環境に敢えて飛び込むことで、一転して社会的な安全・安心を得ること。

②「自由」とは、随意に行動し、かつそれが自然体でもある理想的状態のこと。

私がここで感じるのは、ペーターの言う「出口」の概念が随分勇ましいものだな、ということです。ただ、同時に、私はこの「出口」という言葉がどうしてもポジティブなものだとは思えません。

例えば、ペータは冒頭でこんなことを語っています。

最初のうちぼくは、人間に望まれれば、大きな門を自由に通ってサルに戻れた。地上にかぶさっている空が大きな門だったのです。しかしぼくがムチ打たれてどんどん成長していくと同時に、門はどんどん低くなり、狭くなった。ぼくはますます人間界に閉じこめられた感じがして、居心地がよくなっていった。

ペーターは努力によって人間社会に同化していったのですが、そのことを、「ますます人間界に閉じ込められた感じがして、居心地がよく」なっていく過程であったと言っているようです。

このように、社会に埋没していくことは、ある意味社会人としての成長とも言え、ますます社会的に安全・安心の地位を得ることで、「居心地がよく」なっていくことも理解できます。しかし、これが人間の人生における理想とは言えなそうです。

ペーターは、人間に同化していく自分を振り返って、「この進歩! 目覚めはじめた脳に、あらゆる方面から知の光線が浸透していったわけなのです」と言っており、今回のアカデミーでの講演の目的を「知識をひろめること」だと言っています。

すなわち、ペーターにとって、本来異質である人間社会に同化するメリットは、実生活に根ざす知識を得ることだと言えるのですが、果たしてそんな動機だけで、人間社会に埋没して生きていくことに積極的になれるものなのか、私は疑問に思います。

ペーターは人間社会に同化するという方向で突き進み、一流のサーカス演者になり、人間のマネージャーを使い、パーティに出席したりと、社会的な成功を収めています。ただ、そのことがすなわちペータの幸福を意味しないであろうことは、作品には直接的には書いてありませんが、私には明確であるように思われます。

そもそも、今回の「出口」の概念は勇気に満ち満ちているようですが、作者のカフカ自身はというと、そういう人生を敢えて生きた人物ではありません。むしろ、その対極にあるような人です。

新潮文庫から、『絶望名人カフカの人生論』という良書が出ていて、カフカ自身の言葉がたくさん紹介されています。カフカを知る上で重要な言葉は多くあるのですが、「あるアカデミーへの報告」を理解する上で重要なものを二つだけ選んで、ここにご紹介致します。少し長いですが、

この前、ぼくが道ばたの草の繁みに寝転ぼうとしていると、

仕事でときどき会う身分の高い紳士が、

さらに高貴な方のお祝いに出かけるために、

着飾って二頭立ての馬車に乗って通りかかりました。

ぼくは真っ直ぐに伸ばした身体を草の中に沈めながら、

社会的地位から追い落とされていることの喜びを感じました。

人間社会におけるペーターの成功は、「社会的地位から追い落されている」ことに喜びを感じるカフカからすれば、決して理想的な生き方ではないでしょう。一見、カフカはペーターの勇気や現実主義を、現代社会での生活における真実のように書いているのですが、これは作者本来の考えとは言えません。

いや、あるいは真実であることには変わりないとしても、カフカが感じている理想の人間生活ではないと言う他ありません。最後に、もう一つだけ引用しましょう。

死にたいという願望がある。

そういうとき、この人生は堪えがたく、

別の人生は手が届かないようにみえる。

イヤでたまらない古い独房から、

いずれイヤになるに決まっている新しい独房へ、

なんとか移してほしいと懇願する。

私はこの言葉を発見した時、すぐに「出口」という言葉を思い出しました。古い独房から新しい独房へ移ること、カフカの本来の感覚で言う「出口」は、実はこういうものなのだということが分かります。ペーターが飛び込んだ人間社会は、新しい独房なのであって、決してポジティブなものではありません。

こういう意味でも、「あるアカデミーへの報告」という作品は難しく、カフカ本来のメッセージを発見することは、なかなか困難です。

ペーターの成功を皮肉として描いているのかもしれませんし、人間社会の外側にいるカフカが見せる、人間の平凡な社会生活への憧憬が語られているのかもしれません。その答えは案外カフカ自身も分からなかったと、私は思っています。

 

3. さいごに

以上、カフカ「あるアカデミーへの報告」を解説していきました。

この作品では、人間の生き方の一つの真実として、社会に溶け込んで、それによって社会的な安全・安心を得るという方向性が描かれています。

この同じ方向性は「掟の前で」という作品でも確認できるのですが、カフカが本当に納得できる考え方ではないようです。

それにも関わらず、現代人はこのような方向性と無縁では生きられないという事実が一方にはあり、そのことが、解釈は難しくとも、カフカが評価される理由の一つになっていると言えそうです。

 

4. 参考文献

カフカ「アカデミーで報告する」『変身/掟の前で 他2編』(光文社古典新訳文庫)

頭木弘樹編訳『絶望名人カフカの人生論』(新潮文庫)

 

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