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決定版!芥川龍之介の生涯【どんな人?】

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1. 芥川龍之介の生涯

この記事では、芥川龍之介の生涯について書いていきます。

 

〇芥川龍之介ってどんな人?

芥川龍之介が作品を発表していたのは大正時代と昭和時代の初期のことです。

現代の私たちに最も有名な作品は「羅生門」(1915年)だと思いますが、芥川が有名なったきっかけの作品は「鼻」(1916年)で、これは夏目漱石の激賞を受けました。

芥川龍之介と言えば、新思潮派や理知派、あるいは芸術至上主義という呼称が用いられますが、芥川が芸術至上主義を主張した作品に「地獄変」(1918年)があります。

神経症的な症状は作家になってから比較的すぐに見えていましたが、1927年の7月24日に芥川は致死量の薬を飲んで自殺します。

芥川の「河童」(1927年)や、遺稿の「歯車」、「或阿呆の一生」には、精神を病んだ芥川の内面世界が力強く描かれており、現在でも多くの読者を引き付けています。

 

〇幼少年期

芥川龍之介は、1892年3月に東京で生まれました。実の父親は牛乳販売業を営む新原敏三であり、母親はふくと言いました。

芥川自身の述懐によると、「辰年辰月辰日辰刻の生まれ」だったため、龍之介と命名されたそうです。

芥川は長男ですが、実の姉が二人います。しかし、長女の初は芥川誕生の前年に夭折しています。

また、実の母・ふくは芥川を生んだ年の10月に当然発狂し、1902年、芥川11歳の時に亡くなりました。

実の母親が精神障害を患っていたことで、芥川自身、後年、自分も発狂するのではないかと悩むことになりました。

ふくの精神障害については、「或阿呆の一生」で触れられているので有名な話ではあるのですが、芥川はこの事実を、晩年に至るまで隠し続けました。

ふくの発狂後、芥川はふくの実家の芥川家に預けられ、後に養子となります。芥川は特に伯母・ふきに可愛がられ、教育を受けました。

芥川は江戸の文学や漢文学にも教養が深いのですが、そのきっかけを作ったのが、この伯母であったと言えます。

芥川自身も「文学好きの家庭から」の中で、「伯母がいなかったら、今日のような私が出来たかどうかわかりません」と言っています。

また、「或阿呆の一生」の三(家)には、「彼の伯母はこの二階に度たび彼と喧嘩をした。(...)しかし彼は彼の伯母に誰よりも愛を感じていた。一生独身だった彼の伯母はもう彼の二十歳の時にも六十に近い年よりだった」とあります。

小・中・高の芥川は常に成績優秀で模範的な生徒であり、また、東京帝国大学英文科は二番の成績で卒業しました。

芥川は小学校高等科の時代に、すでに回覧雑誌を作り、おとぎ話や冒険小説を書いていました。

中学校時代には、後にブラジル日系人社会で有名になる山本喜誉司(きよし)と友人になりますが、その姪が塚本文でした。文は後に芥川と結婚する女性ですが、彼らは幼馴染だったのです。

高等学校時代の同級生には生涯の友も多く、菊池寛、久米正雄、成瀬正一、松岡譲などがいました。4歳年長の恒藤恭(つねとうきょう)とも親しみ、カントなどの哲学について議論したと言います。

芥川が自殺時に遺した文章に「或旧友へ送る手記」というものがあるのですが、その文章中に、おそらく恒藤を「君」として書いている部分があります。

君はあの菩提樹の下に「エトナのエムペドクレス」を論じ合った二十年前を覚えているであろう。僕はあの時代にはみづから神にしたい一人だった。

ここに見られる、自分自身を神のように感じている芥川の自我と、同じ頃にボードレールやストリンドベリーなどから学んだ芸術至上主義は、後に「地獄変」などに結実すると共に、芥川の深刻な自意識の問題に繋がったと言えます。

 

〇文壇登場

1913年、芥川は東京帝国大学の英文科に入学します。翌1914年、菊池、久米、松岡、成瀬などと共に、同人誌・第三次『新思潮』を創刊しました。

そこで、芥川は小説や戯曲などをいくつか発表しますが、その中では、「大川の水」が特に注目されています。

大川というのは、隅田川の吾妻橋から新大橋辺りの部分のことであり、芥川の育った町の風景を成すものでした。

幼い時から、中学を卒業するまで、自分は殆ど毎日のように、あの川を見た。(...)自分はどうしてこうもあの川を愛するのか、あの何方かと云えば、泥濁りのした大川の生暖かい水に、限りない床しさを感じるのか。(...)唯、自分は、昔からあの水を見る毎に、何となく、涙を落としたいような、云い難い慰安と寂寥とを感じた。

この年、芥川は友人の成瀬と共に精神病院を見学したり、医科大学で人体解剖に立ち会ったりしています。後者は特に、芥川が死体の描写を行う上で重要な体験であったと言えます。

また、翌1915年の2月頃にかけて、芥川は吉田弥生という女性と恋愛しますが、これは芥川家の反対で不調に終わってしまったようです。

そして、1915年と言えば、芥川の「羅生門」が『帝国文学』に掲載された年です。

しかし、「羅生門」は今では芥川の作品中、最も有名なものになっていますが、発表当時の反響はほとんどありませんでした。

芥川の「羅生門」が正当に評価されるようになったのは、1917年に第一創作集を『羅生門』の題で出版して以後のことだったと言います。

1915年の11月、芥川は久米正雄と共に夏目漱石の木曜会に出席しました。夏目漱石が死去する翌年の12月まで、芥川は漱石山房に出入りして、多大な影響を受けました。

特に、夏目漱石の方も芥川らの新人には期待していて、1916年、第四次『新思潮』に掲載した「鼻」が夏目漱石の激賞を受けたことをきっかけに、芥川は文壇に登場することになりました。

1916年7月には、芥川は東京帝国大学英文科を卒業しています。席次は二番で、卒業論文は「ウイリアム・モリスの研究」でしたが、小説執筆が忙しく、何とかまとめて提出したのだそうです。

卒業後、芥川は当時の代表的雑誌『新小説』に「芋粥」を、新人作家の登竜門『中央公論』には「手巾」を発表しました。これにより、芥川は文壇へ華々しいデヴューを果たしたのでした。

また、同じ頃、芥川が塚本文へ宛てて書いた求婚の書簡が残されています。

僕には、文ちやんの口から、かざり気のない返事を聞きたいと思つています。繰返して書きますが、理由は一つしかありません。僕は 文ちやんが好きです。それだけでよければ 来て下さい。

1916年の12月には、紹介により、横須賀の海軍機関学校の英語教師となりました。後に作家として新聞社の社員になるまで、芥川は教職を続けました。

同月9日、師匠の夏目漱石が50歳で亡くなりました。芥川は衝撃を受けたようで、塚本文に宛てて、以下のように書いています。

僕はまだこんなやりきれなく悲しい目にあつた事はありません今でも思ひ出すとたまらなくなります始めて僕の書く物を認めて下すつたのが先生なんですから

夏目漱石の死は作品としては「枯野抄」に繋がり、また、「或阿呆の一生」には「彼は巻煙草に火もつけずに歓びに近い苦しみを感じていた。『センセイキトク』の電報を外套のポケットへ押しこんだまま。......」とあります。

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〇芸術至上主義

1917年10月から、芥川は『大阪毎日新聞』上で「戯作三昧」を連載しました。

この作品は江戸時代の読本作家・滝沢馬琴の創作三昧の境地を描き、芥川自身の芸術観を表現したものと言えます。

ただ、「戯作三昧」における馬琴は倫理の外にある人物ではなく、後の「地獄変」における、倫理の外に置かれた芸術至上主義に至るまでは、まだ一歩距離があります。

すでに1917年5月に第一創作集『羅生門』を出版していた芥川ですが、11月には第二創作集『煙草と悪魔』を出版しました。

1918年までに、芥川は人気作家の一人として、文壇上に地位を得ていました。当時の芥川は新思潮派、理知派、新技巧派などと呼称されました。

1918年は「地獄変」に代表される年ですが、ある意味で、芥川の最も充実した時期であったと言ってもよいかと思われます。

1918年の2月、芥川は塚本文と結婚し、一時鎌倉に居を構え、海軍機関学校で教職を務めながら、執筆を行いました。

この時、芥川は「地獄変」を執筆中で、友人の松岡に宛てて、「新婚当時の癖に生活より芸術の方がどの位つよく僕をグラスプするかわからない」と書いています。

その「地獄変」は5月に『大阪毎日新聞』上で連載されました。

倫理を含め、全てを超越した位置に芸術を置く姿勢が示されたのですが、この芸術至上主義の姿勢は芸術家としての芥川を特徴付ける一方、芥川自身を苦しませもしたように思われます。

この頃、芥川は高浜虚子の指導を受けながら、句作も行っています。句誌の『ホトトギス』では、「我鬼」の号で数句を発表しています。芥川によれば、「我鬼」とは、中国語で「自我(エゴ)」のことなのだそうです。

1918年7月には「開化の殺人」が発表され、一連の「開化物」に繋がりました。

 

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また、同月には『赤い鳥』に「蜘蛛の糸」が掲載されました。これは主宰者の鈴木三重吉を感嘆させ、児童文学でも才能を発揮しました。

9月には「キリシタン物」の代表作「奉教人の死」が発表されています。この作品における『れげんだ・おうれあ』という書物は芥川の創作なのですが、実在する未知のキリシタン書籍と勘違いされ、一時巷を騒がせたそうです。

1918年の10月には「枯野抄」が発表されています。松尾芭蕉の臨終に集まった弟子たちの微妙な心理を描いたもので、夏目漱石の死に臨んだ芥川自身や周囲の人間の観察が背景にあるようです。

 

〇1919年から26年

1919年1月には第三創作集『傀儡師』が刊行され、「奉教人の死」、「地獄変」、「戯作三昧」などが収められたこの作品集は、芥川史上、最も充実した一冊であったと言うこともできます。

しかし、同月に芥川は「あの頃の自分の事」という、大学生時代の自分を振り返った文章を発表しており、以後、私小説に近い方向性を示すようにもなります。

前年の「地獄変」で示した芸術至上主義は芥川の創作を完全に方向付けることはできなかったようで、「龍」(5月発表)ではマンネリズムに陥ったと芥川自身告白しているように、創作上の迷いを感じるようになりました。

1919年の4月には大阪毎日新聞の社員となり、海軍機関学校は辞職、創作のみで生活することになりました。同社とは、他の新聞には文章を掲載しないといった条件で、月俸が支払われる契約が交わされました。

また、同じ頃に田端の実家に戻り、養父母達と生活を共にするようになりました。二階の書斎は「我鬼窟」(後、「澄江堂」)と呼ばれ、執筆に専念しました。

この年の重要事件は、岩野泡鳴を中心とした集まりの十日会に出席して、そこで女流歌人の秀しげ子と知り合ったことです。

一時、芥川と秀しげ子とは深い関係になったようですが、後に、芥川は彼女の「動物的本能」(「或阿呆の一生」二十一)の強さを批判するようになります。

また、同じ頃に宇野浩二とも知り合いました。「或阿呆の一生」の五十で発狂した友人として語られているのは宇野のことです。

社員となった大阪毎日新聞で初めて発表したのは「路上」(1919年6月)でしたが、これは未完に終わりました。芥川は新聞掲載の作品としては、結局、「地獄変」を超えるものは書けなかったとも言われます。

意外なことに、この年の11月、芥川は菊池寛と共に初めて講演を行っており、芥川はこれ以後、しばしば講演を行うようになりました。

1920年4月には長男・比呂志が生まれました。同じ頃、秀しげ子を題材とする「秋」という作品を書いています。

1921年の3月末から7月にかけて、芥川は大阪毎日新聞社の海外視察員として、中国に取材に行きました。しかし、中国で暴動があったり、体調不良が重なったりしたため、満足な取材が出来たとは言えませんでした。

それでも、芥川は取材の結果として、「上海游記」や「江南游記」など、いくつかの文章を発表しました。

しかし、中国旅行後の執筆に追われ、また体調不良も重なり、1921年末には睡眠薬なしでは一睡も出来ない程の神経衰弱症に陥りました。

とはいえ、芥川は執筆の手を休めることはありませんでした。1922年の代表作は「藪の中」ですが、これは黒澤明監督の「羅生門」(1950年)の原作となりました。

1922年の11月には次男・多加志が誕生しました。多加志は1945年に学徒兵として出陣したビルマで戦死しました。

1923年1月、菊池寛が『文芸春秋』を創刊しましたが、芥川はこれに「侏儒の言葉」を掲載して協力しています。

同年の7月に白樺派の有島武郎が波多野秋子と軽井沢の別荘で情死した事件は、芥川にとって少なからず衝撃的だったようですが、この時の芥川は「死んじゃ敗北だよ」と語ったと言います。

9月1日の関東大震災の時には、芥川は自宅にいたようですが、幸い、芥川は屋根瓦が落ちる程度の被害しか受けなかったようです。

翌1924年にはほとんどの有力紙が震災後の復刊を果たし、芥川は「一塊の土」などを発表しています。農婦の労働づくめの一生をリアリスティックに書き上げた作品で、正宗白鳥の激賞を受け、芥川は喜びました。

この年の7月には軽井沢で松村みね子と知り合い、恋愛の危機に陥りました。「或阿呆の一生」(三十七「越し人」)によれば、「彼は彼と才力の上にも格闘できる女と遭遇した。が『越し人』等の抒情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した」のだそうです。

1925年から翌年にかけては、「大導寺信輔の半生」、「年末の一日」、「点鬼簿」などの告白的性格の強い作品を発表しています。

1925年の7月には也寸志が誕生、也寸志は後に音楽家となりました。

1926年3月、芥川は室賀文武(むろがふみたけ)に聖書をもらい、熟読しますが、信仰には至りませんでした。

4月から妻・文の実家のある鵠沼(くげぬま)に生活の拠点を移しますが、痔などの身体的疾患、下痢、不眠症、幻覚、分裂症的兆候、関係妄想などに苦しみました。

その中、10月には「点鬼簿」を発表し、初めて実母・ふくが精神障害を患っていたことを明かしました。

芥川は「点鬼簿」の中で、「僕は墓参りを好んではいない。若し忘れていられるとすれば、僕の両親や姉のことも忘れていたいと思っている」と言っています。

 

〇自殺(1927年)

芥川が自殺するのは1927年のことですが、この年は芥川にとって、正月から大変な一年でした。

1月4日、弁護士の義兄・西川豊の自宅が全焼しましたが、不審火として、西川は放火の嫌疑を受けることになりました。

前年に偽証のため弁護士資格を剥奪されていた西川でしたが、1月6日に鉄道自殺してしまいました。

そのため、芥川は事態収束のために東奔西走することになります。この時、芥川は斎藤茂吉に宛てて「来世には小生も砂に生まれたし」と書いています。

その中、芥川は「玄鶴山房」(2月)を完成させています。芥川自身は、これを「陰鬱極マル力作」と呼んでおり、芥川の最高傑作と評する論者もいます。

3月に発表されたのが「河童」です。元々は現実とは正反対の世界を描くつもりだったようですが、実際には、芥川の鬱屈した気持ちと、暗い現実世界とが描かれることになりました。

芥川自身も、「河童」は「あらゆるものに対する、―就中僕自身に対するデグウ(嫌悪感)から生まれ」たと言っています。

この頃、斎藤茂吉に宛てた手紙の中で、芥川はしばしば悩まされてきた「歯車」に言及しています。

この頃半透明なる歯車あまた右の眼の視野に廻転する事あり、或いは尊台の病院の中に半生を了ることと相成るべき乎。

この歯車は医学的には閃輝暗点と言って、視界に半透明の歯車のようなものが回転すると共に、強烈な頭痛に襲われるものです。芥川が恐れたように、精神障害に繋がるものではありませんが、当時はどのような症状か分からなかったようです。

4月には谷崎潤一郎との間で論争になりました。

これは、谷崎が小説の「筋の面白さ」に価値を置いたのに対して、芥川が「『話』らしい話のない小説」(「文芸的な、余りに文芸的な」)について語る形で争われた論争と言えます。

芥川自身「僕は『話』らしい話のない小説を最上のものとは思っていない」と言っているので、論争というよりは述懐のようなものにも見えますが、芥川は「文芸的な、余りに文芸的な」の意図を以下のように示唆しています。

僕が僕自身を鞭(むちう)つと共に谷崎潤一郎氏をも鞭ちたいのは(...)その材料を生かすための詩的精神の如何である。あるいはまた詩的精神の深浅である。

この論争の頃、芥川は妻・文の友人・平松麻素子と心中の約束をしましたが、彼女が待ち合わせの帝国ホテルにこなかったため、未遂に終わりました。

6月20日、芥川は「或阿呆の一生」を脱稿し、友人の久米正雄に託しました。芥川は一ヶ月あまり自殺せずに過ごし、その間に、元々四十九までだった「或阿呆の一生」に五十と五十一が追加されました。

その五十一は以下のように書かれていました。

彼はペンを執る手も震へ出した。のみならず涎さへ流れだした。彼の頭は〇・八のヴエロナアルを用ひて覚めた後の外は一度もはつきりしたことはなかつた。しかもはつきりしているのはやつと半時間か一時間だつた。彼は唯薄暗い仲にその日暮らしの生活をしていた。言はば刃のこぼれてしまった、細い剣を杖にしながら。

7月16日には、前年に芥川に聖書を渡した室賀と信仰について語り合いましたが、芥川の運命を変えるには至りませんでした。

7月23日の夜、芥川は「続西方の人」を書きあげますが、翌24日未明、致死量のベロナールおよびジアールを仰いで自殺を決行しました。午前6時頃に妻・文が異変に気付き医者を呼びますが、すでに手遅れでした。

枕元には読みかけの『旧新約聖書』と遺書が置かれていたそうです。遺稿となった作品には「歯車」、「或阿呆の一生」、「闇中問答」、「続西方の人」がありました。

芥川自身の言葉によれば、芥川の自殺の原因は「将来に対する唯ぼんやりした不安」であったようです。「或旧友へ送る手記」には以下のようにあります。

自殺者は大抵レニエの描いたように何のために自殺するかを知らないであろう。(...)が、少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。

芥川の死は文学史上、大きな事件として現在も記憶されています。

 

2. 参考図書

海老井英次『日本の作家100人 人と文学 芥川龍之介』(勉誠出版)

芥川龍之介『侏儒の言葉 文芸的な、余りに文芸的な』(岩波文庫)

芥川龍之介『芥川竜之介随筆集』(岩波文庫)

芥川龍之介『河童・或阿呆の一生』(新潮文庫)

 

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