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主に文学作品の鑑賞によって「教養」をゆるりと追求していきます(りあん)

【解説】私の好きな坂口安吾の「堕落論」を詳し目に紹介してみました!

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今回は坂口安吾堕落論」を詳し目に解説していきます。

この記事は、「堕落論」を読んでみたはいいものの、いまいち内容にピンとこなかった方向けのフォロー、あるいは、実際に作品を読んだことはないが興味はある、という方の予習を目的としています。実際に読んでいる必要はありません。

坂口安吾は「デカダン」とか「アウトサイダー」とか言われる作家で、「堕落論」というタイトルもそれに相応しいものであるようですが、実際読んでみると、安吾の主張は中々理路整然として知的であり、退廃や暴力的破壊意志などは微塵も感じさせません。実は、代表作が「白痴」と「堕落論」なので勘違いされがちですが、安吾はまっとうで健全な作家なのです。

そのことは、解説の中で確かめてゆきましょう。

 

1. この作品の簡潔な説明

人間は倫理など外的な規範によって自己を保つのではなく、堕落してでも、本来の自己を発見するべきで、それは妨げられるべきではない。

 

2. この作品全体の要約

人は堕落する生き物であり、それは人間本来の性質に基づくものである。戦時中に唱えられた「生きて捕虜になるべからず」とか、「未亡人は亡き夫に対して誠実でなければならない」とかいった規範、あるいは歴史上の武士道など、政治的に形成される倫理規範の背後には、人間の堕落傾向に対する直観がある。つまり、それらの規範は堕落に対する防壁なのである。しかし、外的に押し付けられた倫理が真に人間を救済することはない。人間は堕ちるところまで堕ちるべきである。その底辺の地平において自己を回復ししない限り、人間が真に救済されることはない。

 

3. この作品の要点

ここで、作品の要点をいくつか抑えていきましょう。すでに内容のエッセンスは示しましたが、要点を理解することで、安吾の主張をより肉付けされた形で理解していきましょう。

 

①作品の背景

この作品は1946年4月に『新潮』誌上で発表されました。言うまでもなく、人々が戦後の荒廃の中で非常な苦しみを舐めなければならなかった時期です。作品は以下の文章から始まります。

半年のうちに世相は変った。(…)若者たちは花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋となる。(…)けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。

戦地に赴いた若者も、亡き夫を想う未亡人も、戦中の美徳とでも言うべきものを体現していたとすれば、戦後はそれが廃れ、表面上、人々は堕落の道を進んでいるように見えたようです。当然、そのような傾向は批判されたことでしょう。しかし、安吾は続けて次のように言っています。「人間が変わったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。」

この一文に、安吾の人間観、あるいは歴史観が表れています。人々の堕落が見られるところでは、その反動として倫理や道徳を口喧しく説く人間も多く現れてくることでしょう。そして、そのような言説の方を普通、世間は正論と認めるでしょう。しかし、安吾は堕落を人間的事実として認めるべきであるという立場に立ち、この「堕落論」を書きました。正論は正しいかもしれません。しかし、世間で通用する正論が真に人間を直視しているとは限りません。そのような微妙な問題に安吾は切り込みました。

 

②「堕落」の定義

安吾の言う「堕落」とは、「ただ生きるためだけに生きるということ」、あるいは「過去に存在していた倫理的な美徳から人々が遠ざかること」を意味しています。人間は美と醜の間で存在しています。堕落とは当然、美から醜に傾くことなのですが、安吾は堕落する傾向こそが人間の本来の性質だと考えているようです。

 

③堕落と防壁としての規範

安吾は、本来的に人間は堕落するものだと考えています。しかし、世間一般の感覚としては、堕落は嫌われるものです。そして、堕落を防ぐために、人々は様々な倫理的規範を受け入れたり、人に押し付けたりしながら社会生活を送ります。人間の堕落傾向と様々な規範の存在とは、物事の両面を為しているのかもしれません。

安吾の考えによれば、武士道ですら堕落に対する防壁として案出されたものと言えるようです。武士道の重要な規範として「仇討ち」というものがあります。主君の仇は必ず追い詰めて討てという規範なのですが、日本人は本来、主君のために仇を討つといった憎しみのエネルギーなどは持続しない民族なのだと、安吾は考えます。つまり、日本人は放っておいては仇討ちなどしないということなのですが、この点を曖昧さや弱さだとすれば、その弱点を克服するために武士に課された規範が武士道なのです。

戦時中の「生きて捕虜になるべからず」とか、「未亡人は亡き夫に対して誠実でなければならない」とかいった規範も同じことです。つまり、放っておけば、人は捕虜になってでも生きようとするものだし、未亡人だって慰めや新しい人生のために次の恋愛をするものです。その点を弱さだと考える人間がいるので、それに対する防壁として厳しい規範が人々に課されることになります。

 

④堕落と美徳

すでに①において、「戦地に赴いた若者も、亡き夫を想う未亡人も、戦中の美徳とでも言うべきものを体現していた」と私は書きました。世間一般に通用している倫理的規範を体現する人間は、美徳の体現者として、彼ら自体が美であると言えるのかもしれません。であれば人々が堕落を嫌うのは、単に不品行に眉をひそめるだけではなく、かつてあったはずの美が社会から失われていくことへの危機感や、過去を懐かしむ気持ちが影響してのものであると想像できるでしょう。

倫理的規範が人々の隅々まで行き渡り、ある種の理想が実現している社会を善しとする傾向を人間は持っているものです。特に、社会が全体主義的に機能している時にその傾向は強まります。自決も貞淑も美徳だったのかもしれません。反対に、それは単なる不条理であったと言うこともできるでしょう。

しかし、押し付けられた倫理は確かに不条理でもありますが、その体現者は美しく見えるものである、というのは紛れもない人間心理の真実であるように思われます。私たちは美徳を切り捨てられません。しかし、多くの人が他人に美徳を求め始めた時、私たちの世界は窮屈で欺瞞的なものになってしまいます。

 

安吾の経験した「戦争」

空襲が益々激しくなる中、安吾疎開の勧めを断り、東京に残る決意をしました。爆弾に破壊されていく東京と、焼け出される人々を見て、安吾は戦慄しながらも、ある奇妙な感覚を得たようです。

私は戦きながら、然し、惚れ惚れとその美しさに見とれていたのだ。私は考える必要がなかった。そこには美しいものがあるばかりで、人間がなかったからだ。(…)戦争中の日本は嘘のような理想郷で、ただ虚しい美しさが咲きあふれていた。それは人間の真実の美しさではない。そしてもし我々が考えることを忘れるなら、これほど気楽なそして壮観な見世物はないだろう。たとえ爆弾の絶えざる恐怖があるにしても、考えることがない限り、人は常に気楽であり、ただ惚れ惚れと見とれていれば良かったのだ。私は一人の馬鹿であった。最も無邪気に戦争と遊び戯れていた。

爆弾が破壊したのは町だけではなく、人々の生活でした。家も生活も大事です。しかし、安吾は破壊に人々の解放を見ていたように思われます。

生活がなければ人間は生きていけません。しかし、生活があるから、人間は真に人間らしく生きることができないのだと言うこともできるでしょう。生活は時に人間性を蝕み、人々を無感動状態にし、日常を自動的に処理するだけの単調な生を強いるものです。

あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが、充満していた。猛火をくぐって逃げのびてきた人達は燃えかけている家のそばに群がって寒さの暖をとっており、同じ火に必死に消化につとめている人々から一尺離れているだけで全然別の世界にいるのであった。

大きな運命の波は、人々から当面のことを考えるという日常の義務を取り払ってくれたのだと言えます。生活から解放され、単調と消耗から解放され、運命に従順に従う人々は不思議と充実しているように、安吾には見えました。そこには充実があるのであって、堕落はありませんでした。しかし、「堕落ということの驚くべき平凡さや平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間たちの美しさも、泡沫のような虚しい幻影にすぎない」と、安吾は続けて述べています。解放された状態が理想だとすれば、それは理想に過ぎないのであって、やはり人間的な事実ではありません。堕落する傾向こそが人間的な事実なのだと、安吾は考えます。

 

⑥ただ生きるためだけに生きるということ

生きるということは実に唯一の不思議である。六十七十の将軍達が切腹もせず轡を並べて法廷にひかれるなどとは終戦によって発見された壮観な人間図であり、日本は負け、そして武士道は滅びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ。

人間は堕落しているのがむしろ自然な状態だと言えるかもしれません。武士道だけではないですが、倫理的な美徳を体現する人物は美しく見え、また美しい処女は言うまでもなく美であり、決死の覚悟で戦地に赴いた若者達もまた美であると言えます。そこには何か、通常の生を超えたものが見え隠れしているようでもあります。

しかし、人間は堕落します。なぜなら、人間はただ生きるためだけにも生きなければならないからです。国民には自決を迫りながら腹を切ることなく法廷に引かれてくるような軍人たちは当然非難されるべき無数の理由を抱えておりますが、安吾は彼らを非難しているというよりも、むしろ彼らの姿こそが真の人間を表しているのだと見ています。

ただ生きるためだけに生きるということ、空疎で、無意味だが避けられない生活の必然性から逃れることは困難です。逃れようとすれば、若者は自決し、美しい処女は処女のまま自殺し、武士は腹を切り、あるいは討ち死にする他ありません。生きている限り、人間の美などは儚いものなのです。そして、生きるということは、常に堕落の必然性を背後に感じ続けることでもあると言えるでしょう。

 

安吾の結論

戦争は終わった。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。

日本には武士道があり、特攻隊の勇士や未亡人たちの美徳がありました。しかし、それらの倫理的な美徳は人間本来の性質を根本的に変化させたことなど一度もなかったのだと、安吾は考えます。美徳は堕落する前に儚く散っていったからこそ、人々の間で美徳として記憶されてきたのであり、そこに人間の生活という人間的な事実が割り込んでくれば、勇士は闇屋となるのだし、未亡人は新しい恋愛を始めるのです。人間が人間でなくなったことなど一度もなく、私たちはただ、どこか虚しい「人間以上のもの」を幻視していたに過ぎないと言えるのかもしれません。

(人間は)堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。

おそらく、美徳も、悪徳も、俗悪も、それが直ちに私たちを説明するものではありません。私たちは私たちに隠されている。私たちは何らかの決意と手段によって自己を発見しなければならない。そこから真の「充実」がもたらされるかもしれません。また、(自分のための)真の「美徳」が編み出されるかもしれません。主体は私たち一人一人なのであり、政治ではありません。自己の救済者は他でもない自分自身なのだと言えるでしょう。

 

4. 個人的なコメント

安吾の「堕落論」の核心的な価値は、私たち一人一人が持つ、本来の自己のエネルギーとの繋がり方について、安吾が探りを入れてくれている点にあるように思われます。しかし、その自己のエネルギーの発見と復活のための方法論としての「堕落」を安吾自身がどこまで信じていたのかは分かりません。安吾原理主義者ではないので、自身が主張する「堕落」も方法の一つであり、他の手段があるのであれば、それはそれで良しと考えただろうと私は想像します。

この作品のもう一つの意義は、私たちと倫理的な規範との間にある、微妙な関係を意識させてくれるところにあるでしょう。倫理自体、あるいはその体現者としての人間は美しく感じさせることがあります。一方で、倫理は時として不条理であり、欺瞞でもあります。私たちは倫理が胡散臭いものだと知りつつも、場合によってはそれに美を感じるものでもあります。

戦前のような国家主義的・全体主義的な倫理的規範に関しては、現代人は、それが美徳であったと完全に思わなくなったとは言わないにせよ、自分自身の規範としては受け入れないことでしょう。そして、単なる精神論的な規範は嫌われる傾向にあります。

しかし、だからといって私たちの間に倫理的な規範が完全になくなったとは言えません。それは意識困難な形で私たちに常に突きつけられているものです。私はたびたび「現代人の道徳」について考えることがあります。それは、経済成長とか、情報化社会への変化とかいった社会的な目標を実現するために、私たちの一人一人が自己を調整することを求められていることを意味しています。規範は精神的な倫理から、合理的なものへと変化しているのです。そして、私たちは美にも弱いですが、合理性にも弱いものです。

世間一般の倫理やその他の規範は外的なものであって、他人の言葉に過ぎません。それは確かに善いものであるようにも感じられますし、立派に従ってみせれば、それ自体が自己実現であるような感じすらしてくるものですが、やはり、それでは他人が望む自分になってみただけのことに過ぎません。世間一般の声は、おそらく、私たちが私たちの内部にある、本来的な自己のエネルギーと繋がることには貢献しないでしょう。

私たちにとって、「堕落」という手段は望ましくないかもしれません。しかし、それでもやはり安吾は人間の核心に迫っていたように思われます。私たちは他人の声が導く方向に疑わずに歩いていく方が、賢く生きていく上では安心するものです。仮にその先に救済がないと薄々では分かっていても、それを無視することには勇気がいります。もしかすると、世間は私たち自身が本当に自由になって、本当の自己を生きることなど望んでいないのかもしれません。だから、私たちは何らかの手段と決意を持って、自分自身の手で、自分自身を救済しなければならないのだと、そう言えるでしょう。

 

5. 参考文献

坂口安吾堕落論」『堕落論・日本文化私観 他二十二篇』(岩波文庫

この記事の引用は全て上記「堕落論」によるものです。

 

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