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坂口安吾「不良少年とキリスト」解説【安吾の太宰への愛情】

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今回は坂口安吾の「不良少年とキリスト」というエッセイを解説していきます。

この作品は1948年に『新潮』誌上に発表されました。太宰治の死から程なくのことです。

安吾と太宰との間には交友があり、酒を飲んだりする仲でした。安吾はこの作品の中で、太宰の死に対する憤りや割り切れなさを綴っています。安吾は太宰を高く評価していたようですが、その太宰が自死したことで、安吾は自分自身の基本的信念を、改めて確認する必要を感じたようです。

生きるということだけが、大事である、ということ。たったこれだけのことが、わかっていない。本当は、分るとか、分らんという問題じゃない。生きるか、死ぬか、二つしか、ありやせぬ。

これは自戒でもあり、また、ただ太宰に生きてほしかっただけのことかもしれません。

 

1. この作品の中心的な主張

先の引用で示した通り、安吾はこの作品で、人間生きていることが第一で、死んだら全てが終わりであるという信念を半ば自戒として確認しています。

死ぬ時は、ただ無に帰するのみであるという、このツツマシイ人間のまことの義務に忠実でなければならぬ。私は、これを、人間の義務とみるのである。(…)そして、ただ、生きることのみを知ることによって、正義、真実が、生まれる。

死ねば無に帰するという考え方は、もしかすると虚無的に聞こえるかもしれませんが、安吾の真意は必ずしもそうではありません。言わば、人生とはある種のフィクションなのですが、その実在性は、私たちが自分自身の人生にどれだけの意欲を向け、関わり合ってきたかに依存します。それだけが正しい生き方だとすれば、正義も真実も、そのような人間たちの間で発見されたものでなくては嘘であろう、と安吾は言っているようです。

私たちの可能性は、ただ生きている間にだけ存在しているものであり、また、人間の発見する観念や思想の真実性も、人間が現に生きているという事実に由来するものであるのだと、安吾は言いたいのでしょう。

 

2. 主要概念の解説

この作品には読解上意味が気になる言葉が複数登場するのですが、ここでは解明すべき言葉を3つに絞って解説していきます。

 

①フツカヨイ

安吾は太宰の特に死の直前を、「フツカヨイ的」であったと言っています。「フツカヨイ」は当然、「ヨッパライ」の後に来るものです。「ヨッパライ」はこの作品に出て来る言葉ではないのですが、これは、理性が働かなくなって、気が大きくなり、普段とは違った言動を取ってしまうことです。ごく普通の酔っ払いと同じと考えて構いません。

そして、「フツカヨイ」とは、その「ヨッパライ」に対する重苦しい自責、あるいは消え入りたくなるような羞恥のことです。

安吾には、太宰が次のような性質のある人物に見えていたようです。下記引用の括弧内は私の補足です。

たとえば、太宰は私に向かって、文学界の同人についなっちゃったが、あれ、どうしたら、いいかね、と云うから、(私は)いいじゃないか、そんなこと、ほッたらかしておくがいいさ(と答える)。(すると太宰が)アア、そうだ、そうだ、とよろこぶ。

そのあとで、(太宰は)人に向かって、坂口安吾にこうわざとショゲて見せたら、案の定、大先輩ぶって、ポンと胸をたたかんばかりに、いいじゃないか、ほッたらかしとけ、だってさ、などと面白おかしく言いかねない男なのである。

安吾の前で「アア、そうだ、そうだ」と喜ぶ太宰は素直に人懐っこい男に過ぎないのですが、ある種の人達を前にすると、サービスか、虚栄かは分かりませんが、懐いているはずの安吾を取り上げて、「大先輩ぶって」などと毒を吐いてしまうのが太宰だったようです。毒を吐く太宰は「ヨッパライ」で、その後にくる自責が「フツカヨイ」でした。

さて、「フツカヨイ」はそれとして、それ自体文学になりそうではありますが、安吾によれば、

フツカヨイの、もしくは、フツカヨイ的の、自責や追悔の苦しさ、切なさを、文学の問題にしてもいけないし、人生の問題にしてもいけない。

太宰の魅力の一つは重苦しさ、あるいは深刻さなのですが、解決する意志のない自責とのなれ合いは安吾の好むところではなかったようです。安吾は次のように指摘します。

M.Cになるには、フツカヨイを殺してかかる努力がいる

M.C(マイ・コメディアン)については次に解説しますが、ここでは小説家のことだと考えていいでしょう。安吾の考えでは、「フツカヨイ」の状態で作品を書いても大したものにはなりません。それは、俳優が二日酔いで舞台の上に立っても十分な演技ができないのと同じです。

真実の虚構を創造するためには高い精神の力が必要になるのであって、小説家であれ俳優であれ、仮に「フツカヨイ」であっても、作品上それと分かるようでは、あるいは「フツカヨイ」に寄りかかるようでは、いけないのです。

自愛、自己憐憫、自負、自虐、「フツカヨイ」には様々の心理が付きまといますが、高い精神の力が作家の内で働いて作品を練り上げようとしている時に、「フツカヨイ的」な実感をぶちまけるだけでは、その作家の本領発揮とはならないというわけです。

太宰はそれでも十分評価されているように思われますが、安吾は更に一歩高い太宰を見出していたようです。

 

②M.C(マイ・コメディアン)

太宰は、M.C、マイ・コメジアン、を自称しながら、どうしても、コメジアンになりきることが、できなかった。

この言葉は元々は太宰の「斜陽」に登場する言葉です。安吾はこの言葉に特別な意味を込めているようです。

安吾がM.C(マイ・コメディアン)という言葉で表したかったのは、安吾の考える小説家としての理想的な態度です。この言葉に込められた意味は一つではなく、安吾の様々な想いが織り交ぜられているので全てを読み取るのは難しいですが、中心的なイメージを一つあげるならば、それは読者を「楽しませる」ということです。

ただ、単に読者を楽しませるということであれば、「フツカヨイ」でもできないことではありません。実際、太宰の深刻さは青年読者を喜ばせ、多くのファンが太宰につきました。しかし、安吾は次のように言います。

彼らの文学は本来孤独の文学で、現世的、ファン的なものとツナガルところはない筈であるのに、つまり、彼等は、舞台の上のM.Cになりきる強靭さが欠けていて、その弱さを現世的におぎなうようになったのだろうと私は思う。

安吾の言う、「舞台の上のM.Cになりきる」とは、フィクションとそれを生み出す力を信じる、という意味合いです。先に説明した「フツカヨイ」は、よく言えば実感で、直接的に伝わる生の感覚です。そして、出鱈目な方法で「フツカヨイ」を吐露しても、それがウケると知れば、新しいフィクションを生み出す精神の力を信じるよりも、現にファンにウケるであろう作品をサービスとして書こうとする、そのような態度が「弱さ」であると言えるでしょう。

作家はフィクションの世界という「舞台の上」にいなければならないのに、太宰は客席の方に降りて行ってファン・サービスすることに余計な力を使い過ぎていたのだということです。

安吾は太宰の才能を高く評価しているので、もし、太宰がマイ・コメディアンに成り切ることができたのであれば、もっと素晴らしい作品を多く残しただろうと言っています。読者、ないしはファンと一線を引くことで、かえって歴史に残る、人々を楽しませる作品を作ることができたはずだと、安吾は考えているようです。

 

③不良少年

この言葉には特別な説明は不要かもしれません。ただ、一点注意すべきとすれば、不良少年とは悪ガキかもしれませんが、元来は人懐っこく、人からの愛情を多く求めているのだということです。太宰は本来、そうやって人から愛情をもらうことで精神の安定を得る人間だったはずですが、環境がそうさせず、才能とか生まれとか、そういった実力主義的なところで戦い始めたために、生涯自分を苦しめることになりました。

不良少年は負けたくないのである。なんとかして、偉く見せたい。クビとくくって、死んでも、偉く見せたい。

しかし、偉いとか偉くないとかは、本当はどうでもいいのです。太宰は幼い頃に愛情を受け取ることができなかったかもしれませんが、それだから今後一切の愛情は自分は受け取らないと決めつけてしまって、他人に自分を認めさせるための偉さなどを求めても意味がないのです。

彼は、四十になっても、まだ不良少年で、不良青年にも、不良老年にもなれない男であった。

太宰の内にある「幼さ」に関しては、ある種の不可侵領域として、作品の背後に常に存在するようにも思われますが、結局、その「幼さ」は本人にとって、適切な時期に必要なだけの愛情を受け、卒業するべきものだったのかもしれません。

太宰は自分自身の「幼さ」を中途半端に神聖視し、内心他人にベロを出し、そんな自分に吐き気がして、慢性的な不安症を抱えていたわけですが、文学とは関係なしに、太宰には乗り越えるべき問題があったのだと、ごく普通の意味でそう言えるのだと思われます。

 

3. 安吾の意志

然し、生きていると、疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思う時が、あるですよ。戦い抜く、言うは易く、疲れるね。

これが、安吾の飾らない言葉です。安吾は比較的意志がはっきりした人物だと私は思っていますが、その意志の明確性も、実は、ごく普通の弱気と無関係ではないのです。

然し、度胸は、決めている。是が非でも、生きる時間を、生き抜くよ。そして、戦うよ。決して、負けぬ。負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありやせぬ。戦っていれば、負けないのです。

安吾は自分が弱いと分かっているからこそ、明確な言葉で、自分を鼓舞しようとしているのでしょう。「生きる時間を、生き抜く」ということが、安吾の文学にとって最も重要な前提でした。

さて、この作品はやや唐突の感もある言葉で締めくくられています。

学問は、限度の発見だ。私は、そのために戦う。

この引用にある「学問」という言葉は作品の最後の最後になって初めて登場するのですが、おそらく、その意味は「批判精神」のことです。「健全でまともな」という但し書きをつけても構いません。

安吾は同じ文脈の中で、自殺とか原子爆弾とかいうものは「大ゲサ」で、「子供の夢想」だと言っています。それらは頭の中では魅力的かもしれませんが、実行してしまえばそれまでで、全てが終わってしまうようなことだからいけない、ということです。

私はこの戦争のおかげで、原子バクダンは学問じゃない、子供の遊びは学問じゃない、戦争も学問じゃない、ということを教えられた。大ゲサなものを、買いかぶっていたのだ。

一般に「大ゲサ」なものは、当面の問題を解決する上で力強く見え、魅力的に思われるかもしれませんが、そういったものは実はとことん訳の分からないものであると感じたようです。私たちは「大ゲサ」を好んで訳の分からないままに破滅するわけにはいかないので、「健全でまともな」批判精神を働かせて行動し、社会もそうやって回っていなければならないのです。

フツカヨイをとり去れば、太宰は健全にして整然たる常識人、つまり、マットウの人間であった。(…)真に正しく整然たる常識人でなければ、まことの文学は、書ける筈がない。

安吾は文学を、芸術のための芸術と、単純に考えてはいないのかもしれません。文学は、人間が生きるためのものでなければならない、だとすると、文学が人間に「大ゲサ」を指示するとすれば、人間が訳の分からないままに破滅することになってしまいます。「まことの文学」を書くためには「真に正しく整然たる常識人」でなければならないのです。

 

4. 個人的なコメント

作品のタイトルにある「キリスト」という言葉について一度も触れることができなかったので、ここで補っておきたいと思います。それは「不良少年」の反対物であり、「不良少年」の考える自己の理想状態です。

太宰のような「不良少年」は、社会や他人に対する善意を、実はちゃんと持っているはずなのですが、十分な愛情を受け取った経験の欠如から精神の安定がとれず、他人にへりくだり過ぎたり、面白おかしく毒を吐いてしまったり、そういった行動の定まらなさに自己分裂的傾向を感じて、自ら苦しんでしまうようです。

自分を見失わずに他人に奉仕することは、意志によるだけでは難しく、他者からの愛情や承認による安心感がなければ成立しないのだと言うべきかもしれません。そうでなければ、ズルズルと両者破滅するだけのことです。相互性のない善意を自分に強いることは難しいことです。

私は心理学者や医者ではないので、以上のようなことは想像として言っているに過ぎません。ただ、私たちは人生の中で他人のためを想う時間を持つべきであるとは受け入れつつも、そのことで自分に幻想的な高さを求める必要はなく、地に足付いた行動ができればいいのだと、きっぱりと割り切ってしまうべきなのだと思います。

太宰のような人物は、あんまり自己が惨めで、よく分からないので、ふらふらっと、観念が「キリスト」のようなところにいってしまいます。ただし、太宰は純粋な善意でキリストを引き合いに出すのではなく、自分由来の善意は怪しいものかもしれないが、キリストを援用した善意は他人にも認められるはずだという、権威依存的な動機から引き合いに出しているのだと、安吾は指摘しています。

つまり、太宰がキリストを引き合いに出すとき、太宰自身が私たちの前に立っているのではなく、太宰はキリストの後ろで、びくびくと他者からの承認をもらえるかどうか窺っているのです。

別の可能性として、安吾は「思想」という言葉を用いています。

思想とは、個人が、ともかく、自分の一生を大切に、より良く生きようとして、工夫をこらし、必死にあみだした策である

思想というと学問的ないしは知的なもので、理論的な正しさのあるもののように思われますが、安吾は、思想は「バカな、オッチョコチョイなもの」だと言っています。私たちは思想というと、何か完全なものを想像するかもしれませんが、思想などは個人の経験や認識の限界によって形作られたものであり、単純な誤りもあるし、意識的な虚偽もあるし、他人から見て完璧と思われるような思想など存在しないのだと言うべきです。

太宰のような人物には、思想のそのような不完全性は言うまでもないことで、他人の思想は「バカ」に見えますし、自分の拵えた思想なども、結局は「オッチョコチョイ」でしかないだろうと想像され、「必死にあみだ」すには値しない、というよりは誤りの指摘を恐れて主張できない、そういったものだったようです。

太宰は、結局、内なる「幼さ」という切り札に甘えていたように思われます。それは穢れなきものであり、誤謬を免れた自己に眠る性質でした。

太宰にはいくつかの選択肢があったのかもしれませんが、安吾が暗に指摘しているように、もし彼が「オッチョコチョイ」な思想を選んで、他人に批判されようとも着実に前進することができたならば、「幼さ」とか「キリスト」といった幻想に引きずられることなく、人間の世界で、人間として生きることができたのかもしれません。

安吾は太宰を高く評価していました。私たちは太宰を、何か幻想の向こう側にいるような文学者だと思いがちですが、その作品を読んでみれば、幻想の煙幕に包まれている太宰と、人間の世界にいて、その世界を一歩高いところで見せてくる太宰と、二人の太宰がいることに気が付きます。

すると、太宰には幻想を取り除いても、M.Cとして十分に偉大な作家であり得たと言えるのではないでしょうか。

本当の自殺よりも、狂言自殺をたくらむだけのイタズラができたら、太宰の文学はもっと傑れたものになったろうと私は思っている。

太宰を取り巻く幻想の絶対性は、一度見直されてもいいのかもしれません。

 

5. 参考文献

坂口安吾「不良少年とキリスト」『堕落論・日本文化私観 他二十二篇』(岩波文庫)

この記事の引用は全て上記「不良少年とキリスト」によるものです。

 

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