この記事では、芥川龍之介「運」の解説と感想を書いていきます。
この作品は1917年に発表されました。芥川は前年の「鼻」が夏目漱石に激賞され、一躍一流作家として認知されるに至っています。
いわゆる「王朝物」の一つですが、この作品は『今昔物語』に取材しています。
以下では、「幸福」と「運」を中心に作品を理解していきます。最後までお付き合い頂ければ幸いです。
なお、作者の生涯についてご興味のある方は、以下の記事を併せてご覧下さい。
1. あらすじ
舞台は京都である。陶物師(すえものつくり)の翁の仕事屋の入り口には簾が掛かっているが、その隙間から往来を行く人やら牛車やらが見える。それを青侍(身分の低い若い侍)が見ているのだが、どうやら、みな清水寺の観音様へ参詣するものらしい。
自分も一つ参詣でもしてみるかという気に、若者はなってきた様子だ。
参詣さえすれば運を授かれるなら安いものだ、と言う青侍の考えは、いかにも若者らしい、即物的なものであった。だが、彼は神仏が本当に運を授けてくれるものか知りたいらしく、自分よりはものを知っているだろう陶物師の翁に聞いた。「どうだい。観音様は、ほんとうに運を授けて下さるものかね。」
翁の答えは、青侍には要領を得ない。翁は神仏の御考えは若者には分からないと言うのだ。すなわち、神仏のお授けになる、その運の善し悪しは若者には分からないと言うのである。青侍は今一つ理屈が分からないが、彼がなおせがむので、翁はゆっくりとある話を始めた。三四十年前のある女の話らしい。
どうも、この女は「一生安楽に暮らせますように」という願をかけて、清水の観音様に参篭したらしい。二十一日籠って、最後の夜、不思議なことには、女は観音様の声らしきものを夢うつつに聞いた。聞くと、どうやら、帰り道に会う男の言うことを聞けと言うようだ。
すると、帰り道、女に抱き着く者があった。女は恐怖したが、観音様の言うことだからと思って、男の言いなりのまま、八坂寺の塔の中へ連れ込まれた。また、男に言われるがまま、女は男と結婚することになった。男は女に高価な布を渡してきた。
男が一人出かけると、女はふと塔の奥へ行く。すると、女はそこに高価なものが様々積んであるのを発見した。それで、男が盗人であることが知れた。もちろん、女は逃げようとした。
が、そこには皺だらけの尼の婆さんがいて、逃げられなかった。女は隙を伺うが、結局は掴み合いになって、婆さんを殺してしまう。女は知り合いの家に逃げ込んだが、ちょうど男も捕まったと見えて、男が役人に引かれていく様子を女は眺めていた。女は自分が哀れに思われて涙を流した。
翁の話はこれで終わりである。確かに、女は男にもらった布を元手に、今は何一つ不自由のない生活をしている。青侍は当然、これを幸運なものと見た。一方では、翁はこのような運は御免だと思っているらしい。
果たして、女の運は善いものであったか、悪いものであったか、分からない。
2. 芥川龍之介「運」の解説
この作品のテーマは題名の通り「運」とも言えますが、代わりに「幸福」と言ってもいいです。それも一過性のものではなく、人生を貫く「幸福」でしょうか。
作中では陶物師の翁と青侍との幸福観、すなわち運に対する考え方の違いが語られていますが、青侍の方の考え方は非常に即物的なところがあります。
青侍は清水寺の観音様に参詣することに関して、
なに、これで善い運が授かるとなれば、私だって、信心をするよ。日参をしたって、参篭をしたって、そうとすれば、安いものだからね。つまり、神仏を相手に、一商売をするようなものさ。
青侍は「信心」と言いますが、陶物師の翁は「商売気でございますかな」と上手いことを言っています。即物的な利益を願うことも信心と言えば信心ですが、幸福で平和な人生を願って神仏を敬うという気持ちは青侍にはありません。
青侍は、例えば富を得たいとか、地位を得たいとか、具体的な利益だけが心の中心にあるのであって、それらが自分の人生にとってどんな意味を持つかとか、代わりに失うかもしれないもののこととか、そのような広い視点は絶えず持ちません。
陶物師の翁の話を聞き終わった後も、女の身に起きたことに関して、結果的に財を得ることができたのであれば、「その位な目に遇っても、結構じゃないか」、「人を殺したって、物盗りの女房になったって、する気でしたんでなければ、仕方がないやね」と言っています。
これは、青侍が女の手元に残った財のことだけを見て、人間の幸不幸を判断していることを意味します。確かに、手元にある財の多寡は幸福と無関係ではありませんが、もし作中の女が、財を得る過程で精神的な傷を負ってしまったとすれば、それは本当に幸福と言えるかどうか疑問になってきます。
陶物師の翁は「そう云う運はまっぴらでございますな」と言っていますが、清水寺の観音様が課した女の運命は、どうも普通の人間には重すぎるように思われます。「観音様へ願をかけるのも考え物だ」と翁は言いますが、それは、神仏の考えが人間には分かり難いからです。
あるいは、もしかすると、神仏の幸福の概念もまた、人間のそれとは微妙に異なるのかもしれません。この作品の女の運命は、ある意味神仏の思し召しとも言え、盗人の男が捕まったことも、老尼が死んでしまったことも、それでよし、とも考えられます。
しかし、このような過酷とも言える非日常的経験をしてしまった人間の精神には、重たい負荷の痕が残ることもあります。青侍のように何も感じない人間もいますが、彼女の場合はどうだったでしょうか。
彼女が実際、幸福を感じているのかいないのか、それは語られていないので分からないのですが、例えば老尼を殺してしまった罪悪感だとか、嫌なことを強いられた経験の記憶だとか、そういったものが暗い陰を残していると想像することもできます。
これは、神仏の思し召しなのだから気にする必要はない、などという考えではどうにもならないことです。真面目であればあるだけ逃れ難いと言えます。彼女は財を得るために自分自身の精神力の一部を永遠に犠牲にしたと言ってもいいでしょう。
ただ、財とか地位とか、即物的な利益を得るためには、多少の対価は支払わざるを得ないとも言えるので、陶物師の翁の微温的な態度が、必ずしも人生の正解と言えるわけでもなく、人それぞれとも言えます。
それでも、翁のお話は、元々「一生安楽に暮らせますように」と願をかけた女に課される運命としては、少々大げさ過ぎるような気がします。が、その大げさかどうかも、神仏に願をかければ、神仏の考え次第です。
それが負担だと思うのであれば、やはり翁の言う通り、「観音様へ願をかけるのも考え物」なのでしょう。これは、幸福の問題でもあり、大きすぎる運の問題と言うこともできます。
何かを経験したり得たりする時、同時に何を得て失うかは人それぞれ、という点で幸福の意味内容は同じではないですし、大きな運も、十分な準備がないところにやってこられると怪我し兼ねません。
女の言う「安楽」が物質的な意味だけではなく、同時に心の平穏をも意味していたのであれば、彼女が幸福であるかどうか分からなくなります。翁は否と言い、青侍は然りと言うでしょうが、実は、どちらも正解であり得ます。
人間にとっての幸福が非常に複雑微妙で、物質上のものでもあり、更に精神上のものでもあり、一面的な基準では測りがたいということが、作中の女の「運」によって浮彫りにされていると結論できるでしょう。
3. 感想
作中の女の運命と、陶物師の翁の言葉を重視すれば、結論としては幸福における精神的要素により多く注目すべきかとも思います。
しかし、よく考えて見ると、青侍の言うことも決して誤りではなく、実際に女が幸福なのか不幸なのかどうかも、実は明らかではありません。
なので、幸福についても、運についても、結局「分からない」と判断する他はないと考えました。
これは、芥川が持つ、人生に対する懐疑的な視点が表れたものと言えます。芥川は人生や人間の心理を分析するだけでなく、それに加えてある正解を示す、というところまではあまりやりません。
それは懐疑主義的なリアルとも言えますが、右も左も分からない場所に置いてけぼりにされる感覚になることもあります。芥川の懐疑主義は危うい味わいを持っていると言えるのではないでしょうか。
4. 参考文献
芥川龍之介「運」『羅生門・鼻』(新潮文庫)