はじめまして、Rinです!!
今回の記事は私の<高校生でも分かる!>シリーズの第16回目です。
さあ、ドストエフスキーの「地下室の手記」を一緒に読解してゆきましょう!!
このシリーズでは高校生のみなさんと一緒に作品を理解してゆきます。みなさんよりもちょっとだけ大人のLianが読解のヒントを伝授します!!
ただ、文学作品は人によって色々な見え方がして当然です。私の読みは参考と考えて頂いて構いません。色々な読み方をしましょう!!
解説を読むにあたって、事前に作品を読んでいる必要はありません。解説は解説として十分に理解することができます!!
それでは、解説してゆきましょう!!
1. まえがき
しかし、よく考えてみれば、諸君、二二が四というのは、もう生ではなくて、死の始まりではないのだろうか(第一部)
ドストエフスキーと言えば、「二二が四は死の始まり」という言葉が有名なのですが、みなさんは聞いたことがあるでしょうか。私の記憶では、高校の倫理の教科書か何かに書いてあったように思われます。
この言葉は「理性中心のヨーロッパ文明」を批判したものと考えることができます。
――本当に理性で何でも結論が出せるの?
――理性で何でも分かっちゃうなんて嘘じゃない?
だって、人間の考える力って、理性だけで成り立っているものとは限らない。
経験は? 感情は? 身体的感覚は? 大事なあの人の顔が浮かぶことは?
理性には関係ないことです。理性に私という存在は必要ないんです。みんな同じ結論が出るんです。それが「二二が四」です。
とはいえ、数学は数学。科学は科学。事実は事実、ですよね。
私たちは別に、「二二が四」という真実自体に憎しみや苦しみを感じたりはしないでしょう。では、何でドストエフスキーは「二二が四」を、それはもうボロくそにやっつけているのでしょうか。
それは、腹が立つからです。はい、何の説明にもなっていませんね。いやいや、ちょっと待って下さい。順番に説明しますよ!
何に腹が立つのか。「二二が四」に? いや、少し違うんです。
ドストエフスキー(あるいは作品の主人公)が気に入らないのは、「二二が四」程度の自然法則的な事実に安心して生きている人間と、それを他人にも押し付けて当然のように思っている圧倒多数の人間のことです。ちょっと難しい?
実は結構簡単です。ちょっと例を考えてみましょう。
私は大学生の時、何でもいいから文章を書く仕事がしたいと思っていました。それも、会社員として働くのは嫌でした。ブログでも小説家でもいいから、自立して仕事がしたいという願望とも妄想とも言えない考えを持っていました。
それを父親に話した時、父親は「文筆やりたいなら経験だね」みたいなことを私に言いました。はい、まさしく正論ですね。暗にお前には早いと言っているんです。
ドスト氏の「地下室の手記」には「自然法則」という言葉が出てきますが、これは正論と言ってもいいです。正論とは事実。ええ、戦っても勝てません。でも、だから何??
それに、正論って大きいから勝てないんじゃないんですよ。小さいから勝てないんです。正論という小さな鋳型の中に、私の全存在を注ぎ込むことはできないんです。
そういうことが不可能だってことに、全然ピンとこない人って多いんです。ドストエフスキーが生きていた十九世紀のロシアはもっと酷い。
科学! 理性! 進歩!
みんな人間としては小さな正論で小さくまとまっているだけなのに、社会の代表は彼らなんです。いかにも生きるのがめんどくさそう。
ドストエフスキーが何に腹が立っていたのか、分かって頂けました? 「二二が四」っていうのは、「あの人」のあの顔のことなんですよ。
2. この作品のあらすじ
この作品は三部構成です。手記なので、主人公が書きたいように滅茶苦茶に書いているだけで、ストーリーと言うほどの流れはありません。
第一部は先ほど説明した「自然法則」批判です。「正論」批判と言ってもいいでしょう。
第二部は主人公が若者だった時の話です。学生時代の知り合い同士の集まりに、求められてもいないのに乗り込んで、わざわざ屈辱的な思いをしに行きます。嫌われている自覚があるのに、悔しいからか、敢えて突撃するんですね。で、屈辱を味わうんです。
第三部は娼婦のリーザの話。第二部の続きです。まるで書物のように荘厳だが嘘くさい言葉でリーザを救うふりをして、実は内心彼女をあざ笑っていたんだ、という述懐をしています。この作品の一つのテーマは「自意識の病気」なのですが、その病気の極まったところが表現されている部分と言えるでしょう。
3. 一つのキーワードで理解しましょう
私がこの作品の読解のキーワードとして設定する言葉は「心のひび」です。
心のひびって言葉は、もちろんなくてもいいんですが、それがない人には単なる比喩的表現にしか聞こえないのかもしれません。でも、それがある人には、この言葉は身体的な実在性のあるもののように感じられるのではないでしょうか。私はそう感じています。
心のひびは、本当に、心に一すじ入った亀裂なんです。そして、この傷を泉として様々な想いのようなものが湧いてくる。じくじくしたり、悲しかったり、恨めしかったり、恥ずかしかったり、絶望したり、退屈したり、憤慨したり、変に感謝したくなったり、男気を発揮してみたくなったり、数えきれない。
心のひびって、勝手に動き出すんです。おそらく、リラックスしている自然体の自分よりも早く動くんです。もう一人の私として、半ば自立して駆け回るんです。
その駆け回りが絶望的であるとき、心は辛い。誰も受け止めてくれる人なんていないように感じる。でも、止めることができないんです。止めたいのに、止めようと本気で思えないかもしれない。それで、自滅まで想像し始める。
この作品の主人公はいかにもヒステリーで、憎しみを糧に生きているようにも見えるのですが、彼もまた、心のひびに転がされているんです。おそらく、心のひびは人を静かにしていくものと、私は思っていますが、この主人公は静かになりたくないんです。それは彼には敗北なんです。彼は自分を認めさせたい。大きな人物でありたい。だから、自負と嫌悪とを捨てるわけにはいかないんですね。
心のひびは私たちを癒しの方向へ連れていってくれることもあるんですが、意識的にそれを拒否することもできるんです。敢えて憎む。理由はないんです。別に憎みたいわけでもないんです。でもそうする。
そうするんだと、決めているから。
問題のすべて、というより醜悪さの極致は、ぼくがどんなときにも、つまり、思い切り癇癪をぶちまけたその瞬間にも、内心、おれは意地悪どころか、むかっ腹を立てているのでもありはしない、理由もなく小雀どもをおどしつけて、それでいい気になっているだけだと、言うも恥ずかしい意識を引きずっていた点にあるのである。
簡単に言えば、ちょっとした破壊衝動みたいなものでしょう。軽微な表現で言えば、心が痒いんです。
たぶん、それだけ。で、自己反省。永遠ループ。
さて、私が設定した「心のひび」というキーワードは作中には出てきません。これは、私が読解上設定したものに過ぎません。
作中では「自意識」とか「自意識の病気」という言葉で出てきます。ただ、この言い方は思想的過ぎるといいますか、心理学的過ぎると言いますか、本質からはずれがちな言葉だと思うんです。心ではなく、頭の働きを刺激する言葉なんじゃないかと。
誓って言うが、諸君、あまりに意識しすぎるのは、病気である、正真正銘の完全な病気である。人間、日常の生活のためには、世人一般のありふれた意識だけでも、充分すぎるくらいなのだ。
もちろん、頭で理解することも大事。私もそうしていますし。
でも、頭で理解して、正論を手に入れて、君、こうすればいいんじゃないかな? 君はこの辺りの事実を、単に理解できていないね? 云々。私は想像するだけで嫌になってきます。
この辺りは結構複雑。理解療法ってものもあって、理解することが心の治療になる場合もたくさんあれば、手記の主人公や、太宰みたいな私小説家とか、心の傷を持ち続けようとしてしまう人もいるんです。傷の周辺に真実があるように感じるんですね。そういう人には、理屈っぽいことは全部響かない。意味ないんです。
手記の主人公は本当に人を怒鳴り散らしたり、嫌みを言ったり、自分ばかり認められようとしたり、正直、私はちょっとムカムカしてこないこともないんですけど、彼は彼なりに、真実を守り抜きたいんですね。真実は簡単に失われていきます。だって、世の中正論ばかり幅を利かせているんですから。みんなが正論に簡単に流されるようになれば、それだけ人間の真実が失われて、それっぽい人間社会だけが残されるようになる。
正論派の人間はそれが正しいと思うんです。いかにも健康で好ましいではないかと。
こうした美しいシステム、つまり、人類にその正常な真の利益を説けば、なるほどその利益を獲得するために努力することは必要だとしても、それだけで人類はたちまち善良で高潔な存在になるなどという理論は、いまのところは、ぼくに言わせれば、ただの屁理屈にすぎない!
これが手記の主人公が闘っている正論の一つなのですが、これくらいの正論ならまだマシかもしれません。実際の正論はもっと酷い。「正常な真の利益」が分からない人間は切り捨てておけ! これくらいの人間も少なくはないでしょう。心のひびなんてものは一文にもならん!と。
ええ、一文にもならないでしょう。一文にしようとしてもいけない。いや、してもいいんですけど。
侮辱されて、劣位に置かれて、それをくつがえそうとするために、他人よりも圧倒的上位に立とうとする。これは手記の主人公のやり方です。
負けん気も少しはあった方がいいかもしれませんが、限度というものはあります。傷に憎しみがたくさん流れ込んでくると、傷が深くなってしまいます。それも化膿性の傷が出来上がります。すると、悲しいのに、他人に対していつも舌をペロと出しているような二面性が出来上がってしまいます。
そして、自己嫌悪。永遠ループ。
心のひびは勝手に駆け回る。それは仕方ない。私たちは心を落ち着けて、自分自身の心を見守るしかないのかもしれない。少なくとも、心のひびに鞭打って、使役してはいけない。そうすれば、ええ、心のひびは案外働き者かもしれない。でも、少なくとも、私はそうしない。
そして、ついにはそれがこうじて、ある種の秘密めいた、アブノーマルな、いやしい快楽を味わうまでになった。(…)ああ、きょうもおれは醜悪な真似をしでかしたぞ、だが、できてしまったことはどうせもう取返しがつかないんだと、ことさら強く意識しては、心中ひそかに自分をさいなみ、われとわが見を嚙みさき(…)すると、ついにはこの苦痛が、ある種の恥ずべき、呪わしい甘美さに変わっていき、最後には、正真正銘、ほんものの快楽に変わってしまうのである。
言うまでもなく、この手記には結論がありません。救いがないと言ってもいいでしょう。何の解答もないんです。あるのは、ただ十九世紀ロシアの自意識の人間の標本だけです。
学ぶべきことは多いかもしれませんが、学ぶには、ちょっと尋常じゃないくらいの精神力もいる。
さよう、十九世紀の賢い人間は、どちらかと言えば無性格な存在であるべきで、道義的にもその義務を負っているし、一方、性格をもった人間、つまり活動家は、どちらかといえば愚鈍な存在であるべきなのだ。これは四十年来のぼくの持論である。
ここで「無性格な存在」というのは、反省能力があるということです。状況に応じて自分を変えることができるということ。よく言えば変幻自在。悪く言えば無性格。
反省能力があるということは、よく気が付くということです。それは素晴らしい能力でしょう。でも、その能力を他人や自分のあら探しばかりに向けることになったとしたら?
手記の主人公は「賢い」人間を自認して、自負を感じていますが、それが結局何にもならないことも、実は分かっているのです。
ぼくは意地悪どころか、結局、何者にもなれなかった――意地悪にも、お人好しにも、卑劣感にも、正直者にも、英雄にも、虫けらにも。
軽蔑は人生の刺激剤と言えないこともありません。一時的になら自分の努力を助けてくれるでしょう。でも、それだけでは人は生きていけません。どこかの時点で、何かがおかしい、自分には何かが足りていないと気が付いてしまいます。少なくとも、自分に正直でありさえすれば。
私は正論が苦手です。でも、結構人生は現実的にできている。妄想的なうぬぼれなんて何にもならない。そんなものより、私にはすでに持っているものがたくさんあって、捨ててしまえば、それまでだ。うぬぼれなんて案外なくても困らない。
心のひびの真実を守りたかった主人公。でも、それが勇気ではなく、うぬぼれを捨てることへの恐怖からだったとしたら?
自分が自分であるために自分を守らなければならない。それは事実でもあり妄想でもある。その境目を見極める力は自分自身にしかありません。
昨日と違う自分になることは勇気がいるけど、苦しさから脱出するために勇気が必要なタイミングも、人生にはあるかもしれませんね。
4. 参考文献
ドストエフスキー「地下室の手記」『地下室の手記』(新潮文庫)
この記事の引用は全て上記「地下室の手記」によるものです。
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