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福沢諭吉「瘠我慢の説」要約と解説

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1. 福沢諭吉「瘠我慢の説」とは?

今回の「瘠我慢の説」は福沢諭吉の評論です。この記事ではこの評論の内容紹介と解説を行っていきます。

この評論は1891年に執筆されながらも、批判の対象となっている勝海舟や榎本武揚へのはばかりもあり、長らく発表されずにいました。「瘠我慢の説」が実際に発表されたのは1901年の始めのことで、『時事新報』誌上に掲載されました。福沢諭吉は同じ年の2月に亡くなっています。

勝海舟と榎本武揚は幕臣として、幕末の歴史でそれぞれの活躍をした人物です。元々は新政府側の人物ではないのですが、維新後、両者は明治政府の中で高い地位に昇りました。榎本武揚などは大臣を歴任しています。私たちはそれに対して特別な意識を向けるものではないですが、福沢諭吉はこれを「士風」を害するとして批判しました。

明治の世にあって「士風」とはそぐわない感じもしますが、福沢諭吉は国家の独立という観点から、江戸以来の「士風」が失われることを危惧したのです。福沢諭吉が「瘠我慢の説」の執筆した背景には、勝海舟と榎本武揚の事例が決して望ましいものではないことを後世に伝えるという意図がありました。

簡潔に言えば、「瘠我慢の説」は福沢諭吉が国家の独立に関してどのような考えを持っていたのか知ることのできる評論です。「士風」という封建時代の名残のような言葉が登場することから、様々に評価されているようですが、福沢諭吉の考え方の多様な側面を知るには欠かせない文章と言えます。

さて、ここからが「瘠我慢の説」の内容紹介と解説の本論です。この記事をお読み頂くことで、評論のあらましと中心的な主張について知って頂けるので、最後までお付き合い頂ければ幸いです。未読の読者のために、まずは要約から入っていきます。ご参考にして下さい。

 

2. 「瘠我慢の説」の要約

国家の独立は理屈ではなく私情に基づくものである。私情であるから必ずしも経済的に合理的であるとは限らず、弱国の危急存亡において他国の影響力を拒み、独立を最後まで放棄しないことなどは、痩せ我慢であると言える。

およそ独立を第一に考えれば、我々は決して痩せ我慢を失ってはいけない。それは藩であれ国であれ、同じである。痩せ我慢を失えば、より大きな勢力に吸収されることが利益となりやすいから、弱国などは消滅してしまう。であれば、痩せ我慢こそが独立の生命線であると言えるのである。

武士の士風は痩せ我慢を代表するものである。つまり、士風とはたとえ負け戦でも主君に尽くして最後まで戦い抜く精神のことである。が、勝海舟や榎本武揚といった影響力のある旧幕臣が、今や明治政府において富貴を得ていることなどは士風の維持保存に有害である。

士風が失われれば、外国と戦争になったとして、国民が最後の最後まで戦い抜く意志を持つことがなくなってしまう。たとえ敗色が濃厚でも戦い抜くということは痩せ我慢なのであるが、その気風が無ければ国家の独立は覚束ない。

旧幕臣である勝海舟と榎本武揚が明治政府において要職にあるという事例は、士風維持の点で誤解を生む。彼らの維新前の立場や影響力を考えて、せめて政治の世界からは身を引くべきである。

 

3. 勝海舟と榎本武揚について

この評論で福沢諭吉は旧幕臣である勝海舟と榎本武揚を批判しています。福沢諭吉の主張を解説していく前に、ここで彼らについてご紹介しておきます。福沢諭吉がなぜ彼らを批判したのかについても、ここで確認しておきましょう。

 

①勝海舟

勝海舟と言えば戊辰戦争における江戸無血開城の一幕で有名です。軍艦と縁のある偉い人で、1860年には軍艦・咸臨丸の艦長として遣米使節に随行し、はじめて太平洋横断を成功させています。

江戸無血開城というのは、戊辰戦争で江戸が戦火に包まれることを避けるため、幕臣の勝海舟と、新政府軍の西郷隆盛とが事前に話合い、戦わずして江戸城を明け渡したことを言います。

江戸城を明け渡したことで、江戸の人民が死なずに済みましたし、経済的なダメージも抑えることができました。優秀な外交官であったと言っていいでしょう。福沢諭吉もその点は評価しているようです。

ただ、勝海舟は幕臣であったにも関わらず、明治政府において、参議兼海軍卿に任命されたり、要職に就いています。江戸無血開城は江戸幕府消滅の一大原因のようなものですから、主君の慶喜を失墜させといて、自分は新政府で要職に就いて安住しているのは何故なのかと、福沢諭吉は批判しています。

ちなみに、「瘠我慢の説」発表の年には既に勝海舟は亡くなっていますが、発表する前に福沢諭吉は原稿を勝・榎本に送り、意見を求めています。これは当時の知識人の間の交流の域を出ないものとも思われますが、現代人が普通に考えると、福沢諭吉は相当容赦のない人物に見えます。

 

②榎本武揚

榎本武揚は戊辰戦争において、五稜郭の戦いを戦った人物です。すなわち、江戸幕府は既に存在しないも同然だったのですが、それでも最後まで戦って死ぬくらいの意志でいる侍たちを束ねて抗戦したのが、榎本武揚でした。

榎本は軍艦数隻を率いて函館・五稜郭に立てこもり、新政府軍と戦いました。が、最終的に新政府軍に降伏することになり、これで戊辰戦争が終わります。榎本らは負け戦を敢えて戦っているので、その点福沢諭吉は高く評価しています。

しかし、榎本武揚も明治政府において要職についています。彼は明治の歴史においても相当偉い人で、1875年に駐露公使として樺太・千島交換条約を締結していたり、その後外務大臣を始め、複数の大臣職を歴任しました。

五稜郭の戦いでは、先祖代々の恩を返すため、少なからぬ侍たちが負け戦を戦い、死んでいきました。その首領が榎本武揚だったわけです。にも関わらず、一転して明治政府で高い地位に座っていられるのは何故かと、福沢諭吉は批判しています。

 

4. 「瘠我慢の説」の解説

(a)福沢諭吉の独立論

以上見て頂いた通り、福沢諭吉が勝海舟と榎本武揚を批判しているのは、彼らが明治政府において要職についているからです。しかし、福沢諭吉が彼らを批判しているのは単なる潔癖なのではなくて、その背後には福沢諭吉の独立論があることを、ここでは解説していきます。

冒頭で福沢諭吉は、「立国は私なり、公に非(あら)ざるなり」と言っています。立国というのは国が独立してやっていくことでしょう。それが「私(わたくし)」であるというのは、国の独立は私情に基づくものだということです。

逆に、国の独立は「公(おおやけ)」ではないのですが、それは簡単に言うと、国の独立を追求することは理性的な正解とは言えないということです。というのも、そもそも人間はみな同じ人間なのだから、地域的な線引きなどは意味のないことで、必要に応じて互いに助け合うのが本当だと言えるからです。

理性的に考えればそのような世界が存在しているはずなのですが、実際は国境というものがあって、大小さまざまな国が自身の独立を最優先して、自己利益を追求することで互いに害し合っている。それは国家の独立が私情に基づくからなのですが、私情は非理性的なこだわりとでも言えましょうか。

ただ、それが非理性的であろうと、福沢諭吉は国家の独立が今の世界では何よりも重要であるという認識を崩しません。そして、国家の独立の根本である私情の生命線は痩せ我慢であると考えます。

痩せ我慢とは、何が何でも独立を第一とし、それに執着するという意地です。独立を重要視する私情がここまでの強さであって初めて、独立が決定的なものになります。淡い願望程度の独立精神では、状況によっては独立を捨てかねません。

そのため、ある種盲目的に、国の独立が第一で、そのためには他の利益は省みないという痩せ我慢の精神が重要になります。戦争においては敗色濃くても独立に執着し最後まで戦うこと。これが、「瘠我慢の説」における福沢諭吉の独立論です。

 

(b)なぜ勝と榎本を批判したのか

以上の福沢諭吉の独立論を踏まえて、なぜ福沢諭吉が勝海舟と榎本武揚を批判したのかについて、改めて解説していきます。

福沢諭吉は「士風」という言葉を使います。これは武士における痩せ我慢の精神のことと言えるでしょう。すなわち、たとえ勝ち目がなくても、主君に仕えて最後まで戦う精神のことです。痩せ我慢にも色々あるでしょうが、これはその極地です。

勝海舟は江戸城を無血で開城したことで、無辜の市民の命を救ったので、一般的には優れた外交官のように考えられています。その点、福沢諭吉も認めている節はあるのですが、福沢諭吉は国の独立に関しては相当厳しい考え方をしています。

すなわち、江戸無血開城は一時的にはよかったが、国民の間の「士風」を守り、独立を後々まで万全にすることを考えると愚策であったと言うのです。福沢諭吉は、はっきり言ってしまえば、「士風」を守るためなら人命に犠牲が出ることも許容できるものと考えているのです。

然るを勝氏は予め必敗を期し(…)自家の大権を投棄し(…)兵乱のために人を殺し材を散ずるの禍をば軽くしたりといえども、立国の要素たる瘠我慢の士風を傷うたるの責めは免かるべからず。

続けて、「殺人散財は一時の禍にして、士風の維持は万世の要なり」と、福沢諭吉は言っています。「士風」という無形の財産の方が人命より大事ということです。理屈としては分からないこともないですが、現代人には容易に受け入れがたい考え方です。

福沢諭吉は勝海舟と榎本武揚は本来「士風」を示す側の人間であると考えます。福沢諭吉も江戸城を無血開城したり、五稜郭で降伏したり、ということまでは追求しない心積もりらしいですが、せめて政治からは身を引いて、本来武士は負け戦でも最後まで戦うものなのだということを語ってほしいようです。

 

6. さいごに

最後までお読み頂き、ありがとうございます。以上、福沢諭吉「瘠我慢の説」の内容紹介と解説でした。

福沢諭吉は榎本武揚の問題に関して、「国家百年の謀において士風消長の為めに軽々看過すべからざるところのものなり」と言っています。

一時の人の生き死によりも、国家の行末を考えて「士風」を優先する。やはり、現代人には容易に納得し得ないものであることは言うまでもありません。

ただ、ここで見た福沢諭吉の独立論は精神論というよりは、国家独立の政治学なのだと考えるべきだと思います。この評論の背後には、冷徹とも言える計算的な視点が働いているように思われます。

福沢諭吉という学者は精神論を計算で語れてしまう人物なのかもしれません。時代的な前提が異なれば「士風」に言及することもなかったでしょう。ケース・バイ・ケースの合理的な人間なんですね。そこが、福沢諭吉の難しいところです。

 

7. 参考文献

福沢諭吉「瘠我慢の説」『明治十年 丁丑公論・瘠我慢の説』(講談社学術文庫)

全国歴史教育研究協議会編『改訂版 日本史B用語集』(山川出版社)

 

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