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【四大悲劇】シェイクスピア『ハムレット』の感想です。

この記事のイメージ画像としてデンマークの城・クロンボー城

 

1. シェイクスピア『ハムレット』

学生の頃、初めてシェイクスピアを読んだ。私は「四大悲劇」から読み始めたが、最初に読んだものは『ハムレット』だったと思う。

学生らしく、私はシェイクスピアくらいは読んでおかないと始まらないと考えたのであるが、より直接的に私を動かしたのは、アルチュール・ランボーの詩の一つ、「オフェリア」であった。

オフェーリアは王子・ハムレットが想いを寄せていた乙女でなのであるが、彼女は父である宰相・ポローニアスの死をきっかけに狂気に堕ちてしまう。そして、気が狂って何も分からないまま、川に溺れて死ぬのである。

 

星眠る暗く静かな浪の上、
蒼白のオフェリア漂ふ、大百合か、
漂ふ、いともゆるやかに長きかつぎに横たはり。
近くの森では鳴つてます鹿遂詰めし合図の笛。

 

以来千年以上です真白の真白の妖怪の
哀しい哀しいオフェリアが、其処な流れを過ぎてから。
以来千年以上ですその恋ゆゑの狂くるひ女めが
そのロマンスを夕風に、呟いてから。

 

風は彼女の胸を撫で、水にしづかにゆらめける
彼女の大きいかほぎぬを花冠(くわくわん)のやうにひろげます。
柳は慄へてその肩に熱い涙を落とします。
夢みる大きな額の上に蘆(あし)が傾きかかります。

 

傷つけられた睡蓮たちは彼女を囲繞(とりまき)溜息します。
彼女は時々覚まします、睡つてゐる榛(はんのき)の
中の何かの塒(ねぐら)をば、すると小さな羽ばたきがそこから逃れて出てゆきます。
不思議な一つの歌声が金の星から堕ちてきます。

 

上記の引用は、中原中也訳の「オフェリア」の一部である。ランボーの詩は象徴的に書かれているから、一読して意味が判然としてくることは稀である。が、この詩は非常に視覚的で、水に浸り、流されるオフェーリアの姿が目に浮かぶようである。

オフェーリアはすでに息絶えている。それも、大昔に。想念が亡霊の如く現れるというのか、乙女の肌は蒼白、百合のようであると書かれてはいる。しかし、詩情は決して冷たくはない。むしろ、情熱に流されやすい乙女の体温が、幻のように漂っている。

これが、オフェーリアの狂気である。狂気は情熱から生まれたと言ってもいい。夢想する能力が壊れてしまったのだと言えば、それまでである。だが、それは医者の如く外部的観察から対象に近付こうとする態度である。知性は結論のためならば誤魔化しを厭うものではない。が、情熱は決して誤魔化せるようなものではない。人間は自己の体温を感じながら生きている。

十代の私が、「オフェリア」を読んで、そこまでのことを考えたわけでは無論ないのであるが、この詩は私には、はっきりと美と映った。詩が見せてくれる全てのものが愛おしく感じられた。もちろん、私は、オフェーリアが『ハムレット』作中の登場人物であることを突き止め、直接読んでみたいと思った。

果たして、私は『ハムレット』をはじめ、いくつかのシェイクスピア作品を読んだのであるが、本当に楽しんで読んだかと言うと、それは怪しい。

私は大学二年生になった頃から、漠然と、将来は何らかの形で文章を書く仕事がしたいものだと思っていた。大学生になる以前は、私はそれ程読書をする人間ではなかったから、唐突と言えば唐突にそう思い始めたのであるが、ランボーや、小林秀雄、芥川龍之介など、私が今でも不思議な魅力と縁を感じている作家らに次々と出会い、思い付きに憑かれるには、十分過ぎる事情があった。

シェイクスピアは、決して難解ではないが、読書の初心者には、やや読みにくい部分があると思う。例えば、登場人物のセリフが長い。長いだけではなく、そもそもが劇で演じられることを想定された文章であるから、日常的な自然さがあるとは言えない。このような部分で躓いてしまう読者は少なくないであろう。

私はむしろ、そのような部分を、文章の参考として楽しもうとしたが、そういう気負いは、おそらく不要なものだっただろう。また、知識と教養とを混同してしまう、性急な学生にありがちなことに、私は自分のペースで読むのではなく、筋だけをなるべく早く掴みたい一心で読んだ。そういう読み方は、文学作品には向かない。

そして、掻い摘んで読むような読み方は、特に『ハムレット』には不向きである。なぜなら、この作品には無駄な部分など一つもないからである。これは、少々奇妙に聞こえるかもしれない。ハムレットの長い独白を見て、その全てに、じっくりとした意識を向ける必要があると思う読者は稀であろう。要点以外に注意を向けないという現代的な読み方に慣れていて、少しも読み飛ばしたりしない人はいないに違いない。

だが、よく読んでみると、ハムレットはもちろんとして、作中の登場人物たちのセリフには、少しも観念論がない。観念論とは、頭の中で考えたに過ぎない言葉の意と考えてもらってよいが、単なる装飾としての言葉が書き連ねられている箇所は、この作品にはない。全てに、作者の体温が感じられるのである。

それは、もちろん、セリフの全てが真理であるという意味ではない。ただ、そこに体温が宿っている以上、私達は彼らと同じように、納得しながら読まざるを得ない。言葉の上での議論ほど読んでいて退屈なものはないのであるが、体温がある以上、そこには人生がある。文学に人生を、人間の匂いを嗅ぐ時、私達は決して退屈などしない。『ハムレット』鑑賞上の秘密はここにあるように思われる。

さて、シェイクスピアの代表作と言えば、一応「四大悲劇」と言えるのであって、すなわち、『ハムレット』、『マクベス』、『オセロー』、『リア王』がそれである。『ハムレット』は当然悲劇なのであるが、ギリシャ悲劇的な筋を想像して読むと、やはり性質の違いを感じさせられる。

ギリシャ悲劇の登場人物たちは、半ば神話的世界に生きている。登場人物自体が半神であったりするのである。それに対し、シェイクスピアの作品は古い時代に題材を求めてはいるものの、登場人物たちは世俗の世界に生きている。登場人物たちの弱さも世俗的な弱さで、神秘的とも言える神話的運命観などを感じさせるわけではないが、それだけに彼らは切実に生きているとも言える。

私の印象では、ハムレットの頭の中にある「英雄」や「運命」という観念にも、ギリシャ悲劇的な色彩は残っている。それは、私が勝手にそう思うのであるが、シェイクスピア自身の頭の中でも、おそらくそうであった。運命の歯車は、いつも人間を超えたところで回っているのである。

だが、シェイクスピアの悲劇は、少なくとも『ハムレット』に関して言えば、決してギリシャ悲劇の焼き直しなどではない。彼の悲劇をどう説明したところで、どうせ上手くはいかないのは、人間を説明しようとして、結局上手くいかないのと同じである。冒頭で引用した「オフェリア」を理屈で説明しようとしたところで、オフェーリアの悲劇が与える(こう言ってよければ)豊かな印象が脱落してしまうに過ぎないことも、また言うまでもないことであろう。

ハムレットは、神話的な英雄として運命に殉ずるには意識的過ぎた。意識家としての意識を、ハムレット自身は「理性」と呼んでいる。そして、理性は智慧なのであるが、臆病の原因でもあると理解している。理解していようとも、意識の強さはハムレットの天性であるからどうしようもない。衝動や、情熱。これらの炎の燃え上がるままに行為できれば、ハムレットは、ほとんど冒頭でも父の仇であり叔父の現王・クローディアスに復讐を遂げられたのである。

だが、ハムレットは最後まで復讐を実行しない。最後の場面では確かにクローディアスを刺し殺すのであるが、そこでは、没頭しようと努めていた復讐心すら不要とされているように感じられる。

どうも、『ハムレット』は現代的な悲劇であると言う他はない。最後の場面では、ハムレットだけでなく、母のガートルード、現王・クローディアス、オフェーリアの兄・レイアーティーズ、そしてハムレットが毒で死ぬ。その毒はクローディアスがハムレットを始末するために準備したものであるが、よく分からないままに、この毒でみな死んでいくのである。

ここでは、意志も理性も、物語的な純粋さでは見られない。確かに、ハムレットはそれまでの逡巡から一転して、何が起こっても構うことはないと言い切って、レイアーティーズとの賭け試合に向かうのであるが、決して、意志がハムレットを飲み込んでいるような気迫はない。そうではなく、ハムレットは、ようやく彼自身の意識を沈黙させることができたのである。だが、それは、ハムレットが意識的人間でなくなるということでは決してない。

だから、強い意志の進む先に避けられない運命があるという、ギリシャ悲劇的な考えを持って『ハムレット』を読むと、ともすれば物足りないのである。だが、当然、シェイクスピアは力量不足で物足りない結末を書いたわけではない。登場人物たちを徹底的に現実的に行動させた結果、あの結末があるのである。もちろん、決して意力的な終わりではない。全くあり得そうな終わりが書かれている。読んで、嫌になると言えば、嫌にもなるのである。

死んだ四人はみな意識的であった。それは、彼らがとことん理性的であったということではない。不合理、あるいは不道徳な衝動も確かに作用し、行為させられていた人物たちである。だが、彼らの内で、自身を俯瞰し、自罰していない者はいない。彼らは意志や衝動の怪物ではないのである。むしろ、そうあろうとして、そうではあれなかった人物たちである。

理性は道具である。欲望や恐れが理性を働かせる。その内に、我々は理性そのものが意志を持ち、好き嫌いをも持つように錯覚し始める。理性が意志や好き嫌いを映し出せば映し出すほど、我々は理性自体に色が付いているように思い始める。だが、おそらくそれは誤りなのである。

理性は考えるだけである。意志も好き嫌いも腹の中にある。例えば、心理上、何か大きな転換がある時など、理性はそれまでの「色」のようなものを一度に放棄してしまうことがある。それなのに、あんまり頭ばかりが働くと、自分が何を求めているのか、何も分からなくなってくる。衝動を後から振り返ってみると虚しく感じるのは、頭に衝動が残ることが稀だからである。

彼らはみな死んでいったが、結末は、意識が用意した。もちろん、「色」のない意識がである。「色」のない意識が用意したから、何が何やら訳が分からない。実は、運命の女神は何もする必要がなかった。全て彼らが拵えたからである。それでも、やはり運命のように見えるのであるが、足元を見れば、運命の糸はだぼついている。こういう覚悟をしなければならないことが、ハムレットの、現代の意識家たちの悲劇なのではないだろうか。

シェイクスピアは創作上、「喜劇の時代」を経て、「悲劇の時代」に進んだ。その転換には懐疑主義や、自身の経験があるようであるが、シェイクスピアの懐疑は決して古臭くない。学問的知識や理論の旺盛なこの時代、我々の頭脳は見かけ上明るく見えるかもしれないが、沈思黙考し、逡巡する場面がなくならない以上、『ハムレット』的な悲劇から逃れ去ることはできない。もちろん、出来れば、逃れ去っているということにしておいてもらいたいものなのであるが。

 

2. 参考文献

シェイクスピア『ハムレット』(新潮文庫)

ランボー「オフェリア」『中原中也全訳詩集』(講談社文芸文庫)

 

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