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理知派・芥川龍之介の作品「鼻」の解説的感想です。

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1. 芥川龍之介「鼻」の感想

今回は理知派の代表的作家・芥川龍之介の「鼻」を読んだので、その感想を書いていきたい。あらすじと解説を含むため、芥川龍之介や「鼻」に興味のある読者はぜひご一読されたい。そこで実際にお手に取られても、この記事の内容で満足して頂いても、私としては幸いである。

現在では、芥川龍之介の代表作と言えば「羅生門」の印象が強い。国語教科書に採用され続けて来たこともあり、誰でも一度は読んだことがある作品である。が、芥川が東大在学中に発表した「羅生門」の当初の評価は、それ程のものではなかった。

芥川を一挙に人気作家の地位にまで押し上げたのは、実は「鼻」であった。「鼻」は第四次『新思潮』誌上に発表された。「羅生門」発表の翌年(1916年)のことである。この雑誌は夏目漱石が批評する習わしになっていたらしく、幸運にも、芥川の「鼻」は漱石の激賞を受けた。

そのおかげもあり、芥川は同年中に「芋粥」や「手巾(はんけち)」を発表し、成功させている。「手巾」は『中央公論』誌上発表である。芥川が第一流の作家として認知されたのは、正にあっと言う間のことであった。漱石の目に止まったという幸運もさることながら、芥川の創作の実力が評価される形となった。

また、この年の7月、芥川は東大英文科を卒業している。24歳であった。芥川にとっては幸先の良い人生の転機であったはずだが、12月に漱石が亡くなっている。芥川は複雑な気持ちであったらしく、遺作「或阿呆の一生」には、漱石の死に「歓びに近い苦しみを感じて居た」という言葉が見える。漱石に対する思慕と、作家としての自立心とが微妙に絡まり合った心理であっただろうか。

さて、「鼻」は「羅生門」と同程度の紙量の短編小説である。いわゆる、芥川の「王朝物」に属する作品で、主に『今昔物語』に取材している。これら「王朝物」の特色は古典に題材を求めながらも、作者によって現代的な意味を与えられ、再構成されているところにある。

私の手元にある新潮文庫の解説(三好氏)によれば、「龍之介の独創は内外の典籍や伝説に典拠をもとめて歴史的事実に新しい解釈を与え、現代にまで普遍的な主題を提示することにあった」のであるが、これが、一般に認められている芥川の創作上の手法であったと言えるであろう。

禅知(ぜんち)内供(ないぐ)の鼻は不名誉にも有名であった。その鼻が、異様に長かったからである。長さは五六寸、一寸約三センチであるから、十五センチ以上のものが顔の真ん中にぶら下がっている。その先端は下あごに到達したらしい。そのため、内供は一人で飯も食えない。鼻が邪魔だからである。

内供という役職は高僧の証で、宮中に仕えるべく選ばれたわけだから、それなりの僧のはずである。しかし、内供の内心は決して平和ではない。長い鼻が彼の自尊心を傷つけるからである。脱世俗の僧でありながら、自身の見た目の問題も解決できないでいるのである、と言えば厳しすぎるだろうか。

が、ある日、弟子の僧が京に使いに行った折、長い鼻を短くする方法を医者に聞いて帰ってきた。内供は最初興味のないふりをするが、弟子が気を使って勧めて来るので、ついにその方法を試すことにした。簡単な方法で、茹でて、踏んで、飛び出した脂肪の塊を毛抜きで抜くのである。

果たして、鼻は短くなった。一般のかぎ鼻程度の長さまで縮んだのである。この日一日はまだ、内供は鼻がまた元の長さに戻りはしないだろうかと気が気でなかった。が、翌朝目覚めてみても、鼻は短いままだった。内供は「幾年にもなく、法華経書写の功を積んだ時のような、のびのびした気分になった」ようだ。

だが、内供はすぐに意外な事実を発見する。周りの者が、以前にも増して、内供を馬鹿にしているらしいのである。これは何故か、内供には分からなかった。悪戯者の寺の子どもなどは、むく犬を木の棒で叩きながら、「鼻を打たれまい」と唱えすらしているではないか。これには、内供は腹を立てた。内供は段々意地悪くなっていった。

この話は、ある朝目覚めてみると鼻が元の長さに戻っていて、内供は鼻が短くなった時と同じような「はればれした心もち」となった、という所で終わっている。一見、逆説的な結末であるように思われる。しかし、ここに見られる心理は決して稀な屈折などではなく、現代人の中にもよく発見されるものである。では、作者は一体、この作品にどのような心理を移植したのであろうか。

まず、鼻が短くなった内供を嘲笑う周囲の人間の心理については、作者がその説明を行っているので、そのまま引用してみよう。

勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。ところがその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たいような気にさえなる。

このように作者は説明しているが、この説明が果たして成功しているものか、私は少々疑問に思う。というのも、私は確かに以上の心理を理解はするが、その場合、我々が不幸に同情し、それを切り抜けると物足りなく感じる、その相手の人物像は、底抜けに人がいいような類の人間であって、内供のような、小自我的な自己防衛を主として生きているような人間ではないからである。

要するに、我々は不幸であることを含め、その人物に愛情を感じるのであるが、その愛情の一条件である不幸が取り去られると、我々の方で何か物足りなく感じる、ということなのである。私が理解するのはこのような心理だ。だが、そもそも、内供が人々の愛着を呼ぶような人間だったとは思わない。だから、内供が嘲笑されるにしろ、何か別の理由を求めなければならない。

私は代わりに、「身の丈にあってない洗練」に対する一般的な心理について言及したいと思う。「洗練」というのは、分かりやすく言い換えれば、「お洒落」とか「思想」とかのことである。

言うまでもなく、人間は相手からどう見られるか、ということを意識しながら生きているものである。そのことが常に人生の中心にあるかどうかは人物によるが、そのためにお洒落をしたり、知的に見せかけるために思想を求めたり、そういうことは別段珍しくはない。もちろん、見栄からではなく、一念発起して、自己改造を始める人も少なくないだろう。

ただ、我々は案外意地が悪いものである。すなわち、そのような心理で「背伸び」しているような人間に、我々は小狡い嫌悪を抱く。あるいは、そぐわないように感じる「洗練」を、我々は意味もなく軽蔑する。だから、場合によっては、相手を我々が理解している地点まで引きずり降ろそうとする。ずいぶん勝手なものであるが、一種の社会的制裁として、相手を本来の地点にまで堕とそうとするのである。

私はこのような心理こそ、内供を嘲笑する人間の心理として妥当であると考える。「身の丈にあってない洗練」と言うが、身の丈にあってないかどうかは、半分は我々が勝手に決めることである。逆に言えば、半分くらいは、物事の核心を突いていることもあるから、それだけ、我々は勝手放題に人物を批評して憚らないのである。

内供は半ばは被害的立場にある。なぜならば、観衆の勝手な裁量で、内供は長い鼻を持つ自分に戻らなければならなかったからである。そして、「鼻」の中心的心理は、この時の内供の心理であることは言うまでもない。

すなわち、自分が本当に満足する理想形の自分ではなく、周囲の人間の好みや批判まで計算に含め、低い位置に堕とした自分で、結局満足する、という心理である。多少複雑な心理だとは思うが、要するに、本来の弱点を笑われるのは慣れているが、そのための努力を笑われるのは、かえって恥ずかしかったり、悔しかったりするということなのであろう。

そう考えてみれば、この作品は内供の妥協的な安心を求めていく心理を意地悪く指摘したものとも言えるし、勝手放題に他人を押し下げる周囲の人間たちへの批判であるとも言えるであろう。私は周囲の人間の勝手は浅ましく思わないでもないが、かといって内供に同情する気持ちにはならなかった。

おそらく、内供が僧であることに、私は私で、勝手にこだわっているのであろう。というのも、鼻が異常に長いことは、我々にも取るに足らないこととは思われないが、それにしても、内供はずいぶん平凡な自尊心を読者に見せているように、思われてならないのである。

内供は長い鼻を気にしながらも、長年に渡って、それを気にしない風を装って生きて来たようである。だが、それは装いに過ぎないので、その不自然が、はっきり言ってしまえば、内供の人望が今一つなところに結果しているのであろう。内供は弱点を魅力に変えていくには有利な立場にいたはずで、やはり少々残念なのである。

内供が僧であるということは、全然意味を持たないことである。内供は人の視線の中で自分が普通であるか、優れているか、という風に思考する。これは、ごく平凡な自意識の持ち方である。だから、周りから嘲笑されれば元の鞘に収まるという結論に自然と到達するのである。

そう考えて見ると、大正と現在の価値観の違いで、この作品の見え方も多少の変化を被るものかもしれない。どうも、私にはあまり、内供的な結論が通常なものだとは思えないのである。鼻が短くなって嬉しいのであれば、喜べばいいではないか。

我々は依然弱く影響され易い意志を持ち、また意地悪くもあるかもしれないが、どちらかと言えば、私はコンプレックスの問題は共感をより多く生むものと思っている。私達は相互監視の中で、低い位置に留まることの不毛を知らないわけではない。

一つ断っておくが、私は何も内供が憎いわけでもない。そして、この物語を行き詰まりのように感じているのでもない。というのも、鼻が再び長くなり、朝方の秋風に吹かれて安心する内供は、もしかすると、今度ばかりは本当に、自身の鼻の問題と折り合いを付けていく気持ちになったのではないかと、そんな予感がするからである。

 

2. 参考文献

芥川龍之介「鼻」『羅生門・鼻』(新潮文庫)

 

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