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【解説】高校生でも分かる!小林秀雄「無常という事」が伝えたい「心の風景」とは?

小林秀雄「無常という事」のイメージ画像として新緑

 

今回は小林秀雄「無常という事」を解説してゆきます。

この記事はLian(リアン)の<高校生でも分かる!>シリーズの第6回目です。このシリーズでは高校生のみなさんのお手伝いをして、作品を理解してゆきます。

小林秀雄は「批評の神様」とか「読書の達人」とか言われる人物で、基本的に文章は難しいと言われます。今回の「無常という事」という評論文は、これまではいくつかの国語教科書にも掲載されていたようですが、どれだけ理解してもらえたのだろうかと、私は興味があります。というのも、小林の文章の難しさは論理的な難しさなのではなくて、内容にピンとくるかどうかという問題だからです。

逆に言えば、内容にピンときてしまえば、小林の文章は途端に難しくなくなってしまいます。感覚的に読めるようになってしまうからです。そして、今回の「無常という事」が理解できれば、他のほとんどの作品も理解できるようになると私は思っております。みなさんも、小林の文章にぜひ挑戦してみて下さい。

それでは、解説に進んでゆきましょう。

 

1. 一つのキーワードで理解しましょう

私がこの作品の読解の鍵として設定する言葉は「心の風景」です。作中では、例えば「常なるもの」などと表現されています。この言葉を正確に定義することは難しく、定義することによって、かえって意味を失っていく類のものなのですが、小林の真似をして言い換えてみるのであれば、「心の風景」とは、心に生じてくる「ものの姿」のことです。

ここで言う「もの」とは、単に目の前にあって、目で見える物のことだけではありません。小林の思想において重要な「もの」の中には、歴史、思想、人間が含まれます。小林は、それら非実体的なものが「心の風景」として心に生じてきた時の「確かな手ごたえ」を大切にする思想家です。その「確かさ」が「常なるもの」という言葉に繋がります。

さて、「常なるもの」の反対の言葉は、言うまでもなく、タイトルにもある通り「無常」です。みなさんは「無常」が何なのか知っておりますでしょうか。もちろん、知っていないと思います。私にしたところで、いつも答えられるようにしているわけではありません。

普通の説明で言えば、「無常」とは「世の中は常に変化し続けており定まることはない」といった具合の思想です。今日が明日、消えてしまうことへの虚しさと言ってもいいでしょう。

しかし、この作品で小林の考えている「無常」には、もう少し違った意味合いがあります。

順番に考えてみましょう。「無常」とは、「確かではないもの」とか「定まらないもの」のことだと言えるわけですが、「確か」ではなく、「定まらない」ものとは、具体的に何なのでしょう。小林によれば、それは「生きている人間」です。「何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出かすのやら」分からないからです。

生きている人間は「定まらないもの」です。今日と同じ行動を、明日もするとは限りません。また、今日と同じように、明日は考えないかもしれません。行動も考え方もその場限りのものなのです。変わらない約束などないのです。生きている限り、その人の表面上の言動はコロコロ変わって当然なのです。

小林は作中で「歴史の新しい見方とか新しい解釈」について言及しています。この部分は少し難しかったかもしれませんね。これは、すなわち「歴史理論」のことです。

一般的に、私たちは「理論」というと、場所と時間に関係なく成立する法則のようなもののようにイメージしますが、実のところ、理論などは「そう言ってみただけ」のものに過ぎないのかもしれません。そうであれば、理論の「確かさ」などは見せかけで、実は「定まらないもの」でしかないのです。小林の時代には理論や思想が飽和状態にあって、人々の頭の中も言論の世界もメチャメチャだったのですが、小林には、何よりもまず、そのような世界に「無常」を感じたのでしょう。人間が口先だけで喋っている世界は「無常」なのです。

このように「生きている人間」は無常なのですが、小林は死んでいる人間に関しては「確か」になってくると言っています。それはなぜなのでしょうか。

それは、彼らが「心の風景」に写ってくるからです。生きている人間を見ると、表面上のゴチャゴチャっとした部分が目について、頭の方が働いてしまいますが、死んだ人間は見るものではなくて想うものです。だから、自然と「心の風景」に写るのです。そこで感じる「確かさ」が、「常なるもの」という感じを与えるのです。

歴史についても、小林は同じように言います。つまり、歴史理論などは「定まらないもの」に過ぎず、頭で歴史をこねくり回そうとしているに過ぎないのですが、歴史というものは「心の風景」に生じてくるもので、そうであれば、これほど「確か」なものはないと言うのです。

ここで、結論です。

現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである。

現代人は、もしかすると「心の風景」の「確かさ」などは忘れてしまって、頭で理解できることと実利とを結びつけるような思考しかできなくなりつつあるのかもしれません。というより、その傾向は近代化以降、ずっと続いているものと言っていいでしょう。ここでみなさんに覚えておいてほしいことは、「心の風景」を持つということは、すなわち「心眼(小林「私の人生観」)」を持つということなのだということです。

みなさんは論理的な思考や読解を練習しなければいけませんが、それは、基本的には他人の主張を情報として処理するための能力です。確かに、現代人にとって必須の能力であることは間違いありません。

しかし、他人の主張などは「無常」に過ぎないのかもしれないと、みなさんはこの作品で学んだわけです。論理だけでは、みなさんがものごとの真実や本質に向かって進んでいけるとは限らないということです。それに、論理だけでは、書いてある言葉は読めても、そこから抜け出して自由に考えることができません。

真実と本質を掴むには、頭だけではなくて「心眼」も働かせる必要があります。言わば、論理とは平面的に働く力で、「心眼」は円的に働く力です。現代人は平面的な力ばかりに頼ろうとしていますが、真実と本質が平面的地平に分かりやすく置いてあるものとは限りませんよね。平面ってつまり、紙の上のことですから。

 

2. 私のコメント

私は学生の頃、全集を読むくらい小林秀雄が好きでした。

最初は1%しか分からなかったけれど、その1%だけで惚れてしまいました。

みなさんは、本質を掴む練習をしてみて下さい。コツは、自分の能力を信じることです。

自分は本質を掴めるのだ。いつも、そう思って読んでみて下さい。

 

3. 参考文献

小林秀雄「無常という事」『モオツァルト・無常という事』(新潮文庫

この記事における引用は、特に断りのない限り全て上記「無常という事」によるものです。

 

4. 他の記事

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