- (1)神聖ローマ帝国
- (2)フランク王国
- (3)オットー大帝
- (4)カノッサの屈辱
- (5)フリードリヒ1世と2世
- (6)大空位時代と金印勅書
- (7)婚姻政策とカール5世
- (8)ウェストファリア条約
- (9)神聖ローマ帝国の滅亡
- (10)参考文献
- (11)おすすめ記事
(1)神聖ローマ帝国
神聖ローマ帝国は、オットー大帝の皇帝戴冠(962年)によって誕生し、ヨーロッパがナポレオンに蹂躙される中、1806年に滅亡しました。
その誕生史はゲルマン人の大移動から始まり、西ローマ帝国の滅亡、フランク王国の成立にまで遡ります。これらは5世紀の出来事でした。
この記事では、神聖ローマ帝国の歴史をフランク王国時代から振り返り、その滅亡までの展開を解説していきます。
(2)フランク王国
最初に、神聖ローマ帝国の前史として、西ローマ帝国の滅亡から、フランク王国の成立とカール大帝の皇帝戴冠について見ていきます。
中世以前のヨーロッパは、ローマ帝国によって支配されていました。領土が最大であった頃には、地中海をぐるりと囲むように、領土が形成されていました。
しかし、統治上の問題から、395年、ローマ帝国は東西に分断され、西ローマ帝国と東ローマ帝国(ビザンツ帝国とも言う)が成立することになりました。ちなみに、その少し前の392年、テオドシウス帝によって、帝国の国教はキリスト教であると定められました。
また、ローマ帝国の東西分裂と同じ頃から、アジアのフン人に押されたゲルマン人の大移動が始まり、西ローマ帝国領内へのゲルマン人の侵入が問題となりました。
そして、476年、ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルの手によって、西ローマ帝国は滅亡してしまいました。かつての西ローマ帝国領内には、いくつかのゲルマン人国家が樹立することになりました。
そのゲルマン人国家の一つが、フランク族が現在のフランスを中心地として建国したフランク王国でした。
メロヴィング家の国王クローヴィスが5世紀、早くも正統のキリスト教に改宗したこともあって、フランク王国は西ヨーロッパで中心的地位を占めることになります。
その後、8世紀中頃に王朝が変わり、元々宮宰という役職を世襲していたカロリング家のピピンが貴族会議で推戴され、フランク国王となりました。
ピピンは国王戴冠の前にローマ教皇の同意も取り付けており、その見返りとして、ローマ教会を脅かしていたランゴバルト王国を攻め、イタリア中部のラヴェンナ地方を教皇に寄進しました。以後、これが教皇領となりました。
カール大帝はピピンの子でした。彼が800年に西ローマ帝国皇帝の位を得、西ヨーロッパに帝国が復活しました。これを、カールの戴冠と言います。西ローマ帝国の皇帝位の復活である点に注意が必要です。
その背景には、教皇がローマ貴族の反抗などに悩み、強力な保護者を必要としていたという事情があります。当時の教皇はレオ3世でした。
教皇が皇帝を選び、その頭に冠を載せるなどという前例は今までなかったので、カールの戴冠はレオ3世の創作のようなものでした。しかし、キリスト教帝国の成立を夢見るイギリス生まれの学者アルクインの説得もあって、カール大帝は皇帝戴冠を受け入れました。
実際、カール大帝の時に、フランク王国の領土はフランスを中心とし、スペイン、ドイツ、イタリアに及ぶようになっていたため、実力としても西ローマ帝国の再来と言うべきものになっていました。
カール大帝の皇帝戴冠は800年の12月25日のクリスマス、ローマのサン・ピエトロ大聖堂で行われたと言われています。サン・ピエトロ大聖堂はカトリック教会の総本山です。
(3)オットー大帝
神聖ローマ帝国は、ザクセン家のオットー1世(オットー大帝)が西ローマ皇帝に戴冠されたことで成立したと言われます。ここでは、カール大帝以後の、その経緯について説明していきます。
カール大帝は812年に亡くなるのですが、その後、子のルートヴィヒ敬虔王が皇帝位を継ぎました。
これは特に問題なかったのですが、敬虔王の死後、三人の息子たちがフランク王国の相続を巡って、兄弟で争いを始めます。この争いは843年のヴェルダン条約で決着することになりました。
ヴェルダン条約によって、フランク王国は西フランク王国、東フランク王国、中部フランク王国に分割されることになりました。これが、順番にフランス、ドイツ、イタリアの原型となりました。
なお、神聖ローマ帝国はドイツを中心とする帝国なので、ヴェルダン条約で成立した東フランク王国が発展したものになります。
フランク王国分裂後の皇帝位がどうなったかと言うと、最初は中部フランク王国の国王が皇帝位を継いでいました。しかし、やがて皇帝は選ばれなくなります。
各フランク王国のカロリング家もやがて途絶えます。911年、東フランク王国ではカロリング家ではない国王コンラート1世が大貴族による選挙で即位しました。
ただ、コンラート1世は息子に王位を継承させることができず、有力なザクセン公のハインリッヒ1世を後継に指名して、919年に亡くなりました。
ハインリッヒ1世の即位によって、ザクセン朝が創始されます。オットー大帝はそのハインリッヒ1世の息子でした。父子二代はマジャール人を撃退するなどして、ザクセンの保護に努めました。
オットーが皇帝となった背景には、カールの戴冠の時と同じく、またもローマ教皇の政治的困難がありました。
当時、中部フランク王国はイタリア王国となっていましたが、その国王ベレンガリオ2世は教皇領を侵食していました。そこで、教皇ヨハネス12世は教皇領の保護をオットー大帝に依頼したのです。
オットー大帝がこれに応えたため、大帝は教皇により、ローマで西ローマ皇帝に戴冠されました。これが神聖ローマ帝国の成立と言われています。
ただ、今回の皇帝戴冠は、教皇主導ではなく、オットー大帝主導で行われました。そのため、教皇ヨハネス12世は戴冠後、今度は大帝に抵抗しようとしました。
その結果、オットー大帝は軍事行動を起こし、ベレンガリオ2世からイタリア王位を奪いました。それにより、大帝はドイツとイタリアの王となりました。
厳密に言うと、「神聖ローマ帝国」という国号が正式に登場するのは、まだ先の話になります。それどころか、ザクセン朝の時代には、自らの帝国を「ローマ帝国」と名乗りすらしませんでした。
国号の使用問題はともかく、以上のようにして、オットー大帝によって、神聖ローマ帝国が創始されることになりました。
(4)カノッサの屈辱
1024年、ザクセン朝最後の皇帝ハインリヒ2世が没すると、コンラート2世が即位して、ザリエリ朝が始まりました。
コンラート2世は現フランスのブルゴーニュ王国を継承して、領土をフランスの一部にも広げました。そのためか、彼の時代の公文書に初めて「ローマ帝国」の国号が使用されました。ただ、未だ「神聖ローマ帝国」ではありませんでした。
コンラート2世と息子のハインリヒ3世は共に皇帝権の強化に努めたので、諸侯の力は比較的抑えられました。しかし、続くハインリヒ4世は国内的にも国外的にも、大きな政治的困難に直面することになりました。
ところで、この頃の中世ヨーロッパの重要な動きとして、クリュニー修道院の教会改革運動があります。クリュニー派の修道士はローマ教皇庁の乱脈、すなわち、聖職売買と聖職者の結婚を批判して、カトリック教会の改革を主張したのです。
世界史上最も有名な事件の一つである「カノッサの屈辱」の当事者の一人、教皇グレゴリウス7世は元々、そのクリュニー派の修道士でした。
グレゴリウス7世は聖職売買と聖職者の結婚の否定を名目として、皇帝がカトリック教会へ世俗権力を行使することを拒否しました。
これが、いわゆる聖職叙任権闘争です。当時、皇帝は諸侯への対抗の必要もあり、対抗勢力として、帝国内の教会に影響力を及ぼしました。聖職叙任権の行使はその手段の一つでした。
1076年2月、教皇グレゴリウス7世は皇帝ハインリヒ4世を破門しました。皇帝権の制限を目論む諸侯は、むしろこれを歓迎しました。
皇帝と言えども、破門されては敵わないので、ハインリヒ4世は12月に自らカノッサ城を訪れ、教皇の許しを請いました。皇帝は許しを請うため、3日間雪の中、裸足で立ち続けたと言われます。
以上が有名なカノッサの屈辱ですが、実はこれ以降もハインリヒ4世と教皇の争いは収まりませんでした。
ハインリヒ4世は二度目の破門をきっかけとして、別の教皇を擁立してローマを攻めています。
これに対して、グレゴリウス7世は南イタリアのノルマン人と手を結んで戦い、皇帝軍を撃退しました。しかし、そのノルマン人の部隊がローマで掠奪を行ったため、ローマ市民の恨みを買い、ローマを追われました。
ハインリヒ4世の方も散々で、ドイツ国内では諸侯に別の王を立てられ、更には二人の息子に反乱を起こされました。
聖職叙任権闘争は、反乱の息子ハインリヒ5世と、教皇カリクストゥス2世との間に結ばれたヴォルムス協約(1122年)によって、一応の解決を見ます。
これによって、聖職叙任権は教皇にあることが確認され、皇帝は領域内の教会への支配権を弱めることになりました。
(5)フリードリヒ1世と2世
ハインリヒ4世に反乱を起こし、教皇とヴォルムス協約を結んだ息子ハインリヒ5世は世継ぎを得ることができませんでした。
そのため、一悶着の末、シュタウフェン家のコンラート3世がドイツ王に即位し、シュタウフェン朝が創始されました。ただ、彼は皇帝には即位しませんでした。
その死後、甥のフリードリヒ1世が皇帝に即位(1155年)します。フリードリヒ1世は赤髭王(バルバロッサ)とも呼ばれた英明な君主でした。
ここで、ロンバルディアという北イタリアの地域が急浮上してきます。当地は交通の要衝であり、早くから貨幣経済が浸透していました。
オットー大帝以来、皇帝はドイツ王でもあり、イタリア王でもありました。それにも関わらず、ロンバルディアはミラノを中心として、皇帝の権威に容易に従わない姿勢を示しました。
そこで、赤髭王は合計6回にも渡るイタリア遠征を行わなければならず、しかも、この遠征は必ずしも上手くいったわけではありませんでした。
また、赤髭王は教皇とも対立しました。というのも、教皇が帝国に対する宗主権を主張したからです。もちろん、赤髭王はこれを認めません。
教皇の主張を否定する論拠とされたのが「両剣論」でした。すなわち、現世の統治は二つの剣(教会と世俗君主)が行うとする説で、その根拠は聖書にありました。
これによれば、世俗君主の権力も神に直接由来するものであり、二つの剣は同権であることになります。赤髭王は皇帝の権力が神に直接由来するという意味を込めて、国号として初めて「神聖帝国」を採用しました。
神聖ローマ帝国の「神聖」とは、ローマ教皇に戴冠されるから「神聖」なのだとする説明もありますが、上記の経緯によれば、むしろ「神聖」とは、皇帝の権威は教皇に依存せずとも「神聖」であると、断固主張する意味であったと言えます。
更に、赤髭王は第三回十字軍遠征を自ら率いました。しかし、赤髭王は水浴の際に川で溺れて死んでしまいました(1190年)。死後、赤髭王は実は不死で、帝国の危機に際して再び現れて帝国を統治するという伝説が流布することになりました。
死後に伝説のできた赤髭王は人々の驚嘆の的であったと推察できますが、その孫フリードリヒ2世もまた、偉大な皇帝として記憶されています。
赤髭王の次代・父帝ハインリヒ6世の皇妃コンスタンツァはイタリア人でした。彼女は両シチリア王国のオートヴィル王家の娘だったのです。
両シチリア王国というのは、ナポリとシチリアから成る南イタリア国家で、ノルマン人のオートヴィル王家が創始した王国です。
当時、オートヴィル王家の相続者は皇妃コンスタンツァだけになっていたので、両シチリア王国はいずれ皇帝家のものになることが確実でした。
しかし、当時の教皇インノケンティウス3世はこれを嫌いました。ちなみに、インノケンティウス3は教皇権絶頂期の代表的人物で、「教皇は太陽、皇帝は月」の発言で有名です。
そのこともあり、ハインリヒ6世が亡くなり、フリードリヒ2世がわずか3歳で即位問題に直面すると、ドイツ王は一時シュタウフェン家のものではなくなり、フリードリヒ2世は両シチリア王国を相続しました。
更に、摂政となった母コンスタンツァにより、両シチリア王国に対する教皇の宗主権が認められました。コンスタンツァの死後は、インノケンティウス3世自身が摂政になりました。
しかし、フリードリヒ2世は1215年、反対諸侯を倒してドイツ王になることができました。1220年には皇帝にもなっています。ただ、両シチリア王国の王位は息子ハインリヒに譲っていました。
その後、息子ハインリヒは両シチリア国王のままドイツ王になっているので、教皇の嫌ったドイツと両シチリア王国の同君連合は実は実現しています。そのため、フリードリヒ2世は何度か破門されています。
フリードリヒ2世を理解する上で重要なことは、この皇帝にとって、帝国の重心はドイツではなく、イタリアにあったということです。
皇帝は、ドイツ統治に関しては、教会勢力と諸侯勢力の両方と協定を結び、彼らの特権を認めています。その一方で、両シチリア王国内では教皇の干渉を廃して、国王の絶対王政のような体制を樹立していきます。
また、フリードリヒ2世は十字軍も組織しているのですが、アラビアの知識にも明るい皇帝を信頼したアイユーブ朝のスルタンによって、聖地エルサレムは戦わずして皇帝のものとなりました(1229年)。
それにも関わらず、フリードリヒ2世はエルサレムをキリスト教王国とせず、多文化を共存させる方針を取りました。
以上のことから、フリードリヒ2世の統治感覚は、限りなく「ローマ帝国」的なものに近かったのだと言うことができます。ローマ帝国はイタリアを中心として、属州を緩やかに統合した帝国だったからです。
フリードリヒ2世のドイツ統治は、司教や諸侯に有利に働き、ドイツが多数の領邦から成る領邦国家として分裂するきっかけを与えたとも言え、評価は様々です。
しかし、フリードリヒ2世は歴代皇帝の中で、神聖ローマ帝国は「ローマ帝国」であるとする理念に最も近いところにいたのだと言うことができます。
ただ、フリードリヒ2世が1250年に亡くなると、二十数年でシュタウフェン家の血筋は途絶え、シュタウフェン朝は滅亡してしまいました。
偉大なフリードリヒ2世の治世の後に来たのは、少し大げさに言えば、神聖ローマ帝国消滅の危機とも言える「大空位時代」でした。
(6)大空位時代と金印勅書
大空位時代とは、1250年にフリードリヒ2世が亡くなり、1273年にハプスブルク家のルドルフ1世が皇帝に即位するまでの、ドイツ王が同時に複数擁立され、皇帝が空位となっていた約二十年間のことです。
大空位時代にドイツ王となった人物は複数いますが、ここではホラント伯ウィレムを簡単に紹介しておきたいと思います。
当時、フリードリヒ2世の息子コンラート4世もドイツ王に即位していました。それにも関わらず、ウィレムは対立王として、同時に国王となります。
1254年にコンラート4世が亡くなると、一時的に、ウィレムは唯一の国王となることができました。しかし、国王としての実権はありませんでした。
意外なことに、「神聖ローマ帝国」という国号を最初に使用した人物は、実はこのウィレムに他なりませんでした。帝国としての実態が限りなく曖昧であった時期に、最も権威に満ちた国号が採用されたのです。
1270年頃になると、諸侯も少々、「このままではまずい」と思うようになってきました。その理由の一つは、フランス王フィリップ3世が皇帝位の継承を主張するようになってきたことです。
ところで、この頃のドイツ王および神聖ローマ皇帝の位は七人の選帝侯によって選挙される習わしになっていました。元々はもっと多くの選挙人がいたのですが、フリードリヒ1世赤髭王が大幅に削減したのです。
選帝侯の筆頭はマインツ大司教でした。そのマインツ大司教と、ホーエンツォレルン家のニュルンベルク城伯が主導して新たに皇帝に迎えたのが、ハプスブルク家のルドルフ1世でした。
神聖ローマ帝国と言えばハプスブルク家、ハプスブルク家と言えばオーストリアというイメージがあるかもしれませんが、ハプスブルク家の皇帝の初代はこのルドルフ1世でした。
しかも、ハプスブルク家は元々はスイスの貧乏貴族に過ぎませんでした。ルドルフ1世が皇帝に迎えられたのも、仮に即位しても諸侯の脅威にならなそうだから、という理由からでした。
ホーエンツォレルン家のニュルンベルク城伯は率先して新皇帝に仕えました。ホーエンツォレルン家は後にプロイセン王となり、神聖ローマ帝国の滅亡後にはオーストリア抜きでの近代ドイツ統一を主導します。
そう考えると、この時の歴史的経緯は偶然にしては出来過ぎているくらいの皮肉であると言うことができますが、問題であったのはニュルンベルク城伯ではなく、ボヘミア国王オタカルでした。オタカルはルドルフ1世への臣従を拒否したのです。
ただ、結果的には、ルドルフ1世はオタカルに勝利し、その領地となっていたオーストリアを得ることができました。いわゆる、オーストリア・ハプスブルク家が成立した瞬間です。
とは言え、これで皇帝位のハプスブルク家世襲が成ったわけではなく、皇帝位の世襲は15世紀に入るまで待たなければなりませんでした。
実際、ルドルフ1世の長男アルブレヒト1世(ドイツ王として在位1298~1308年)を除いて、しばらくの間、皇帝はハプスブルク家以外から選ばれます。
その中で最も重要な人物は、ルクセンブルク家のカール4世でした。この皇帝は1356年に金印勅書を出し、皇帝選出の手続き、選帝侯の地位、帝国議会の規則などを定めました。
ここで、選帝侯はマインツ大司教を筆頭として、トリーア大司教、ケルン大司教、ザクセン公、プファルツ伯、ブランデンブルク辺境伯、ボヘミア国王から成るものと確認されました。また、選帝侯にはいくつかの特権が付与されました。
他に重要な点は、選挙は過半数で決まり、選挙の結果に服従しない選帝侯は位を剥奪されるとしたこと、皇帝の選出には教皇の承認を必要としないとしたことです。この規定によって、皇帝選挙に関連する問題が大幅に解消されました。
その後、カール4世は息子のヴェンツェルとジギスムントに皇帝位を継がせることに成功し、ルクセンブルク家の皇帝位世襲を実現させたかに見えました。
しかし、ジギスムントは領地ボヘミア(チェコ)で宗教改革者ヤン・フスを火刑にしたことから、領内でフス戦争(1419~34年)を引き起こし、1437年、嫡子を残さないまま亡くなってしまいます。
そのため、皇帝位とボヘミア(とハンガリー)は、ジギスムントの一人娘の婿で、ハプスブルク家出身のアルブレヒト2世のものになります。以後、皇帝位はハプスブルク家の世襲とする慣習が成立することになります。
(7)婚姻政策とカール5世
ハプスブルク家の皇帝即位は実に百年以上ぶりだったのですが、アルブレヒト2世は在位一年程度で亡くなってしまいます。その跡を継いだのは、従弟のフリードリヒ3世でした。
フリードリヒ3世は長生きで、十五世紀の後半を皇帝であり続けました。ただ、あまり良いところはなかったらしく、せっかく手に入れたボヘミアとハンガリーも他家に奪われてしまいました。
ハプスブルク家の運命を変えたのは、フリードリヒ3世の息子マクシミリアン1世の婚姻政策でした。
まず、当のマクシミリアン1世自身は、フランスのブルゴーニュ公爵家の娘と結婚しました。
中世のブルゴーニュはブルゴーニュ王国とブルゴーニュ公爵領に分かれていて、この記事でたびたび登場しているのは、前者の方です。ブルゴーニュ王国は帝国が代々継承してきた領地でした。
ただ、マクシミリアン1世の頃には、すでにブルゴーニュ王国は消滅したようなものでした。しかも、公爵領の方もフランスに吸収されてしまいます。とは言え、この婚姻の結果、ハプスブルク家はネーデルラント(オランダとベルギー)を得ました。
次に、マクシミリアン1世の息子フィリップ美公はフアナというスペイン王女と結婚しています。
スペイン王国は、1479年、カステーリャ王国のイサベルとアラゴン王国のフェルナンドが結婚したことによって成立しました。
中世のイベリア半島にはイスラーム勢力の国家が存在し、イサベルとフェルナンドの時代には、キリスト教勢力はグラナダのナスル朝と争っていました。これを、レコンキスタ運動(イスラーム勢力からの領土奪還運動)と言います。
1492年、イサベルとフェルナンドはグラナダを陥落させ、レコンキスタ運動を完成させました。また、コロンブスがスペイン王国の命で航海し、アメリカ大陸を発見したのも同年でした。
フィリップ美公が結婚したフアナは、そのイサベルとフェルナンドの娘でした。この婚姻は後々、ハプスブルク家がスペインを手に入れることに繋がります。
フィリップ美公とフアナとの間には、後の神聖ローマ皇帝カール5世や、後のオーストリア大公フェルディナントなどが生まれました。
そのフェルディナントと、もう一人の娘マリーはハンガリー王家と結婚しました。これによって、ハプスブルク家はボヘミアとハンガリーを奪還しました。
以上のように、マクシミリアン1世の婚姻政策によって、カール5世(皇帝として在位1519~56年)の時代には、ハプスブルク家の帝国は、中南米も含む広大な大帝国に変貌していました。
ただし、だからと言って、皇帝が政治的に強力な存在になったというわけではありませんでした。カール5世の時代には、フランスとの争いや宗教改革の問題があって、思うように権力を築くことができなかったのです。
フランスとの争いはイタリアを舞台に繰り広げられました。イタリア戦争(1494~1559年)です。これは、フランスのシャルル8世がナポリへ侵攻したことをきっかけとするもので、マクシミリアン1世の時代に始まりました。
そもそも、少なくとも北イタリアは皇帝の統治する領土であったはずなのですが、この頃のイタリアは帝国にとって、完全に外国となっています。
そのことが反映されているのか、マクシミリアン1世の頃から、帝国の国号が「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」に変化しています。
これまでの皇帝は、曲がりなりにも、ドイツ王、イタリア王、ブルゴーニュ王を兼ねた存在であり、「縮小版」とは言え、帝国とは「ローマ帝国」であるという理念を、領土的に実現していたと言えます。
この「ドイツ国民の」という付加語は、もはや帝国は「ローマ帝国」ではなく、ドイツであると宣言するようなものでした。しかも、マクシミリアン1世以来、皇帝即位のために教皇に戴冠されるというプロセスも不要とされました。
イタリア戦争と言えば、やはり皇帝カール5世とフランス王フランソワ1世の戦いというイメージが強いでしょう。実は、その戦いの前哨戦は、皇帝選挙において戦われていました。
ここで理解すべきは、帝国の国号に「ドイツ国民の」という付加語が付くようになったとは言え、当時の諸王にとって、「皇帝」とは「ローマ帝国」の皇帝だったということです。
ヨーロッパ人にとって、「ローマ帝国」とは再現されるべき理想でした。比較的王権の強かったフランスでも事情は同じで、フランソワ1世が勝手に「皇帝」を名乗るなどということはありませんでした。
すると、ナポレオンが自ら皇帝になったなどということは一種の革命で、以後、オーストリア帝国とかドイツ帝国とかいった、ローマ帝国と何の関係もない帝国が現れるようになるのです。
そこで、フランソワ1世は神聖ローマ皇帝に立候補しました。対するは、スペイン王となったカール5世でした。フランス王は、スペインとドイツが連合し、フランスを挟撃することを嫌ったのです。
この選挙は恐ろしいまでの金権選挙となり、カール5世はアウクスブルクの金融業者フッガー家の資金を頼りました。結局、一応は「ドイツ人」であるカール5世が満場一致で皇帝に選出され、フランス人皇帝は誕生しませんでした。
それ以降、カール5世とフランソワ1世は戦い続けます。イタリア戦争の終結は、1559年のシャトー・カンブレジ条約を待たねばなりませんでした。
宗教改革にも、カール5世は悩まされました。
ドイツで始まった宗教改革は、1517年にルターが免罪符を批判する「九十五箇条の論題」を世に問うたことに端を発します。ドイツ国内は、ルター派諸侯とカトリック領主とに分断されました。
カール5世は思うようにルター派を根絶できなかったのですが、1546年のシュマルカルデン戦争では、宗教改革派の同盟であるシュマルカルデン同盟に勝利することができました。
しかし、この勝利後のカール5世は、息子のフィリップ2世にスペインと皇帝位を継承させようとするなど、皇帝として強力に振る舞おうとしました。結局、これが更なる反発を招くことになります。
1552年、ザクセン選帝侯モーリッツを中心とする反乱が起こります。この反乱でドイツ統治に辟易したカール5世は、その任を弟のオーストリア大公フェルディナントに譲りました。
そこで、ドイツ国内の宗教対立を終息させるため、フェルディナントがルター派と結んだのが、アウクスブルクの宗教和議(1555年)でした。これによって、ドイツの諸侯はルター派かカトリックかを選ぶ、一定の信教の自由を認められました。
結局、帝国とスペインとの恒常的な連合は成立しませんでした。
カール5世の後、皇帝は弟のフェルディナントが、スペインは息子のフィリップ2世が継ぎ、ハプスブルク家はオーストリア・ハプスブルク家とスペイン・ハプスブルク家に分かれることになりました。
なお、宗教改革について更に詳しくは、以下の記事をご参照下さい。
よく分かる「宗教改革」【世界史】 - Rin's Skyblue Pencil
(8)ウェストファリア条約
先述のアウクスブルクの宗教和議(1555年)以後も、新教徒とカトリックとの間の対立が完全に解決されたわけではありませんでした。
それどころか、新教徒とカトリックとの対立は実際の戦争にまで発展することになってしまいました。ドイツ三十年戦争(1618~48年)です。
アウクスブルクの宗教和議では、諸侯にルター派かカトリックかを選択する権利が認められました。
それはすなわち、ある領主がルター派を選べば、その領邦内にいる農民や市民もルター派を強制されるということでした。一定の信教の自由は、あくまで諸侯達だけの権利だったのです。
その権利の延長として、ルター派の諸侯はカトリック教会から財産を没収し、教会を新教化していきました。これにより、教会領は力を失っていきました。アウクスブルクの宗教和議の埒外にあったカルヴァン派も、同様の動きを見せました。
このような動きの過程で、プファルツ選帝侯を盟主とする新教徒の連合と、バイエルン公を盟主とするカトリックの連盟とが形成され、対立することになりました。
ドイツ三十年戦争の火蓋が切られたのは、ボヘミアにおいてでした。
当時の神聖ローマ皇帝はフェルディナント2世でした。皇帝は熱心なカトリック教徒であり、ボヘミアの領主でもあるはずでした。しかし、新教のボヘミアの領民はカトリックの領主に反抗する姿勢を見せました(1618年)
ボヘミアは徹底的に攻撃され、その後、一時ボヘミア王位を奪っていたプファルツ選帝侯も敗れました。その結果、プファルツ選帝侯は選帝侯位を失い、代わりにバイエルン公がこれを得ました。
次の戦いは、デンマークとの間で戦われました。デンマークのクリスチャン4世は新教側に付いて皇帝軍と戦いましたが、これを破ることができません。皇帝軍の指導者は傭兵隊長ヴァレンシュタインでした。
その後、フェルディナント2世が諸侯に同盟を禁止するなど、皇帝権を振りかざすような姿勢を見せ始めたため、選帝侯位を得たカトリック連盟の盟主バイエルン公をはじめとして、皇帝への反発が高まりました。
傭兵隊長として台頭しつつあったヴァレンシュタインも一時罷免されましたが、フランスの支援を受けたスウェーデンとの戦いが始まると、再びヴァレンシュタインが軍を率いることになりました。
リュッツェンの戦いで勝利したスウェーデンでしたが、国王グスタフ・アドルフは戦死してしまいました。また、ヴァレンシュタインも警戒されて、皇帝に暗殺されてしまいました。
スウェーデン戦争で新教側は勢力を盛り返したに見えましたが、戦況は膠着状態に陥りました。しかも、今度はフランスが直接参戦してきます。その背後にいたのは、宰相リシュリューでした。
泥沼化した戦争を終結させるため、1644年以降、ヴェストファーレン公国のオスナブリュックとミュンスターで講和会議が開かれ、1648年、ようやく講和条約が締結されることになりました。
これが、ウェストファリア条約です。この条約は、神聖ローマ帝国の「死亡診断書」と言われることもあります。では、なぜ「死亡診断書」なのでしょうか。
最も重要な点は、この条約によって、諸邦の主権平等が認められたことです。
諸邦に主権があるということは、例えば、諸邦は一応、帝国の不利益にならない限りではありますが、外国などと同盟を結ぶことができます。内政や外交の権利を諸邦が平等に有しているからです。
神聖ローマ帝国は元々諸邦による分裂国家のようなものでしたが、この条約はその性質を限りなく高めることに繋がりました。帝国としての実態は有名無実なものになってしまったのです。
他に、ウェストファリア条約の結果、スイスとオランダの独立が正式に認められることになりました。
スイスは中世から帝国の一部でした。ハプスブルク家の元々の根拠地がスイスであったことは先述した通りです。しかし、1499年のシュヴァーベン戦争以来、スイスは帝国から事実上独立していました。
オランダはスペイン王フィリップ2世の治世からスペイン・ハプスブルク家の領地になっていました。しかし、1568年からの北部ネーデルラントの独立戦争の結果、1609年に事実上独立しています。
また、ウェストファリア条約はカルヴァン派を公認しました。アウクスブルクの宗教和議で認められた新教は、実はルター派だけだったのですが、これにカルヴァン派が加えられたのです。
以上のように、帝国は宗教戦争を通して、事実上「あって無きもの」のようになってしまいました。
(9)神聖ローマ帝国の滅亡
神聖ローマ帝国に「死亡診断書」が下された1648年以降、ヨーロッパで覇権を握ったのは太陽王ルイ14世のフランスでした。
ルイ14世は対外膨張に積極的だったので、ウェストファリア条約後のヨーロッパにも平和は訪れませんでした。
その戦争の一つが、スペイン継承戦争(1701~14年)です。
スペインのカルロス2世はスペイン・ハプスブルク家出身の国王でしたが、病弱で世継ぎがいませんでした。ただ、カルロス2世の姉と妹が、それぞれルイ14世と神聖ローマ皇帝レオポルト1世に嫁いでいました。
そこで、ルイ14世はスペインの継承権を主張したのです。
これに猛反発したのが、商業国家イギリスとオランダです。両国は勢力均衡政策によって大帝国出現を防止することを目指しました。両国は皇帝に近付き、ルイ14世と戦いました。
スペイン継承戦争の結果、結局、スペインをルイ14世のブルボン家に譲ることが決められました。ただ、フランスとスペインの合同は禁止されました。
また、この戦争の過程で、プロイセン公国が王国に昇格(1700年)しました。軍事力を提供する見返りというわけです。
プロイセンはブランデンブルク選帝侯国と合同しており、ホーエンツォレルン家が支配していました。こうして、近代ドイツ形成の主役・プロイセン王国が名実共に誕生したのです。初代国王にはフリードリヒ1世が即位しました。
第三代国王フリードリヒ2世の時代になると、プロイセン王国は神聖ローマ帝国などという実体のないものには、まるで制限されなくなります。フリードリヒ2世は啓蒙専制君主の代表で、フリードリヒ大王とも言われる人物です。
この時の大問題は、ハプスブルク家の継承問題です。カール6世に世継ぎができなかったため、皇帝位を継承できない危機に直面したのです。
カール6世はハプスブルク家内では女子相続を認める手続きをし、マリア・テレジアへの相続を決めました。しかし、皇帝位の女子相続は認められていませんでした。
これをきっかけに、プロイセン王国を中心として、諸外国とオーストリアとの間で戦争となりました。オーストリア継承戦争(1740~48年)と七年戦争(1756~63年)です。
マリア・テレジアは何とか戦い抜き、夫のフランツ1世を皇帝に据えることにも成功しましたが、この戦争の過程で、オーストリアはシュレジエンをプロイセン王国に奪われました。
ところで、私はここまで、戦争の主体として「神聖ローマ帝国」ではなく、「オーストリア」という語句を使用しています。
これは、当時列強と言われた国家が、イギリス、フランス、ロシア、オーストリア、プロイセンであったことと関係しています。すなわち、神聖ローマ帝国はすでに、主体的国家としては存在していなかったのです。
ちなみに、七年戦争では、オーストリアはイタリア戦争以来対立していたフランスと同盟を組むことに成功しました。
その前提には「外交革命」と言われるマリア・テレジアの努力があったのですが、その一環として、ハプスブルク家の末娘マリー・アントワネットが後のフランス国王ルイ16世に嫁ぐことになりました。
なお、マリア・テレジア(オーストリア継承戦争や七年戦争)について、より詳しくは以下の記事をご参照下さい。
よく分かる「マリア・テレジア」【世界史】 - Rin's Skyblue Pencil
二つの戦争を通して、プロイセンの強大化が明らかになると、ドイツ諸邦はオーストリアとプロイセンの間で身の振り方を考えなければならなくなっていました。ただ、七年戦争後、ドイツは一時小康状態となります。
フランス革命(1789年)とナポレオンの登場(1804年に皇帝即位)は、その小康状態を一気に吹き飛ばしました。それどころか、これが神聖ローマ帝国に止めを刺すことになりました。
ナポレオンの皇帝即位は、「皇帝」とは「ローマ帝国」の皇帝であり、それを継承する者であるという既成概念からの脱却でした。
最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世は、眼から鱗が落ちたのか、神聖ローマ帝国消滅を前にして、ハプスブルク家の領地オーストリアの帝国化を断行しました。オーストリア帝国の誕生(1804年)です。
1806年、ナポレオンの侵攻によって、ドイツ西・南部の諸邦がナポレオンを盟主とするライン同盟を結成して、神聖ローマ帝国からの離脱を宣言しました。筆頭選帝侯のマインツ大司教やバイエルン選帝侯国も含まれていました。
同年八月、神聖ローマ帝国の解体に際して、最後の皇帝フランツ2世には、もはや思い残すこともありませんでした。帝国の解体は正式に宣言され、新聞には「ドイツ帝国解散!」の記事が載ったそうです。
(10)参考文献
菊池良生『神聖ローマ帝国』(講談社現代新書)
関眞興『一冊でわかるドイツ史』(河出書房新社)
森田安一『図説 宗教改革』(河出書房新社)