今回はフランツ・カフカの「判決」を解説してゆきます。
この記事はLian(リアン)の<高校生でも分かる!>シリーズの第12回目です。このシリーズでは高校生のみなさんと一緒に作品を理解してゆきます。
カフカと言えば「変身」ですね。主人公がある日、突然ムカデみたいな大きな虫になってしまうお話です。みなさんは読んだことがあるでしょうか。
カフカの他の代表作には「城」や「審判」などがあります。そして、同じくらい重要な作品に「判決」があります。カフカはこの作品を書き上げたことで、小説家としての独自性を確立したと言われています。
私は「変身」よりも先に「判決」を解説しようとしています。カフカの作品としては「変身」が圧倒的に有名であるにも関わらずです。なぜでしょうか?
その理由は、一つには「変身」の解説が難しいからです。カフカ作品は基本的に多様な解釈を許すものと言われています。それは文学作品一般に言えることでしょうが、カフカ作品は「不条理の文学」とか、「文学以後の文学」とか、なかなか謎めいた称号を与えられています。実際、カフカ作品がばっちり分かる人は少ないのかもしれません。みなさんはどう感じますか。
ばっちり分からない理由の一つは、単純に理解にかける時間が少ないからでしょう。多くの人が流れで一回読んで、それで分かればよし、分らなければ退屈だった、くらいの感想しか持ってくれないようです。でも、それはちょっと愛が少なすぎます。愛なんて読解の本質ではないと思いますか?
文学を成り立たせている重要な要素は「傷」だと思うのですが、愛のない読み方をする多くの人が、傷を傷として認められない主義を持っているものです。でも、文学を理解することは自分の傷を認めることから始まると言っても過言ではありません。傷なんて、無いなら無い方がいいに決まっているのですが、どうも、傷のない人間なんていないようです。
傷は自分の精神に深さがあることを教えてくれます。これを沈潜と言います。沈潜とは静かに自分の内部に降りていくこと。そういうことが出来るということを知ること。傷は理解されることを求めて待っている。
そのことが認められない限り、何を読んでも書いてある言葉を平面的に読むことしかできません。だから、ばっちり書いていないことは分からない。少なくとも、傷の文学に関しては。
と言って、別に偉そうなことを言うつもりはありません。カフカは誰にも難しい。
ちょっと話が戻ります。「変身」の解説は大変です。みなさんはジブリのハウルの動く城で、炎の悪魔のカルシファーが、魔女の魔法で老婆になったソフィーを見て、「こんがらがった呪いだね」と言うシーンを覚えているでしょうか。はい、こんがらがってるんです。こんがらがっている糸の一本一本に注意していたら、とても簡潔な解説はできません。
そこで、「判決」です。
というのも、私の見たところ、この作品と「変身」の背後にある心理はとても似ています。語られているものが重なっているのです。だから、「判決」を理解できれば、「変身」もずっと理解しやすくなります。
前置きが長くなりました。この記事の解説を理解する上で、カフカ作品を読んだことがあるということはマストではありません。「判決」も「変身」も読んだことがなくても、十分に理解できると思います。
それでは、解説してゆきましょう。
1. この作品のあらすじ
父親の仕事を継いだ、若い商人であるゲオルクには、ロシアのペテルブルクに友人がいました。友人はゲオルクの同郷人でしたが、逃げるようにロシアへ行ってしまったのです。しかし、友人は商売でも友好関係でも上手くいっていませんでした。反対に、ゲオルクの商売は上手くいって、それは父親以上でした。
そんな友人を気遣って、ゲオルクは友人との手紙の中で、友人を傷つけたり、嫉妬させたりしないように、当たり障りのないことばかり書いていました。ところが、ゲオルクは自分の結婚のことを、ずいぶん悩みますが、手紙に書くことにします。そのことを、ゲオルクは父親に報告します。友人に結婚の報告をするよと。
老いた父親はどういうわけか、そんな友達本当にいるのか、自分をだましているのだろうと疑います。しまいには、実は父親とその友人とは親しい仲で、友人は父親からの手紙を通して何もかも知っているのだ、と言い放ちます。友人は決してゲオルクにだまされてなどいなかったのだと。
そして、父親から息子ゲオルクへと判決が下されます。お前は子どもみたいだったが、実は悪魔みたいだったのだと。溺れて死ぬのだと。
何かに突き動かされるように、ゲオルクは飛び出して、バスなどの走る橋の欄干を飛び越えました。最後に心の中で叫んだ言葉は、自分は父と母を愛していたということでした。
ゲオルクが川に落ちても、橋の交通は止まりませんでした。
2. 一つのキーワードで理解しましょう
私がこの作品の読解の鍵として設定する言葉は「復讐」です。
この作品を理解するためのキーワードは何通りか設定することができます。嘘、罪悪感、善意と悪意、そして復讐。原因論で言えば罪悪感が本質的なのですが、作品に描かれている現象の正体は復讐です。
さて、普通に読むと、復讐の主体は父親です。息子ゲオルクに復讐しているのです。
というのも、ゲオルクの事業は父親から引き継いだものなのですが、実は父親は完全に引退していたわけではなく、むしろ、最初は事業の主体は父親で、父親に委縮しながら、ゲオルクは仕事をしていました。それが、母親が亡くなったことをきっかけとして均衡が破れ、事業の主体がゲオルクに移り、父親は陰に追いやられるようになりました。しかも、売上は父親時代を超えています。父親はそのことを恨んでいるのです。
しかし、父親が本当に恨んでいるのは、ゲオルクが父親をわきに追いやって、父親以上の成績を上げたこと自体ではなく、ゲオルクが嘘をついていることです。ここが重要なところです。というのも、作品中、ゲオルクが嘘をついていると言っているのは父親だけで、普通に読んだら、読者にはゲオルクが嘘をついているようには見えません。
嘘と言うのは、事業のことで父親に言っていないことがあるとか、ゲオルクが友人に当たり障りのないことしか手紙に書かないとか、そういうことなのですが、例えば、ゲオルクが友人に結婚の話をしようかどうか悩んでいたのも、友人への配慮からなのであって、隠そうとしたことは嘘をつくことではないでしょう。
父親に対しても、ゲオルクは一見、よくできた息子です。
「ぼくの友だちの話なんか、やめよう。友だちが千人いても、父さんには代えがたいんだから。ぼくがどう思ってるか、聞いてもらえるかな。もっと自分を大切にしてほしいんだ。」
これは、ゲオルクが父親に、友人に手紙で結婚の報告をしようとしたところ、お前にそんな友達が本当にいるのか、嘘だろうと言われ、うろたえながら言ったセリフです。ここを読んで、ゲオルクの優しい言葉を嘘だと思う人は少ないでしょう。
父親をふたたびすわらせて、リネンのパンツのうえにはいているズボンと、それから靴下をそっとぬがせた。あまり清潔ではない下着を見て、自分を責めた。父親をほったらかしにしてきたのだ。
父親はかなり老いていて、まだ介護とまではいかないが、生活にそれなりの配慮が必要であるようです。この場面では、ゲオルクは父親をほったらかしにしていたことを反省して、結婚相手と二人で父親の面倒を見ようという気持ちになっています。こういうところを見ても、ゲオルクはよくできた息子です。
でも、ゲオルクのこういう部分が実は嘘なのだということが、この作品の読解のポイントです。そして、この表面上の優しさやまともさは嘘で、これは実は父親に対するゲオルクの「復讐」なのだと、私は思っています。
さて、カフカを理解する上で、絶対に外せない彼自身の言葉があります。新潮文庫の『絶望名人 カフカの人生論』(頭木弘樹訳)から引用してみましょう。
幼い頃、ぼくは夜中に喉が渇いたと、だだをこねたことがあります。
お父さん、あなたはぼくをベッドから抱き上げ、
バルコニーに放り出し、扉を閉め、
しばらく一人っきりで、下着のまま立たせておきました。
あの後、ぼくはすっかり従順になりましたが、
心に深い傷を受けました。
(…)つまり、彼にとってぼくという子供は、
それだけの無価値なものでしかないのだ、
という想像にさいなまれたのです。
これは、カフカから父親へ宛てた手紙の中の文章です(この手紙は実際には父親の目には入らなかったようですが)。これが、カフカ文学の傷なんです。
子どもが一番傷つくのは、思いっきり怒られることではなくて、冷たくされたり、切り捨てられたりすることだと思います。カフカの父親は、この時、とても冷酷でした。冷たい動きでカフカを運び、冷たいバルコニーに置き去りにしました。それが理不尽で、理解できないものであったとカフカは言っています。
こういう冷たさは、子どもの心に罪悪感を植え付けます。そうなれば、自分が悪いかもしれない可能性を常に考えながら生きなければならなくなります。それは、心臓がでんぐり返しして、常に自分自身を監視しようとしているような、苦しいものです。
ゲオルクの前提にあるのも、このような傷です。父親に対するコンプレックスのようなものでしょうか。ゲオルクが友人を気遣って手紙の内容を当たり障りのないものにするのも、父親に対して優しい言葉をかけるのも、優しさなのですが、同時に復讐でもあるのです。
復讐とは、言い換えれば自慢です。復讐としての自慢。自慢が復讐の手段なんです。何を自慢したいのか。それは、能力のある大人であるということです。
人間の心は正直にできているようです。本当に自分が悪いことが分かっていて、それで罪悪感を感じているのであれば、人はその気持ちをきっかけに本当に優しくなれるかもしれませんが、人に植え付けられた罪悪感から生まれる優しさは、言わば「調整」なのです。俯瞰能力の結果に過ぎません。これは他人から見たら普通の優しさに見えるのですが、自分では嘘にしか思われない。ゲオルクは父親にそれを見抜かれてしまったのです。
ゲオルクの復讐は、父親の陰に隠れながら生きねばならなかったことに対する復讐です。母親が亡くなったことをきっかけに、ゲオルクは失意の父親の立場を奪い、今度は自分が上になって、父親を日陰に置くことになりました。ゲオルクは優しいです。ですが、それは調整なのです。本心は、復讐を実行してしまっている。
ゲオルクの優しさは悪意を隠すための調整なんです。本当は、父親なんて、自分の目の届かないところにいてくれたらいいんです。上手に状況をコントロールしようとしているんです。きっと、半ば無意識に。ただ、半ばは自覚的に。たまに深刻に反省してみるが、そうしてみただけ。吹いては消える印象。そんな感じ。
友人に対しても、ゲオルクは復讐を実行してしまっています。ゲオルクは別に友人に恨みがあるわけではないのですが。友人がロシアのペテルブルクで浮かばれないことに対しても、同情しているようで、実はそうではないのです。いや、善意と悪意が混在してしまっていると言うべきでしょうか。
ゲオルクは、自分が誰かの上の立場にいることに関して、計算が働いてしまうのです。それが、コンプレックスの欲求なのだから。他人よりまとも。他人より能力がある。父親よりも。これがゲオルクの全てです。友人に自分の本当の情報を与えないのも、友人を傷つけないためではなく、友人をちょうどよくコントロールするために過ぎなくなってしまいます。このまま自分の下にいてくれと。
「さ、おやじのやつ、前かがみになるぞ」とゲオルクは思った。「落っこちたら、一巻の終わりだ。」そんな言葉が頭をかすめた。
父親は前かがみになったが、落っこちなかった。期待に反してゲオルクが寄ってこなかったので、父親はからだを起こした。
これは、ベッドの上で怒っている父親が、ベッドから落っこちそうになった時のゲオルクの様子です。父親は落っこちなかったのですが、落っこちそうになっても、状況が読み取れているのに、体が動きません。俯瞰しているだけだからです。優しさという気持ちがゲオルクを自然と動かすことはないんです。
そもそも、ゲオルクが父親に、友人に結婚の報告をしようと思う、ということをわざわざ相談に行くのも、実は復讐なのです。本心では、本当はもう、あなたに決めてもらうことなんて何もないんだけど、気が向いたから教えてあげるよ、と。これはゲオルクにとって儀式なのです。見せつけなんですね。
ですが、老いて元気を失いかけていた、というよりボケはじめていたようにすら見える父親は、最後の力で、ゲオルクを撃退してしまいます。しかも、父親はそのチャンスをずっと待っていたようです。
「わかったか。おまえの知らない世間があるのだ。これまでおまえは自分のことしか知らなかった。もともとたしかに無邪気な子どもだった。だがじつはな、悪魔のような人間だったんだ。――だから、よく聞け。これから判決をくだしてやる。おぼれて死ぬのだ!」
私は閉口してしまいます。
だって、父親のするべきことって、子どもにかかっている呪いを解いてあげることなんじゃないでしょうか。どうして、ゲオルクをよく観察しているのに、とどめの一撃ばかり考えて、愛情の一つも向けてやれないのか。この男に、他にやるべきことがあるのでしょうか?
それなのに、呪いをかけてしまった自分を正当化して、もっと追い込む。自分は悪くない。お前が悪い。そういう世界感覚です。人を倒すことにためらいがない。きっと後悔もしないでしょう。
反撃されたゲオルクは、飛び出して交通の多い橋に向かいます。
「父さん、母さん、ずっと愛していたんだよ、ぼくは」
そして手を放した。
その瞬間、橋の上では、交通がとぎれることはなかった。
ゲオルクは本当に父母を愛していたのかもしれません。でも、このセリフは嘘です。これは、本当は言わなくてもいいセリフなんです。罪悪感の疼き。善意と悪意の混在。胸がチカチカするように動く。こんなセリフは、ゲオルクの胸の苦しさが外に吐き出されようとしているだけです。
愛してるなんて、言う必要はない。
なるほど、この作品は確かに「不条理文学」かもしれません。ゲオルクは嘘をついている。それは本当かもしれません。でも、救われるべきはゲオルクです。父親が、世間が、勝って終わり。勝つと決まっているのだ。そんな世界はいかにも不条理ではないでしょうか。
正しさを主張できる人間が正しいのでしょうか? 勝利にうぬぼれられる人間が強いのでしょうか? 私たちは何も言うことができない。だから、罪悪感は証明しなければなりません。
能力を。結果を。常識を。上下関係を。大人の世界を。
こんがらがった呪い――私にはその解き方がまだ分かりませんが、せめて傷を広げないこと。しなくてもいいことはしないこと。言わなくてもいいことは言わないこと。
罪悪感なんて、別にあってもなくても、どっちでもいいじゃないですか。
3. 私のコメント
毒を喰らわば皿までみたいな人生は嫌ですね。
私の人生には、静かな時間が流れていてくれれば、それでいい。
しかし、やっぱり人間は野蛮人だ。うるさい足音を立てて歩くのだ。
でなければ、生きていけませんからね。
4. 参考文献
カフカ「判決」『変身/掟の前で 他2編』(光文社古典新訳文庫)
この記事の引用は特に断りのない限り、全て上記「判決」によるものです。