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芥川龍之介「枯野抄」の解説【芭蕉の臨終に臨む弟子の心】

枯野の画像

 

今回は芥川龍之介「枯野抄」の解説です。

この作品は大正七年(1918年)に発表されています。作中では松尾芭蕉の臨終を囲む弟子達の心理が分析され語られているのですが、作品の心理描写には、芥川が、先生と慕った夏目漱石の死(大正五年)に臨んだ際の、芥川自身や他の門下の心理が反映されていると考えられます。

松尾芭蕉の弟子達が師匠の死に臨んで何を想ったかは、実際には分かりませんが、芥川はこの臨終の場面に仮託して、近代人的心理の小説化を図りました。

この点に賛否両論があったことは想像に難くありませんが、やはり、その手法が大正の読者に好まれたからこそ、この作家の地位であったのではないかと思います。

冒頭では松尾芭蕉臨終の地・大阪の、曇り空の下にある静かな昼の様子が簡単に描かれていますが、そこからすでに、この作品における芥川の描写力が遺憾なく、といっても決してうるさくなく、発揮されていると私は感じました。

しかし、近代人的な心理を過去の題材に持ち込む彼の手法の是非とは関係なしに、芭蕉の弟子達に仮託しなければならない心理を、芥川自身が抱えていたという事実には、私は何か作家の苦悩というものを思わずにはいられません。

以下では、その点も念頭に置きながら、この作品を解説していきます。

 

なお、作者の生涯についてご興味のある方は、以下の記事を併せてご覧下さい。

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1. 「枯野抄」の解説

松尾芭蕉と言えば、『奥の細道』、わび、さびなど、知らない人はいないくらい有名な俳人であると思いますが、芭蕉は元禄七年(1694年)の10月12日の午後、大阪のある屋敷の一室で、多くの弟子達に囲まれながら亡くなります。

まさにこの日の午後が、この作品に描かれているのですが、ここで語られているのは死に臨む芭蕉の心理や感慨ではなく、芭蕉の死に臨んだ、彼の弟子達の心理です。

作品に登場する主な弟子は、丈艸(じょうそう)、其角(きかく)、去来、乙州(おとくに)、正秀、支考、木節(もくせつ)、惟然坊(いぜんぼう)ですが、彼らの心理の機微は作者によって、まるで手に取ったかのように、説明されています。

芭蕉がいよいよ息を引き取るかという場面になって、弟子達は順番に羽根楊枝(筆のようなものでしょうか)に水を含ませて、芭蕉の唇を撫で湿らせます。これは末期の水と言われる臨終あるいは死後の儀式です。

ここで、始めに羽根楊枝を取る其角にせよ、それに続く去来にせよ、その心理の動揺は明確に説明されており、その機微については特別な解説を必要としないでしょう。

そのため、ここで一人一人の心理について詳細に見ていくことはしませんが、作品の全体の流れを俯瞰してみると、彼らの心理の原因とでも言えるものには共通点があり、また芥川が皮肉的に(あるいは自嘲的に)提示した心理は二つに分類することができるように思われます。

まず、前者についてですが、この末期の水の儀式を通して浮かび上がってくる、弟子達の心理の原因は、彼らが何かしらの意味で、師の臨終に対して自らはこうあらねばならない、という思いを抱いていることです。

これは、考えて見れば当然のことのようにも思われ、悲しまなければならない、悼まなければならない、感謝しなければならない、誠意を見せなければならないなど、このような「かくあるべき」を抱いて私たちが他者の臨終に臨むであろうことは容易に想像できます。

目の前の師匠の臨終に悲しみを感じるよりも、死に際の芭蕉の姿にむしろ生理的とも言える嫌悪を感じて、一瞬自責の念がよぎる其角にしろ、臨終の芭蕉に尽くすべきと考えつつ、その尽くしている自分自身に何か満足を感じてしまい、その自己矛盾に悩む去来にしろ、根本的な問題は同じであると言えます。

彼らは師の臨終に相応しい心というイメージを各々持っているのですが、いざ実際の臨終に立ち会ってみると、その通りの気持ちにばかりなってくるわけではないことに気が付かざるを得ず、そこに決まりの悪さを感じているわけです。

惟然坊に関しては、昔から死を恐れる性質があったらしく、末期の芭蕉を見て、次は自分の番かもしれぬと不安になり、ほとんどそれしか考えられないでいるようです。そのため彼に関しては「かくあるべき」どころではないのかもしれません。

では、支考についてはどうでしょうか。彼は皮肉屋な人物なので、「かくあるべき」を自ら荷おうという人物ではないかもしれません。しかし、師匠を囲む弟子達が各々の心理にこだわって、目の前の師匠に対して、直接的に悲しみの心を向けていないことに冷笑的な視線を投げかける支考にしても、理想はかくあるべき、という頭がなかったとは言えないのではないでしょうか。

ちなみに、支考がその冷笑的な視線を周囲に向けたことによって、一見臨終の悲しみの下に師匠を囲っているように見える弟子達が、実は全然違うところで格闘しているらしいことが明確に読者に示されるため、支考は少々意地悪い人物のようにも思われるかもしれませんが、話の流れとして重要な役割を担っていると私は思います。

ここで、特別に取り上げるべき人物が一人浮かび上がってきます。それは、臨終の一室の隅の方で、話の最初から慟哭の声をあげている正秀です。

この作品中の場面で泣いているのは、名前の挙がっている弟子の中だと、正秀と乙州だけです。ただ、乙州に関しては自分を抑えきれずといったところで、頭の中では、慟哭を抑えられない正秀の「意志力の欠乏」を不快に思ってもいます。

しかし、もし其角や去来らの「かくあるべき」を一つの問題とすれば、慟哭する正秀こそが一つの正解であると言えないこともないのではないでしょうか。

それは、何も泣かなければならないということではありません。正秀だって出来れば慟哭を抑えたかったでしょうが、むしろ、敢えて難しいことは考えず、自然に湧き上がる感情を抑えずにいること、それが無理のない正解なのではないでしょうか。

そもそも、死に際の師匠の姿が、あまりにやせ細っていて、見るに堪えないので嫌悪を感じてしまった其角や、臨終の師匠の世話に手腕を発揮する自分に満足を感じていることを引け目とする去来の心理は、よく考えてみると、別に何てこともない、当たり前の心理のようにも思われます。

そのような心理は抑えようと努めるのが人情なのかもしれませんが、そのような気持ちを感じてしまうこと自体は、場合によっては避けられるわけもなく、また無理に避ける必要もないのであって、自分を客観視していれば、それでいいと思います。

人の臨終に臨むということは元より簡単なことではないのであって、昔を懐かしむ優しい気持ちになることもあれば、悲しい気持ちになることもあるでしょうし、また、どのような気持ちを向けてよいか悩んでしまうこともあるでしょう。

そもそも何かの場面に、正解の気持ちを抱いて望まなければいけないというのは難しいことで、確かにその場に相応しい気持ちや振る舞いはありながらも、自分の気持ちは自分の気持ちであることに変わりはないのではないでしょうか。

そのため、其角や去来の心理を読んで、人間の心理とは、師匠の臨終にあってもこんなものかと結論することは、私は控えたいと思います。「かくあるべき」でお互いを隠し合うよりも、私はこう思った、こう思えなかったということを伝え合える関係の方がずっと素敵ではないでしょうか。

ここで、もう一つの論点、この作品で作者が皮肉的に提示した心理は二つに大別することができるという点ですが、その一つはすでに説明させて頂いた、「かくあるべき」に拘って、悲しみを向けられないということです。

悲しみを向けられないということは必ずしも非難されるべきものではないことは、すでにご説明させて頂いた通りですが、では、作中で提示されているもう一方の心理は何かと言うと、それは師匠に感じる圧迫からの解放です。

これは、当然、師匠に対しては気を使うとか、作品のことで影響を受けることは好ましいことにしても、自分のやりたいことを自由にやる際に、若干のストレスを感じさせるとか、そういったことかと思われます。

この気持ちは、他ならぬ芥川自身が経験したものです。すなわち、彼の遺稿「或阿呆の一生」の中では、彼は夏目漱石の危篤に際して、「歓びに近い苦しみ」を感じたことが告白されているのです。

この「枯野抄」という作品では、丈艸を始めとして、彼らは最後に解放感だけを感じているようでもあり、「唇頭にかすかな笑を浮かべ」る弟子の様子など、なんだか浅まし気に書かれていますが、作者自身は同時に苦しみも感じたようです。

芥川が最後の場面をこのように描いたのは、もしかすると、自身に対する最大限の嘲笑だったのかもしれません。芥川は様々な心理をその作品中で語り、そのこと自体が一種の批判性を帯びていますが、これは同時に自己批判、ないし自嘲でもあるのだと私は思っています。

そのように考えてみると、「かくあるべき」に悩まされて正解が分からなくなってしまっている弟子達の姿にせよ、師匠の死に解放を感じる彼らの姿にせよ、それは芥川自身が経験してしまったものであり、これだけの矛盾を作品中で語ることのできてしまう作者自身が、一番傷を負ってきたのだと想像できないでしょうか。

芥川の作品を読んで、一般民衆の心理の凡庸性とか、浅ましさのようなものを、作者と一体化したような気持ちで軽蔑したり、批判したりすることもできますが、そうすることは、むしろ芥川龍之介という人間を心理的に安全な世界から追放することでもあると私は考えます。

それは私個人の考えに過ぎないので置いておくとして、最後に、芭蕉の辞世の句について触れて、この解説を終わりたいと思います。以下の辞世の句は、臨終の4日前に芭蕉が弟子を読んで書きとらせたものです。

旅に病むで 夢は枯野を かけめぐる

芭蕉がこの句にどのような想いを込めたものか、現代人には一層、その全てを知ることは難しいことでしょうが、私が最初に思ったのは、なぜ「枯野」なのだろうということでした。

それは一つには、時期が冬枯れに近い10月だったからなのかもしれません。今旅をすれば枯野に行き当たるはずで、それが芭蕉にとって旅の象徴であったということです。

そして、「枯野」という言葉は、やはり、わびやさびという芸術的概念の生みの親である芭蕉によく馴染む言葉でもあると感じます。

そのため、この辞世の句が芭蕉の最後の句であることに何の疑問もないと言えばないのではありますが、ただ、この「枯野抄」の中の記述によれば、芭蕉は道ばたで最期を迎えるのではなく、こうして良い布団の上で死んでいくことは、平素より願っていたことだと言っています。

そう考えると、「枯野」によって象徴される芭蕉の旅の人生とは何だったのだろうかという疑問に私は誘い込まれます。

それは芭蕉の旅が無駄であったとか、そういったことではなくて、わび・さびという芸術的概念に昇華されていった芭蕉の旅が、わび・さびを以って全てを成すという習慣的な考え方に、収まりの悪さを感じたということでしょうか。

実際、芭蕉はなかなか温かみのある句も作っています。これは貞享2年(1685年)の作品ですが、

菜畠に 花見顔なる 雀哉(かな)

こういう句は、わび・さびとか、精神の透徹とか、そういった嗜好性からは毀れていくだろうと想像しますが、このような何でもないような句も、なかなか読者を楽しませてくれるものと思います。

私はどうも、「枯野」もいいけど、「菜畠」も思い出してくれたらいいんじゃないだろうかと感じているようなのですが、それは「枯野抄」の範囲を超えますので、ここで終わりましょう。

 

2. 参考文献

芥川龍之介「枯野抄」『戯作三昧・一塊の土』(新潮文庫)

芥川龍之介「或阿呆の一生」『河童・或阿呆の一生』(新潮文庫)

小西甚一『俳句の世界 ―発生から現代まで―』(講談社学術文庫)

中村俊定校注『芭蕉俳句集』(岩波文庫)

 

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