この記事では、芥川龍之介「袈裟と盛遠」の解説と感想を書いていきます。
この作品は1918年に『中央公論』誌上で発表されています。作者26歳の年です。
芥川の作品は「羅生門」など、『今昔物語』を題材にしたものが多いですが、この作品は『源平盛衰記』に取材しています。
原典は浄瑠璃や歌舞伎の題材にもなっているのですが、芥川の作品に盛り込まれた心理は原典と全くと言っていい程異なります。
そのため、この記事では元々のお話も併せて確認しつつ、芥川の「袈裟と盛遠」を解説していきます。最後までお付き合い頂ければ幸いです。
なお、作者の生涯についてご興味のある方は、以下の記事を併せてご覧下さい。
1. 袈裟御前と文覚(盛遠)
芥川龍之介の「袈裟と盛遠」は『源平盛衰記』第19巻に取材しています。
ここでは文覚という人物について語られるのですが、彼は元々は北面の武士を務めていた武士であり、名前は遠藤盛遠と言いました。平安末期から鎌倉前期の人物です。
袈裟御前への横恋慕の一件で出家し、文覚と名乗りました。源平合戦においても重要な役割を果たしたと言われていて、源頼朝に亡父・義朝の髑髏を見せて、打倒平氏の挙兵を促したという逸話もあります。
さて、『源平盛衰記』のお話では、渡辺の橋供養の時、盛遠は非常に美しい女に心を惹かれて、後をつけて行ったとあります。
すると、彼女は源渡(わたり)の屋敷に入って行きました。そこで、彼女が盛遠の叔母の娘である袈裟御前であることが分かりました。彼女は源渡の妻でした。
盛遠は袈裟御前のことを想って何日も過ごしますが、ある日耐えられなくなって、叔母を脅して無理やり袈裟御前に会わせてもらいます。盛遠によれば、自分は三年も前から袈裟御前を愛していたが、叔母は源渡に彼女をやった、のだそうです。
母に呼ばれ、事情を知った袈裟御前は、親の命のためなら盛遠に会うことも仕方がないと考えました。一夜明けると、彼女は暇乞いしますが、盛遠はそれを許さないばかりでなく、刀を抜き始めすらします。
そこで、袈裟御前は、自分に夫がいる限り一緒にはなれないので、自分と一緒になりたいのなら夫を殺すこと、夫は髪を洗って、髪の濡れたまま寝ているので、それを目印に殺すこと、を盛遠に伝えます。
盛遠は言われた通り、髪の濡れている方の首を一太刀で切りました。しかし、その首は源渡ではなく、袈裟御前の首でした。それで、盛遠は出家します。
この物語は、一般には、袈裟御前の貞女ぶりを伝えるものと理解されてきました。すなわち、夫(と母親)の無事のために自分の命を犠牲にした袈裟御前は、多くの人たちに賞賛され続けてきたわけです。
それが、芥川の作品では、道徳的な問題は置くとしても、非常に弱々しく、哀れな女として描かれています。この点、新潮文庫の解説によれば、発表当初から批判もあったようです。
そのため、この作品は原典を知らなくても読める作品ですが、元々のお話を知っておくことも、作品を受容する上で重要かと思われます。
2. あらすじを簡単に
この作品は短編ですが、上下に分かれており、上では盛遠の独白が、下では袈裟の独白が語られています。
①盛遠の独白
自分は今怖ろしい気持ちでいる。憎んでもいない人物を、今夜殺さなければならないからだ。
袈裟のことは彼女が渡(わたる)の妻になる以前から愛していた。ただ、その愛も童貞の性欲が理想化されたものに過ぎなかったかもしれない。
それから三年が経ち、袈裟と対面してみて、自分は袈裟が三年前のようには美しくないことを発見した。自分は「妙な征服心」に動かされて、袈裟と関係した。
自分は袈裟を蔑めば蔑むほど、彼女をますます辱めてやりたくなり、自分は袈裟の夫を殺そうと耳元で囁いた。すると、意外にも袈裟は話に乗って来た。自分は失望した。
だが、その時の袈裟の目の光を思うと、自分は約束を反故にすることができない。もし渡を殺さなければ、自分が袈裟に殺されるであろう。
だが、どうしても渡を殺さなければならない理由がそればかりかどうか、自分には分からない。
あるいは、自分がまだ袈裟を愛しているからだろうか?
②袈裟の独白
あの人は今夜来るだろうか。いや、来るに違いない。あの人は私を怖がっているから。
自分自身を頼みにできない私は惨めだ。あの人と対面した時、私はあの人の目に映る自分の醜さを知ってしまった。悔しかった。
私は寂しさの中で、あの人に身を任せてしまった。私は自分を浅ましく思った。
私は卑しめられていることに泣いたが、あの人は私の耳元で、渡を殺そうではないかと言った。その時、私は不思議と「生々した」気持ちになった。
私は約束してしまったが、その時初めて、夫のことを思い出した。同時に、私は夫の代わりに死ぬことを決めていた。
それは私が夫を愛しているためとは言わない。私は自分の罪を償いたいのだ。そればかりでなく、私はあの人の憎しみ、蔑みに復讐したいのだ。
今夜、私がたった一人愛した、その人が私を殺しにくる。燈台の光でさえ、この私には明る過ぎるようだ。
3. 芥川龍之介「袈裟と盛遠」の解説
ここでは、作品を盛遠と袈裟、それぞれの独白に分けて解説していきます。
①盛遠の独白の解説
盛遠は袈裟が渡の妻になる前から、彼女を愛していたと言っています。
しかし、直後では、その時童貞だった盛遠は、袈裟の体を求めていて、「己(おれ)の袈裟に対する愛なるものも、実はこの欲望を美しくした、感傷的な心もちに過ぎなかった」と訂正しています。
なので、盛遠は元々自分が袈裟を愛していたのかも分からない、と思っているようなのですが、これは、自嘲に傾いている盛遠の考えすぎとも言え、彼は袈裟を確かに愛していた、あるいは憧れていた、と捉えるべきでしょう。
そうすることによって、盛遠の最後の独白、「それでも猶、己はあの女を愛しているせいかも知れない」という言葉を理解することができます。
盛遠はおそらく、半ば妄想、半ば事実に基づいて、本来袈裟と結ばれるはずだったのは自分であったと考えています。
半ば妄想と言うのは、もちろん、恋愛故に相手を神聖化して、その神聖化された相手に相応しい愛と尊敬を持ち得るのは自分だけだ、という気持ちになることです。
そして、半ば事実、というのが重要で、よく読むと、盛遠は袈裟の本当の気持ちに気付いているらしいことが書かれています。袈裟の本当の気持ちというのは、実は、袈裟の方も以前から盛遠のみを愛していたらしいということです。これは、彼女の独白の最後の部分で明らかになります。
盛遠は、自分に対面する袈裟が、夫に対する愛情をわざと誇張して語るのを嘘だと思い、その嘘だと思う理由について、以下のように述べます。
それを嘘だと思った所に、己の己惚れがあると云われれば、己には元より抗弁するだけの理由はない。それにも関わらず、己はその嘘だと云う事を信じていた。今でも猶信じている。
盛遠は、何か袈裟の内に、自分に傾いてくる傾向があることを感じ取っているのだと分かります。それは、袈裟が盛遠の侮蔑に傷つき、彼に対して弱気になっていることを感じて、彼女が自分の物になり得ることを理解したということです。
この時点で、盛遠と袈裟の上下関係のようなものが定まっているのですが、盛遠はそもそも、その袈裟の弱い部分が気に入りません。
まず、対面した袈裟はもはや昔のように美しくはありません。盛遠は思わず目をそらしたくなったようです。彼女は盛遠の手の中にない内に衰えていたのです。
かつての袈裟を偶像崇拝していた反動と言えるかもしれませんが、自分の手の中にない内に衰えてしまった袈裟を、盛遠は軽蔑します。そして、そんな袈裟の内に、いくつかの嘘を発見します。
先ほどの、わざと誇張して夫への愛情を語ることもそうですし、盛遠と寝た後の「乱れた髪のかかり」、「汗ばんだ顔の化粧」など、どれも嘘くさいものでした。これは反面盛遠自身の自嘲とも言え、盛遠と袈裟の関係は、どうあっても本当に愛し合う関係にはなれないということを意味しています。
そして、袈裟が泣き、それが盛遠にはどこまでも嘘くさい自己憐憫に見えるので、盛遠は彼女をますます憎み、貶めようとします。
つまり、夫を殺そうと耳元で囁くのですが、盛遠にとっては、それが命取りになったようです。というのも、この時、袈裟が意外にも話に乗って来て、その目に宿る光を見てしまってから、これまでの上下関係が裏側で逆転してしまったからです。
盛遠は約束を反故にすれば袈裟に殺されると思っているのですが、これは盛遠が袈裟を辱めすぎ、一線を越えたことで、彼女に一瞬自分を取り戻す機会を与えてしまい、彼女が一転して内心戦いを始めたことに、盛遠も気が付いているからです。
ただ、盛遠が約束を反故にできない理由はそれだけではなく、「それでも猶、己はあの女を愛しているせいかも知れない」と彼は言っています。
結局何を言いたいのか、というくらい複雑な心理を示している盛遠ですが、彼はやはり袈裟を愛しているのでしょう。いや、正確に言えば、袈裟に向けていた神聖な憧れの気持ちを傷つけられたくないのでしょう。
その気持ちに決定的な傷を付けることができるのは、袈裟だけです。約束を守らないことで表面上の上下関係が逆転し、袈裟に復讐されることは、自分が袈裟に拒否されたことの証明になります。
ずいぶん勝手な話のようでもありますが、盛遠は盛遠で、過去の恋愛を決定的に終わらせることができないでいるようです。
盛遠は、過去の理想(袈裟と結ばれること)と現実(袈裟との関係が決して本当の愛にはならないこと)との間のずれの問題を解決することができず、肉欲と侮蔑とに任せて破滅に向かってしまったのだと言えます。
②袈裟の独白の解説
盛遠の心理が複雑で理解が難しいのに比べると、袈裟の心理は比較的読み取りやすいように思われます。
それは、おそらく、実は盛遠を以前から愛していたことを、袈裟が独白中で語っているからでしょう。
昔から私にはたった一人の男しか愛せなかった。そうしてその一人の男が、今夜私を殺しにくるのだ。
この台詞がなければ、袈裟が盛遠の目の内に自分の卑しさを発見して、弱気になっている間に体を許してしまうという展開が、今一つ呑み込めなかったでしょう。
袈裟は盛遠に軽蔑されていることを知りながらも、弱気になっているので、流されるように自分の身に起っていくことを受け入れてしまいます。
ただ、それは納得してのことではないので、袈裟は泣き伏してしまいます。
私は腹立たしさと寂しさとで、いくら泣くまいと思っても、止め度なく涙が溢れて来た。けれども、それは何も、操を破られたと云う事だけが悲しかった訳ではない。操を破られながら、その上にも卑しめられていると云う事が、何よりも私には苦しかった。
盛遠が明らかに侮蔑の意図を持って自分を汚そうとするので、それが苦しかったのだと言っています。ただ不義を冒してしまっただけではなく、相手の悪意が分かるだけ、余計に苦しかったのです。
しかし、盛遠に夫を殺さないかと言われた時、袈裟は「生々した心もち」になったと言っています。盛遠の行き過ぎに、おそらく、袈裟の方にも盛遠を軽蔑する一点の心ができたのでしょう。そこで、袈裟は自分が死ぬこと、すなわち盛遠に復讐することを決めます。
それでも、袈裟は「顔を上げて、あの人の方を眺めた時、そうしてそこに前の通り、あの人の心に映っている私の醜さを見つけた時、私は私の嬉しさが一度に消えてしまったような心もちがする」と言っているので、やはり袈裟は吹っ切れていません。
袈裟は袈裟で、ずるずると、盛遠の様子に一喜一憂しています。袈裟は独白の最初の辺りで、
成程私が私自身を頼みにするのだったら、あの人が必ず来るとは云われないだろう。が、私はあの人を頼みにしている。あの人の利己心を頼みにしている。いや、利己心が起こさせる卑しい恐怖を頼みにしている。
と言っています。袈裟は盛遠に復讐したいのですが、それにも関わらず、心の中に独立の領域を持っているとは言い難いです。盛遠に対して、とても受動的です。
一応、復讐心は持ちつつも、実は盛遠を愛していることがあるので、そのような弱気な態度を取る他ないのだと言えます。「私はあの人の憎しみに、あの人の蔑みに」、仇を取ろうとしているのではないか、と言う人物の気持ちとしては弱々しいですが、だからこそ進行していく破滅であると言えるでしょう。
4. 感想
盛遠の心理・行動に関しては、無論擁護の余地がないので、かえって何も思わなくもあるのですが、袈裟が弱気すぎる点は、やはり気になります。
原典の袈裟御前が夫や母親のために強い意志を見せたのと比べると、あまりにも弱々しく描かれています。
この「袈裟と盛遠」は内容にもなかなか迫力があり、密度も濃いのですが、袈裟があまりにも盛遠に対して受動的であり続け過ぎるという点だけ、ややリアルを失っているように思われました。
ただ、盛遠の心理はかなりよく書けていて、破綻もないと感じます。これは、作者自身が男性だからでしょうか。
ほとんど、男性による女性虐めの崩壊という筋で理解できるのですが、袈裟が煮え切らないので、若干ぼやけています。それなら、袈裟の盛遠への気持ちがもう少し書かれているといいと思います。
とはいえ、個人的には良作に含めていいと思っているので、もし未読の方がいらっしゃるのであれば、ご一読をおすすめ致します。
5. 参考文献
芥川龍之介「袈裟と盛遠」『羅生門・鼻』(新潮文庫)
中村ちよ「芥川龍之介と材源 : 『袈裟と盛遠』をめぐって」『東京女子大学紀要論集』(東京女子大学)