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批評家・小林秀雄の生涯

サムネイル画像としてガーベラの花

 

小林秀雄は日本の近代批評の確立者と言われ、文芸批評を文学の水準まで高めた批評家であると評価することができます。

小林の代表作には「無常という事」、「モオツァルト」、「ゴッホの手紙」、「本居宣長」などがありますが、思想的には、現代人と知識との間にある問題を論じつつ、人生がそのまま思想であったような人物に生涯注目し続けました。

この記事では、昭和の文壇の代表者・小林秀雄の生涯について書いていきます。生涯を振り返ることで見えてくることもあるかと思いますので、是非ご一読下さい。

 

1. 批評家・小林秀雄の生涯

①誕生・家族

小林秀雄は1902年、東京・神田で生まれました。

出生時、父豊造は現東京工業大学の助教授を務めていましたが、その後、貴金属店の加工工場長を経て独立、日本ダイヤモンド株式会社を設立し、銀座に出店しました。

豊造は日本の貴金属加工技術史上の先駆者で、ベルギーから最先端のダイヤモンド研磨技術と研磨機を持ち帰り、また国内で初めて指輪のつめ作りを可能にした他、日本初の蓄音機用ルビー針の開発などを行いました。

母精子の実家・城谷(じょうや)家は九条流の有職故実を伝える学者の家系で、精子は茶道、華道、琴などの芸事を身に着けており、仕立物、押絵など何でも出来たのだそうです。ただ、身体は丈夫ではありませんでした。

二つ歳の離れた妹・富士子は漫画家・田河水泡(本名・高見澤)と結婚して、高見澤潤子の筆名で『兄 小林秀雄との対話』などを執筆した作家でもありました。

幼い頃の小林秀雄を伝えるエピソードが二つあります。

兄と妹とは幼い頃から、身体の弱い母に頼まれて肩たたきをさせられていました。妹の方は嫌々やらされていたようですが、兄の方は真面目で、母は「兄さんのほうがずっとまじめに、一生懸命たたいてくれるよ」と言ったそうです。

また、これは小学生の時の作文ですが、「おやのおん」と題された、現存する最も古い小林秀雄の文章が残されています(小学二年時のもの)。

私のきものは、お母さんがこしらへてくださったのです。学校へくるのは、お父さんやお母さんのかげです。うちでは、私をかはいがってくださいます。このおんをわすれてはなりません。おんをかへすのには、お父さんやおかさんのいひつけを、よく、きいて(...)それでおんはかいせるのです。

後の批評家・小林秀雄を知っているからかもしれませんが、とても良く書けた文章であるように私は感じます。親への愛着がそのまま文章の線になっているような、そんな好ましさがあるのではないでしょうか。

子どもの時の文章ではありますが、小林秀雄がこの時見せている親への愛着を、彼が生涯のどこかの時点で失ったとは思えません。

随筆家・白洲正子は小林秀雄を評して、案外「素朴」な人と言っています。その意味内容な色々あると思いますが、その一つの色合いは、この作文に立ち返ることで見えてくるのではないでしょうか。

 

②父豊造の死

神田から芝に移り、白金尋常小学校に通っていた小林秀雄でしたが、どうやら、小学校は優等な成績で卒業したようです。

しかし、次に入学した東京府立第一中学校での成績は振るわず、最終学年時には欠席日数も多く、卒業時の席次は116名中75番で、真ん中より後ろでした。

一中では、小林は一期上の河上徹太郎など、生涯の友を得ているのですが、一高(第一高等学校)、東大への進学を重視する校風には反発したらしく、マンドリンやヴァイオリンの練習、校外の硬式野球クラブ、回覧雑誌の制作などに熱を入れました。

また、ここで文学熱も高まりを見せ、妹高見澤潤子によれば、小林はこの頃、ドストエフスキ―、トルストイ、ツルゲーネフなどを既に読んでいたらしく、生涯の題材であったドストエフスキーには早い時期から触れていたことが分かります。

このような事情で一中時代の成績は振るいませんでした。ただ、それだけならよかったのですが、小林は一高の受験に失敗してしまい、一年間浪人することになってしまいました。

翌年(1921年)は、小林にとって辛い一年になりました。父豊造がチフスと肺炎のため、満46歳の若さで急死してしまうからです。

それも、ちょうど入試の真っ最中のことでした。この時のことを、小林は処女作「蛸の自殺」において、以下のように振り返っています。

高等学校の入学試験を受けなければならないので、皆と別れて一人病院を出たのは、父がもう駄目だと云はれた朝だった。

総てのものが妙に白けて見える人通りもない未明の街を、「俺が帰る頃には、もう死んで居るだろう」と毛利侯爵の長いセメントの塀に沿ってポロポロ涙を落とし乍ら歩いた自分の姿が頭から消えると(...)

当時の小林が「ポロポロ涙を落とし乍ら」入試へ向かった様子が蘇ります。また、高見澤潤子によれば、小林は人気のない待合室でしばらく黙っていた後、ぽつんと「こんな悲しいことはないね」と呟いたそうです。

私は心を動かされますが、それが悲しみであるのかどうか、分かりません。心を動かされている自分を重ねれば重ねるほど、むしろ意識の奥の方にある、根本的な隔たりが私に「衣を脱げ」と微笑してくるかのような.......。

父の死の一か月後、母精子が喀血します。幸い母は持ち直したのですが、一家は母方の叔父の世話になって、しばらくの間、鎌倉で転地療養することになります。

更に、同じ年の10月、小林自身も盲腸周囲炎を患います。だけでなく、処置が遅れたために腹膜炎を併発し、一時危篤状態にまで陥ります。

大黒柱が亡くなり、経済的な問題も小林の心裏を占めるようになっていきました。心労が続いたためか、神経衰弱の症状もあり、この頃から小林は一高を休学します。

しかし、まだ心身共に万全とは言えないにせよ、小林は翌年には処女作「蛸の自殺」を発表して、作家への一歩を確かに踏み出していきました。

 

③創作発表

休学を経て復学した小林は、1922年の10月、同人雑誌『跫音(きょうおん)』に、処女作「蛸の自殺」を発表します。

前年の父の死からその後の自身の経験を振り返る、いわゆる私小説で、当時小林が私淑していた志賀直哉の影響を読み取れるだけでなく、小林はこの作品を志賀本人に送っており、賞賛の返事を受け取っています。

小林は一般に批評家として知られているため、小説のイメージはあまりないかもしれませんが、元々は小説を書くつもりで、初期の頃は小説も書いていました。

この作品中では、先ほど引用した父の死を振り返る場面や、深い悲しみに暮れる母親の様子などが書かれていますが、青年・小林が自意識の問題に苦しむ、以下のような場面が重要かと思われます。

自分と云うものが、如何にも安価で気障(きざ)に思われる厭あな気持ちを如何する事も出来なかった。―玩具箱の様に雑然とした自分の頭が、僅か一時間足らずの間に、八段返しを見る様にパタリと変わっていく有様は驚きより寧ろ一種の恐怖であった。

その後、初期の代表作「一ツの脳髄」が1924年に発表されるまでの間には、死者行方不明者合わせて10万5千人とも言われる、関東大震災がありました。

震災発生は、1923年9月1日正午頃のことでしたが、小林は友人・河上徹太郎にリュックサックを借りて、何とか船で鎌倉まで辿り着き、母親の無事を確認したようです。

震災の前後で文学界の様子にも変化が見られ、白樺派の同人『白樺』が廃刊になった一方で、川端康成や横光利一など新進作家が『文芸時代』を創刊し、後に「新感覚派」と呼ばれるに至りました。

壊滅に近い被害を受けた東京ではありましたが、その後はモダン都市・東京として急速に復興し、大衆雑誌『キング』や安価な文学全集「円本」の登場など、時代は一気に大衆消費社会に突入していきました。

また、『文芸戦線』に代表される、プロレタリア文学運動の勢いも益々盛んであったことも、当時の時勢として重要かと思われます。

このような時代的文脈の中、小林は1924年に慶應大学系の同人誌『青銅時代』の同人となります。これは、一中時代の友人・木村庄三郎や石丸重治がこの同人に加わっていた関係で、小林も参加したようです。

ここで、小林は「一ツの脳髄」、「飴」、「断片十二」を発表しますが、まもなく小林は同人を脱退します。同じ年の12月、小林は河上徹太郎や富永太郎らと共に同人誌「山繭」を創刊しました。これには、青山二郎も参加しています。

富永太郎は後に触れる通り、小林と中原中也とを繋いだ人物であり、青山二郎は骨董の目利きだったらしく、小林の後の骨董に関係する作品は、青山から学ぶ中で準備されたものと言えるかもしれません。

さて、小林の初期の代表作「一ツの脳髄」もまた、私小説です。自身の伊豆旅行での経験が元になっており、この作品でも自意識の問題が見られるのですが、その苦しみは脳髄の不快となって感じられ、作者を悩ませています。

 

④運命の出会い

小林秀雄の青年期には三人の人物との運命的な出会いがありました。詩人・アルチュール・ランボー、富永太郎、中原中也です。

富永太郎から始めていきましょう。彼は詩人であり、小林や中原は彼の詩的才能を強く感じていました。実は一中時代、富永は一期上にいたのですが、この頃両者に交友があったという確証はないようです。

小林と確実に交友があったと言えそうなのは、1923年頃のことらしく、上海への旅行を目論んだ富永は、小林を介して、河上徹太郎に格安の三等船客に乗せてもらえるよう依頼しています。河上の父は日本郵船の関係者でした。

上海旅行は実現したようですが、河上徹太郎と富永太郎とは、一中時代の同期であったにも関わらず、直接的な交友はありませんでした。小林の一中時代の同期・斎藤寅郎によれば、富永は「背丈の高い色白で端正な少年」だったようです。

富永は仙台の二高に進学したのですが、そこで8歳年上の人妻と恋愛事件を起こし、中退して帰京、1924年時点では京都にいました。

そこで、まず富永が中原中也と知り合っています。中原は山口県の出身ですが、故郷の山口中学を落第した関係で、京都の立命館中学に通っていました。

が、この年の冬、富永は喀血し、死病(結核)に冒されていることを知ります。

この富永が小林秀雄に渡したのが、ボードレールの『悪の華』の原典でした。小林はランボーに出会うまでの間、ボードレールの圧倒的な影響化にありました。小林の戦後の作品「ランボオⅢ」(1947年)によれば、以下の通りであったようです。

当時、ボオドレエルの「悪の華」が、僕の心を一杯にしていた。と言うよりも、この比類なく精巧に仕上げられた球体のなかに、蟲のように閉じ込められていた、と言った方がいい。その頃、詩を発表し始めていた富永太郎から、カルマンレヴィイ版のテキストを、貰ったのであるが、それをぼろぼろにする事が、当時の読書の一切であった。

小林はボードレールの「比類なく精巧に仕上げられた球体」のような美的世界に閉じ込められていたのですが、息苦しさも感じ始めていました。小林がランボーと出会ったのはそのような時でした。

すなわち、ランボーの出現が、『悪の華』という「球体」を壊し、小林を外の世界へ叩き出したのです。小林は「球体は砕けて散った。僕は出発することが出来た」と述懐しています。

同じく「ランボオⅢ」の冒頭では、ランボーとの出会いの記憶が以下のように述べられています。この予期せぬ出会いは1924年の春のことでした。

僕が、はじめてランボオに、出くわしたのは、二十三歳の春であった。その時、僕は、神田をぶらぶら歩いていた、と書いてもよい。向うからやって来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである。僕には、何んの準備もなかった。ある本屋の店頭で、偶然見付けたメルキュウル版の「地獄の季節」の見すぼらしい豆本に、どんなに烈しい爆薬が仕掛けられていたか、僕は夢にも考えてはいなかった。

小林秀雄にとって、ランボーという存在自体が「事件」であったらしく、一つの作品や思想はそれ自体が自分にとっては事件なのだという発見を、ランボーは小林にもたらしたようです。

後に見るように、小林は1926年頃から原稿料の出る執筆をしていますが、小林が一文学青年からの脱皮を経験する上での、ランボーの存在の大きさが想像されます。

余談ではありますが、小林は大学の卒業論文を「Arthur Rimbaud」と題して、フランス語で書いています。

さて、小林は1925年4月に東京帝国大学仏文科に入学したのですが、同じ頃、中原中也と出会っています。この時、富永と中原は京都から東京に移っていました。

どうやら、富永の紹介で、中原の方から小林を訪ねたようです。中原は京都にいた頃から話相手を求めてさ迷っていたらしく、京都では街をぶらぶらしたり、酒場に顔を出したりしていました。

小林秀雄と中原中也との関係は、やや一般の想像を超える部分があり、そのことには長谷川泰子という女性の存在がありました。すなわち、彼らの三角関係です。

長谷川は女優をやっていたらしく、関東大震災の影響で京都に移った後、中原と知り合って同棲を始めました。この時、小林よりも5歳年下の中原は17歳、長谷川は中原の3つ年上でした。

富永の後を追って上京した中原に長谷川は付いてきたのですが、小林と長谷川とはすぐに逢引きするようになりました。そのことについて、小林は「私は自分が痴情の頂点にあると思った」と言っています(大岡昇平『朝の歌』)。

それだけでなく、1925年の冬、小林は盲腸炎を再発して入院するのですが、見舞いに来た長谷川に対して小林は同棲を申し込みます。

一旦話が代わりますが、この入院中、富永が亡くなっています。小林にボードレールを教えたのは富永でしたが、小林はランボーを富永に教えました。すると、富永の「詩の衰弱と倦怠とが、ランボオの生気で染色される」のを小林は見たそうです。

結核で死期が近いことを悟った富永は、「肺患の肉体の刻々の破滅を賭け」て、人込みの中に飛び出し、詩作しました。これには、小林も同行したようですが、最期の時には小林も入院していて、顔を合わせられませんでした。

小林と長谷川の同棲はすぐに実現しました。では、当然中原はどう感じていたのかが気になるところですが、長谷川が小林との同棲を切り出したとき、中原は「フーン」としか言わなかったようです。

ただ、中原は「我が生活」という断片(1929, 30年頃)に、以下のように書き記しています。どうやら、この断片は小林も一度目を通したことがあるようです。

然るに、私は女に逃げられるや、その後一日々々と日が経てば経つ程、私はただもう口惜(くや)しくなるのだった。―このことは今になってようやく分かるのだが、そのために私は嘗ての日の自己統一の平和を失ったのであった。(...)

とにかく私は自己を失った! 而も私は自己を失ったとはその時分かってはいなかったのである! 私はただもう口惜しかった、私は「口惜しき人」であった。

そして、小林の方は「中原中也の思ひ出」(1949年)において、以下のように述懐しています。

大学時代、初めて中原と会った当時、私は何もかも予感していた様な気がしてならぬ。(...)中原と会って間もなく、私は彼の情人に惚れ、三人の協力の下に(人は憎み合う事によっても協力する)、奇怪な三角関係が出来上り、やがて彼女と私は同棲した。この忌まわしい出来事が、私と中原との間を目茶々々にした。

小林の言う「奇怪な三角関係」とは、例えば、小林と長谷川との同棲が成った後も、彼らの関係が続いて行ったことを言っています。もちろん、紆余曲折はあるのですが、小林と長谷川は中也を受け入れていたようです。

すぐ後に見るように、小林と長谷川は1928年には破局するのですが、中原はその後も長谷川に執着し、復縁は拒まれたものの、長谷川と他の男との間に出来た子どもを気に掛ける程、彼女は離れがたい存在であったようです。

中原自身も後に遠縁の女性と結婚し、子どもが二人生まれていますが、長男の文也を失ったショックで精神にも失調を来たし、結核性脳膜炎により、1937年に満30歳の若さで亡くなります。

なお、中原は亡くなる前に、『在りし日の歌』を小林に託していたようです。

憎しみと絶縁という自然に想像される過程を経なかった三者ですが、では同棲を果たした小林が果たして幸せであったかと言うと、そうではありませんでした。

というのも、長谷川が重度の潔癖症とヒステリーの症状を見せたからです。その原因などは分かりようがありませんが、高見澤潤子によれば、小林は彼女への手紙で以下のように書いたそうです。

あの女には心情というものが欠除しているのだ、全然欠除しているのだ、これは仲々わかる事ではない、俺だってこの秘密を掴むまでづい分かかったのだ。

僕は殆んど人間には考えられない虐待を受けた(...)

例えば電車の中で一言言った言葉を後になって僕に思い出さす、僕が思い出せない、と往来で僕の横っ面をピシャリとはる(...)

これに続けて、高見澤潤子は「兄さんは常に誠実だったよ、幾万回とない愚劣な質問に一つ一つ答えていた、幾万回とない奇妙な行動(と言っても解るまいが、障子を二度しめろとか返事を百度しろとか、手拭を十八度洗い直せとかいう奴だ)をちゃんとやってきた」と言っています。

また、小林は非常な忍耐をして、ヒステリーの長谷川を放り出すことなく数年間同棲を続けたのですが、ある時、突如として何か悟ったらしいことを、白洲正子が小林本人から聞いたそうです(白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』)。

ある晩、彼女は荒れに荒れて、一睡もしなかった。小林さんはそばにつきっきりで面倒をみていたが、夜が明けたので外へ出た。その頃小林さんの母上は畑で野菜を作っており、キャベツが朝露をあびて、きらきら光っているのを眺めているうちに、「もうこれでいい。するだけのことは全部した。思い残すことはない」とはっきり自覚したそうである。

小林と長谷川との同棲生活は、1928年に東大仏文科を卒業するまで続きます。

しかし、この年の5月に「出て行け」と言われて出て行ったまま、小林は二度と長谷川の元には戻りませんでした。

出て行った小林は関西へ向かい、妹以外には居場所を伏せたまま、翌年の春まで東京には戻りませんでした。なお、この時期の大阪で、戦後の代表作「モオツァルト」中の有名な、頭の中にシンフォニーが鳴るという体験をしたものと考えられています。

在学中の小林は長谷川との同棲生活でも非常な苦労をしていますが、母と妹の生活のこともあって、金銭面でも努力を強いられました。

ただ、先に触れた通り、この時期に既に原稿料の出る仕事を始めていて、この仕事を通して、後の批評家・小林秀雄の原型が形作られていきました。

この時期に発表した作品は決して少なくないのですが、1926年には『文芸春秋』に「佐藤春夫のヂレンマ」と「性格の軌跡」を、『仏蘭西文学研究』に「ランボオⅠ」を発表したりなどしています。

翌年には、ボードレール『エドガー・ポー』の翻訳を日向新しき村出版部より出版している他、『文芸春秋』に無署名で「アルチュル・ランボオ伝」を連載、「芥川龍之介の美神と宿命」や「女とポンキン」といった作品も、この年発表しています。

長谷川と別れた年にも翻訳や無署名での連載を持っており、小林はこの時期の経験で執筆の腕を上げ、事実上ほとんどプロの作家として生活していたのですが、翌年、ついに小林は文壇へ堂々登場するに至ります。

 

⑤文壇へ

1929年の春に帰京した小林は、母と妹夫婦と共に住み始め、代表作の一つである「様々なる意匠」を書きました。これが、実質上の文壇デビュー作品になりました。

この作品は、雑誌『改造』の懸賞批評に応募したものですが、小林はてっきり自分が一席だと思っていたものの、実際は二席でした。

ただ、これを機に文芸春秋社から文芸時評の執筆を依頼され、「アシルと亀の子」などの作品を一年間連載することになりました。

文壇デビュー作の「様々なる意匠」では、文学作品や作者における、自然主義とか新感覚派などの立場は「意匠」に過ぎず、文学を言葉による表現という本質的なところから捉え直す必要性を説きました。

また、批評家にとって批評とは、「自覚すること」だと言っています。すなわち、批評とは自己を自覚し、対象を通して自己を語ることだという意味ですが、これは生涯を通しての、批評家としての自己認識であったと言えます。

この年の冬からランボーの『地獄の季節』を翻訳して連載し、多くの若い読者の反響を呼んだ他、文学ないし批評の原理論とも言える「様々なる意匠」に対して、個別の作家論と言える「志賀直哉」を、12月に発表しています。

この作品で、小林は志賀直哉を「抽象を許さない作家」と評し、「思索する事は行為する事で、行為する事は思索する事」だという「実行家の魂」を、志賀の内に見出しましたようです。

これは私なりの説明ですが、志賀直哉という人物やその作品は、既存の知識に頼った分析や理論からではなく、それをそのまま受け取ることが<味わう>ということで、<理解>することでもあるという意味だと思います。

このような、<理解>とは分析や理論のことではなく、そもそも「理解」という言葉を使用する必要性すらないとも言えるような、そういった作品への向き合い方は、この先の作品でも繰り返し説かれています。

少し飛びますが、1931年に小林はある恋愛を経験したようです。相手は京橋のバーの女性で、坂本睦子と言いました。小林がムウちゃんと呼んだ坂本は、坂口安吾などの文士にも愛された女性でした。

小林は坂本に結婚を申し込んで失敗、その後、1934年(32歳)に小林は森喜代美と結婚しますが、その後もある時期までは、坂本が好きであったようです。ただ、幸い、これを諦める機会があったと言います。

その間の1932年から、小林は明治大学の文芸科で講師をすることになり、1938年には教授となっています。小林は、1936年から「日本文化史研究」を講じるなど、1946年の辞任まで教鞭を取りました。

講師就任の同年、小林はこれも代表作の一つ、「Xへの手紙」を発表しました。文壇デビュー後も「おふえりや遺文」などの小説を発表していましたが、「Xへの手紙」が実質上、最後の小説作品となりました。

ただ明瞭なものは自分の苦痛だけだ。この俺よりも長生きしたげな苦痛によって痺れる精神だけだ。痺れた頭はただものを眺める事しか出来なくなる。俺は茫然として眼の前を様々な形が通り過ぎるのを眺める(...)

この一種の告白文学では、恋愛という事件を経て、説明を失った世界に困惑する語り手の動揺が綴られており、その背後には、長谷川や坂本との恋愛の経験があると考えることができます。

さて、小林は1933年から、生涯重要な題材であり続けたドストエフスキーを論じ始めるのですが、これは早くも、小林の思想を深めたという点で、彼の批評人生にとって一つの転機となったようにも思われます。

まず発表されたのは「『永遠の良人』」ですが、これは翌年の「文学界の混乱」、年末の「『未成年』の独創性について」に続きます。最後のものにおいて、小林は以下のように言っています。

「言葉に現れるものよりも内部に残っている方がずっと多い」―ドストエフスキイはこの事実を、片時も忘れなかった作家である。

小林は上記のような感覚を、ドストエフスキーに取り組むことによって確かめていきたかったのだと思われます。また、ともすれば抽象的なものに留まりがちな思想と人間の実生活との問題を、ドストエフスキーに見出したのでした。

同じ1934年中には他の重要な二作品を発表、あるいは連載を開始しています。その一つが「『罪と罰』についてⅠ』であり、小林は主人公のラスコーリニコフを追い、彼の孤独を中心に論じました。

もう一方が「『白痴』についてⅠ」です。こちらでは、同じく主人公・ムイシュキンの孤独に触れて論じています。

先ほどの『罪と罰』の方では、小林は「ラスコオリニコフは生活上の失敗から孤独に逃げたのでもなければ、ある生活上の確信から孤独を得たのでもない。彼と現実との間には殆ど生れ乍ら」の孤独があったと言っています。

続けて、小林は『白痴』の方では以下のように述べています。

彼は孤独への強烈な要求を感ずるというが、事実既に充分に孤独である。(...)彼には自分の孤独と路傍の石くれとを弁別する力さえ無くなっている。

ここで、「自分の孤独」とは(私の解釈ですが)、辛いとか悲しいとか不合理だとかいった人間的な感情と結びついた、いわゆる「孤独」であり、一方で、本当の孤独とは路傍の石くれのような、存在そのものがただ表している孤独だ、ということです。

すると、『罪と罰』のラスコーリニコフの「殆ど生れ乍ら」の孤独とは、あれこれと理由をつけて「孤独」と共感・認識する類のものではなく、路傍の石くれのような孤独を意味しているのだと読むこともできます。

辛いとか悲しいとか不合理だということも人間の感情であり、詩になるものと私は思いますが、小林は更に純化された孤独という詩を、ラスコーリニコフやムイシュキンの内に発見したのかもしれません。

この辺りの受け取り方は難しいですが、少なくとも、物事の深部もまた深部まで潜り込んで、その地平で何かを掴み取るという、小林の批評家としての徹底性が、この時期の執筆で更に方向性を得たものと言えると思います。

その後、小林は1935年には「私小説論」を発表し、文学における「伝統」の重要性などを説き、日本の従来の自然主義小説(私小説)を批判しました。

その少し前より、小林は『ドストエフスキイの生活』の連載を開始し、約2年間書き続けました。この作品では、ドストエフスキ―の作品自体ではなく、作者の生涯を小林は語っています。

この後も、戦後のゴッホや本居宣長などへの取り組みを通して、小林の思想はどんどん深みを増していくのですが、重要な原型はこの辺りの時期で既に、ある程度以上の形を得たものと言っていいのではないでしょうか。

 

⑥戦争

1937年の7月に盧溝橋事件が起こり、日中間で戦争が始まりました。当時の言葉では支那事変、いわゆる日中戦争です。

この戦争を境に、雑誌社などから文士が従軍記者として派遣されたり、あるいは内閣の情報局の指導の下、陸軍班や海軍班などに分かれて、文士が「ペン部隊」として戦地に赴いたりしました。

以上のように従軍記者として戦地に赴くことに加え、自発的か依頼されてかの違いはあるにせよ、多くの人物が「文芸銃後運動」に関わらざるを得ない時勢でした。小林も従軍こそしなかったものの、その例には漏れませんでした。

戦時中、小林は何度か大陸へ赴いている他、各地で講演などをしていますが、「文学と自分」と題された講演において、小林は以下のように述べています。

戦が始まった以上、何時銃を取らねばならぬかわからぬ、その時が来たら自分は喜んで祖国の為に銃を取るだろう、而も、文学は飽く迄も平和の仕事ならば、文学者として銃と取るとは無意味な事である、戦うのは兵隊の身分として戦うのだ。

これは、戦時下における文学ないし文学者の在り方について述べたものですが、小林はそもそも、戦時下の文学というものを認めません。文学とはいつも人間の生命と生活から生じる平和な営みのことだからです。

もちろん、戦時下に生まれた戦争文学というものはあるので、小林が否定したのはそういったものではなく、文学を政治的スローガンのように、国民を戦争に動員するための政治的力のように考えることを否定した、というべきでしょう。

国民を動員する政治力の極点では、人間を一人の人間と認識するのでなく、一個の力として技術的に扱わなければならず、これは確かに文学とは言えません。人間を消却せねば成り立たぬ文学など、確かに存在し得ないと言いたくなります。

だからと言って、小林は平和な営みである文学に携わるものとして、戦争を批判するという立場には立っていないように思われます。そのことは、あまり分かり易いことではないのですが、例えば、以下のような強い言葉があります。

戦争が始まっている現在、自分の掛替えのない命が既に自分のものではなくなっている事に気が付く筈だ。日本の国に生を享けている限り、戦争が始った以上、自分で自分の生死を自由に取扱う事は出来ない、たとえ人類の名に於いても。

これは、日中戦争開戦後に発表された「戦争について」(1937年)で小林が語っている言葉です。

この言葉を、もし、私たち読者が小林に言われた通りに受け入れなければならないものと考えるのであれば、当然何か胸の圧迫を感じざるを得ません。

しかし、問題はこれが小林自身の人生観であり歴史観であり、誰かに言われて言い出したようなものではないということです。小林は、自分自身がどう戦争に向き合うか考える中でそう言ったのであって、それ以上の意味はないとも言えます。

もちろん、小林のやっていることは文章を発表するということで、少なからず、書いている言葉通りの影響を読者に与えてしまうのは間違いないのですが、小林の批評活動は自己納得のためのもの、と考えるべき時も多いと思います。

さて、上記文章の中で、特に重要な部分は「たとえ人類の名に於いても」という部分なのではないかと考えます。

この言葉の意味は、難しく考えようとすれば出来るにせよ、根本のところでは、単なる観念論に過ぎないような平和思想を蝶々する人物らへの嫌悪ということだと私は思っています。

それを超えて、小林が<人類的正義>というものを考えていたかどうかはちょっと分かりません。しかし、小林はそういった理念的光の指す方向へ歩いて行く、という思想家ではなかったように感じます。

だからと言って、小林が反平和主義者であったという結論は、人間の歩みの方向性に単純な二極のみを見る、安易な図式主義と思いますが、そもそも、小林が戦争体験を通して何を見たいと願ったかということを、付記しなければなりません。

気を取り直す方法は一つしかない。日頃何かと言えば人類の運命を予言したがる悪い癖を止めて、現在の自分の一人の生命に関して反省してみる事だ。

小林は考えるということを、どこまでも「自分の一人の生命」から始めたいと感じていたのであって、分かることは分かるし、分からないことは分からないから語らないという平凡だが難しい態度を取り続けたのだと言えます。

ただ、歴史的文脈が照らす明らかな理念的光がそこに差していたとして、それを一切頼りにすることなく、自分の持っている一本の蝋燭のみを頼りにして生きることが、そのまま学ぶべき態度であるのかどうかは分かりません。

とはいえ、そもそも、「明らかな理念的光」などは後世だからこそ感じるに過ぎないものなのかもしれません。しかし、人間は時に強い光に心の視力を失うこともあるという事実を捉えて、小林はまとめて「観念論」として切り捨て過ぎていると、(後世の一つの視点として)私は思います。

少し、話が複雑化して来てしまいましたが、小林秀雄という人物は、複雑なように見えて案外単純であることを示す文章があります。「三つの放送」と題するもので、以下の文章は、対米開戦の、宣戦の詔勅を聞いての感慨を述べたものです。

何時にない清々しい気持で上京、(...)僕等は皆頭を垂れ、直立していた、目頭は熱し、心は静かであった。畏多い事ながら、僕は拝聴していて、比類のない美しさを感じた。やはり僕等には、日本国民であるという自信が一番大きく強いのだ。

何だか拍子抜けするような文章で、どう捉えるべきか悩みます。他の部分では、開戦を告げる大本営発表に接して、日米間の交渉がどういう経過を辿ったものか国民には不明瞭であったことを振り返って、以下の如く続けます。

よく解らぬのが当たり前なら、いっそさっぱりして、よく解っているめいめいの仕事に専念していれば、よいわけなのだが、(...)あれやこれやと曖昧模糊とした空想で頭を一杯にしている。(...)それが『戦闘状態に入れり』のたった一言で、雲散霧消したのである。それみた事か、とわれとわが心に言いきかす様な想いであった。

もちろん、批評家・小林秀雄の言葉として、先ほどから言っている「観念論」に対する生活上の実感の吐露という形で理解し、意義を見出すことはできるでしょう

ただ、ここでは、「それみた事か」が全てであるように思われます。単純に、小林も小林で、国際情勢や日本の趨勢に関して、確かな見透しの得られないことから来る負荷を感じて生きていたのだな、と私はそれだけ思います。

ここまでの説明で、私はどちらかと言うと、戦中の小林秀雄に対して懐疑的に語ってきたと思われるかもしれませんが、私は何も、小林秀雄を批判しようと努めているわけではありません。

そうではなく、小林が小林の考えを持っていたように、私には私の考えがあって、この辺りの小林の文章は、他の時期のものや話題に比べて、そのままなぞっていく形での説明が私には難しいというだけのことです。

とはいえ、小林はやはり小林だな、という意味で興味深いお話もあるので、少し方向性を変えてみたいと思います。これは、戦中を通して、記者として従軍したわけでも、出征したわけでもない小林の自己認識と言えるでしょうか。

小林は、「一番戦争の何たるかを知っている戦場にいる人々は、又一番平和の何たるかも痛感している筈だ」と言っています。

先に見た通り、小林は文学を平和の営みと考え、戦争は戦争だから、自分は戦うなら兵士として戦うと言っているのですが、小林は一応、常に「平和の営み」の側にいられたものと言えるかもしれません。

ただ、戦争を通して、一番平和というものを痛感しているのは、戦場にいて、「一番戦争の何たるかを知っている」人たちであろうと小林は感じていたようです。

そういう事情もあって、小林は戦争を実際に体験した大岡昇平の『俘虜記』や、戦艦大和に乗船した吉田満の『戦艦大和ノ最期』の刊行に尽力するなど、具体的な行動を見せています。

大岡の『俘虜記』に関して、小林は「この作品(敢えて作品と呼ぶ)の魅力は、立場だとか思想だとかに一切頼らず、掛け代えのない自分の生命だけで、事変と対決している者の驚くほど素朴な強靭な、そして僕に言わせれば謙遜な心持ちからやって来る」と評価しています。

小林はここでも、「立場だとか思想だとかに一切頼らず」などと言っていて、もう煩いと感じるかもしれませんが、この文章で注目すべき部分は、『俘虜記』の魅力が「謙遜な心持ち」に由来しているという指摘です。

つまり、戦争と向き合うにあたって、「自分の一人の生命に関して反省」する必要性を説いた小林ですが、その一つの意味合いは、そうすることで、自分の生命を本当に大切だとも思い、平和が大切にも感じられてくるような、一種敬虔な感じを掴むべきだということなのです。

小林は戦争は戦争だから出兵となれば戦う、と言っているので、なかなか分かり易くはないのですが、小林は根本的には、文学を平和な営みと断言しているように、常に平和に繋がる生活思想を求めていたとも言えます。

社会的には理念的平和主義の光が一方にあるにせよ、小林は人間の内部生命の内で湧き上がる泡のような光に注目し、むしろそれが平和に対する、個々の人間の出発点なのであると感じていた、私はそう捉えます。

 

⑦戦後

一般に、小林秀雄には一種の沈黙期があったと言われており、日米開戦後から、あるいは『無常という事』の連作の発表後から、戦後の「モオツァルト」(1946年12月)発表までの期間が、それに当たります。

これは戦中のことですが、小林は『無常という事』の連作、すなわち「当麻」、「無常という事」、「平家物語」、「徒然草」、「西行」、「実朝」を1942年から翌年にかけて発表しています。

正確に言えば、その後、1943年10月に「文学者の提携について」という講演を文章にして発表してから、小林の作品発表は途絶えることになります。

ただ、それから1946年12月の「モオツァルト」まで全く作品を発表していなかったわけではありません。というのも、1945年1月には「梅原龍三郎」を発表していますし、翌年には「感想―ドストエフスキイのこと」を書いているからです。

とはいえ、小林がこの期間ほぼ作品を発表せずにいたことは確かでしょう。なお、戦後最初の小林の活動は作品の発表ではなく、『近代文学』という雑誌の座談会に出席したことでした。

これは、「コメディ・リテレールー小林秀雄を囲んで」と題されたものですが、以下の文章はよく引用され、有名になっているかと思われます。

僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない。(...)僕は無智だから反省なぞしない、利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか。

これは、何とも、小林秀雄だからこそ許される発言であるな、と私は思います。それはともかくとして、小林が戦中を振り返り、また戦後の民主主義・平和主義への転換に対してどのような態度を持っていたかが分かります。

小林の代表作の中で、最も有名と言えるだろう作品が「モオツァルト」です。小林は常に批評も文学であるという信念を持って文章を書いてきましたが、この作品は「批評という文学」の一つの形であると言えると思います。

もう二十年も昔の事を、どういう風に思い出したらよいかわからないのであるが、僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調のシンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。(...)街の雑沓の中を歩く、静まり返った僕の頭の中で、誰かがはっきりと演奏した様に鳴った。僕は、脳味噌に手術を受けた様に驚き、感動で慄えた。

ここで、「ト短調のシンフォニイの有名なテエマ」とは、モーツァルトの交響曲第40番第4楽章の冒頭部分のことです。また、「乱脈な放浪時代」とは、大学を卒業し、長谷川泰子と別れて、妹以外には居場所を告げず関西にいた、1928年5月から翌年春のことと考えられています。

頭の中に音楽が流れるという経験は誰にでもあるかと思いますが、小林は「静まり返った」頭の中に「誰かがはっきりと演奏した様に」音楽が鳴ったと言っており、研ぎ澄まされた精神状態での、一種特異な体験であったのではないかと、私は思います。

続いて、1948年から52年にかけて発表されたのが『ゴッホの手紙』です。

小林はある日、上野の展覧会でゴッホの「烏(からす)のいる麦畑」を見たらしいのですが、衝撃を受けて何とその場にしゃがみ込んでしまったそうです。そこで、小林はゴッホが弟テオに宛てて書いた書簡を読み込み、この作品を書いたのです。

小林はゴッホの内に、「生活や思想に於ける無前提性、無態度の態度」を発見し、「不徹底な理想も主義も、曖昧な意見も趣味も、この大経験家は殺し切っていた」のだと論じています。すなわち、小林はゴッホに「無私」の態度を見たのです。

同じ頃、小林はドストエフスキ―についても書いています。既に、先ほど紹介した座談会「コメディ・リテレール」でも、ドストエフスキーについて書くことへの意欲を語っていたのですが、1948年に「『罪と罰』についてⅡ」を発表します。

その後、1952年から翌年にかけて「『白痴』についてⅡ」も発表され、この作品は前編が執筆されただけで未完となりましたが、小林のドストエフスキー論はこの作品を一応最後のものと考えることができます。

その「『白痴』についてⅡ」連載中、1952年12月から、小林は友人の今日出海とヨーロッパ旅行に行っていますが、その後、1954年から4年間かけて発表されたのが『近代絵画』でした。

更に、1958年から63年にかけて発表されたのが「感想」であり、これは小林のベルグソン論として有名な作品です。ただ、最初からベルグソンについて書こうと思っていたわけではなく、書いている内に、話題がベルグソンに及んだのだそうです。

少し話が戻りますが、小林の母は1946年5月に亡くなっています。母の死は小林にとって大きな出来事であったらしく、そのことが「感想」で述べられています。

終戦の翌々念、母が死んだ。母の死は、非常に私の心にこたえた。それに比べると、戦争という大事件は言わば、私の肉体を右往左往させただけで、私の精神を少しも動かさなかった様に思う。

この作品も未完で終わっています。なお、ほぼ同じ時期(1959年から64年)に、『考えるヒント』の連載も進んでいます。

小林は『考えるヒント』において、江戸時代の学者らを題材とした文章を書いているのですが、その後、1965年から77年にかけて、大作『本居宣長』を完成させます。終戦時には43歳であった小林も、65年時点で63歳を迎えています。

小林にとって本居宣長は「自分の身丈に、しっくりあった思想」を語った思想家であったようです。小林は「小人」として生きる「充実した自己感」を宣長に見出し、「学問とは物知りに至る道ではない、己を知る道である」という態度を発見しました。

1981年から83年にかけて書かれたのが「正宗白鳥の作について」ですが、これが小林の最後の作品となりました。この作品の連載中、1983年3月、小林は腎不全に伴う尿毒症および呼吸循環障害のため亡くなりました。

小林は「正宗白鳥の作について」において、正宗白鳥の文章の原動力は「疑いと否定の力で生きている『批評家魂』」にあるのだと指摘しました。小林は正宗白鳥を自分が思う天才の中の一人として挙げていますが、正宗白鳥は小林にとって、理想的とも言える生活態度を持っていた作家であったのだと言えます。

 

2. 参考文献

若松英輔『小林秀雄 美しい花』(文芸春秋)

細谷博『日本の作家100人 人と文学 小林秀雄』(勉誠出版)

高見沢潤子『兄 小林秀雄との対話 人生について』(講談社文芸文庫)

小林秀雄『新訂 小林秀雄全集 第二巻 ランボオ・Xへの手紙』(新潮社)