今回は、芥川龍之介「或日の大石内蔵之助」の解説と感想です。
なお、作者の生涯についてご興味のある方は、以下の記事を併せてご覧下さい。
1. 解説&感想(「或日の大石内蔵之助」)
この作品は江戸元禄期の赤穂(あこう)事件を題材としたものです。あるいは、忠臣蔵として一般に知られている仇討ち事件です。
1701年、吉良上野介に侮辱された赤穂藩主・浅野内匠頭(たくみのかみ)が、江戸城内で吉良を切りつけました。浅野内匠頭はその日の内に切腹させられます。
これを恨みに思った47人の赤穂浪士は、大石内蔵之助(くらのすけ)を中心として、翌12月15日に江戸の吉良邸を襲撃、吉良の首を取りました。
彼らは浅野内匠頭の眠る泉岳寺へ吉良の首を持ち帰りますが、捕まり、江戸の細川邸で預かりの身分となります。
更に翌年の2月に切腹処分になるので、この作品は吉良邸討ち入りから切腹までの期間について語ったもののようです。
この作品では、仇討ち後の大石内蔵之助の満足感の変異が追われています。
作中の春の場面より遡れば、大石内蔵之助は討ち入り後、泉岳寺で「あらたのし思ひははるる身はすつる、うきよの月にかかる雲なし」と詠んでいます。
ここで、「思ひははるる身はすつる」と詠んでいることから、仇討ちの成功によって身が軽くなったことが、また「うきよの月にかかる雲なし」の結びには、これ以上思い残すことはないという晴れ晴れとした気持ちが読み取れます。
大石内蔵之助は、どちらかといえば落ち着いた性格の人物と言えそうですが、「うきよの月にかかる雲なし」の部分からは、手放しの満足感と言ってもよいようなものが感じられます。
実際、作中の春の場面では、その日は暖かかったらしく、吉田忠左衛門が「手前も二度と、春に逢おうなどとは、夢にも存じませんでした」と言うのに対して、大石内蔵之助は「我々は、よくよく運のよいものと見えますな」などと応えています。
そのため、この時まで、大石内蔵之助の心の内には、その満足感に疑問を感じさせるようなものは何もなかったと言えると思うのですが、思わぬ理由で、大石内蔵之助の心裏には陰が差すようになります。
それは、細川邸の別の間で早水藤左衛門が聞いてきた、近頃の江戸の流行の話で、どうやら江戸では、彼ら赤穂浪士たちを真似た、仇討ち染みたことが流行っているらしいのでした。
その話によると、風呂屋で米屋の亭主と紺屋(染物屋)の職人とが喧嘩になり、その場では紺屋が米屋を桶で殴って終わったらしいのですが、米屋の丁稚がそれを遺憾に思って復讐し、鉤を肩に打ち込んでやったそうなのです。
米屋の丁稚は「主人の讐(かたき)、思い知れ」などと口にしたらしく、江戸の町民にまで仇討ちの精神が流行していたことを考えると、赤穂浪士らの影響力の強さが思い知らされます。
この話は、吉田忠左衛門や早水藤左衛門にとっては単なる笑い話か、あるいは、多少は快い話であったようなのですが、どうやら、大石内蔵之助の満足感には、「かすかながら妙な曇りを落とさせ」る作用を果たしたようです。
すなわち、「彼の心からは、今までの春の温もりが、幾分か滅却したような」心持ちがしたらしいのですが、それが如何なる理由によるものか、中々難しい問題です。素直に快く思っていたってよさそうなものとも思われます。
すぐ後の説明では、「これは恐らく、彼の満足が、暗々の裡に論理と背馳して、彼の行為とその結果のすべてとを肯定する程、虫の好い性質を帯びていたからであろう」と説明されています。
芥川らしい、少々意地悪な心理説明のように思われますが、つまり、論理的には何か好ましくない部分がありながら、それを無視して、今までは手放しの満足を感じていたことに気が付かされたということでしょう。
おそらく、これまでは赤穂浪士らの仲間内で、仇討ちの達成感を共有していただけだったところに、江戸の町民らや、後の場面での堀内伝右衛門からの賞賛を受けて、冷静な大石内蔵之助は客観的な視点を取り戻したのだと思います。
では、実際、大石内蔵之助や赤穂浪士らの行為の中に、何か非難されるべきところがあったのでしょうか。それは、多少大石内蔵之助の潔癖によるのですが、彼ならば、ないことはないと思ったことでしょう。
大石内蔵之助が話の都合で軽く持ち出した、47人の義士に含まれなかった、他の赤穂浪士らの裏切りがその一つです。細川邸に集まっている数名の義士は、彼らを散々に悪罵しています。
とはいえ、面白いことに、大石内蔵之助自身は、彼らの裏切りもよくあることくらいにしか思っていないらしく、悪罵されるべきとまでは感じていません。これが、他の義士らと、大石内蔵之助が考えを異にするところです。
むしろ、大石内蔵之助が何かやましさを感じているとすれば、それは、藩主の切腹から吉良邸への討ち入りを決行するまでの、自分自身の行動に関してであっただろうと思われます。
これも有名な話で、大石内蔵之助は間者を欺くために、わざと放埓な生活を京都で送りました。遊郭に通い、「里げしき」という唄まで作り、浮橋という遊女の下へ多く通ったことから「浮さま」というあだ名すら付きました。
間者を欺くためのこの偽装を、堀内伝右衛門や小野寺十内に誉めそやされると、大石内蔵之助ははっきりと不快を感じました。
大石内蔵之助の放埓な生活に関して、芥川は「如何に彼は、その生活の中に、復讐の挙を全然忘却した駘蕩たる瞬間を、味わったことであろう」と、再び多少意地悪な説明を施しています。
しかし、注目すべきはその後の部分で、芥川は続けて「彼は己を欺いて、この事実を否定するには、余りに正直な人間であった」と言っています。
更に、「勿論この事実が不道徳なものだなどと云う事も、人間性に明な彼にとって、夢想さえ出来ない所である」と付け足しています。
なるほど、大石内蔵之助は「人間性に明な」人物なのであって、色々な人間の心理を受け入れてもいるので、自分の放埓な生活が偽装としてばかりでなく、本心から慰めを感じていたものだったとしても、それを不道徳とは思わないのです。
この、ある種均整の取れた寛容の性質は、先ほどの、他の赤穂浪士らの裏切りをさほどまで軽蔑しない態度にも繋がっています。
しかし、世間というものはしばしば中庸を失い、過剰を称えがちなものです。江戸で仇討ちの流行が流行っているのも、その事実を裏付けていると言えます。
芥川の引用によれば、大石内蔵之助は自作の「里げしき」の中で、「さすが涙のばらばら袖に、こぼれて袖に、露のよすがのうきつとめ」と唄っています。
この「うきつとめ」とは、遊女を思っての言葉かもしれませんし、間者の目を欺きながらも、血気盛んな仲間の浪士らをまとめなければいけない、自分自身の立場を思っての言葉かもしれません。
何にしろ、この唄を見る限り、大石内蔵之助は放埓の偽装を、単なる偽装としてだけ遂行していたとは、ちょっと思えません。もっと深い心を、京都ないし遊郭での生活に向けていたように思われます。
赤穂浪士は藩主の死から仇討ちに至るまで、約2年もの間、潜伏の歳月を過ごすことになりました。
その歳月で、大石内蔵之助はおそらく、今までにないほど様々なものを見聞きしてきたのでしょう。その歳月を「忠義」という賞賛の一言のみで片づけるには、あまりにも内容豊かであったのです。
細川邸の古庭の梅を見て、「冴返る心の底へしみ透って来る寂しさ」を感じている大石内蔵之助にとって、仇討ちの心を分けたものは、仲間の赤穂浪士ばかりではなかったに違いありません。
ありありと浮かぶ京の遊郭、すなわち、長蝋燭の光、伽羅(きゃら)の油の匂、加賀節の三味線......。
これらもまた、大石内蔵之助の心に生きる情景なのであって、世間の手放しの賞賛の中にあって、彼に寸分の孤独を感じさせる、彼だけの記憶なのです。
2. 参考図書
芥川龍之介「戯作三昧・一塊の土」(新潮文庫)