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【読書感想】林望&茂木健一郎『教養脳を磨く!』(NTT出版)

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1. 読書感想(『教養脳を磨く!』)

〇対談

今回、私の読んだ『教養脳を磨く!』は、林望(はやしのぞむ)氏と、茂木健一郎氏との対談が元になっています。

初版の年(2009年)を基準とすると、林氏は60歳、茂木氏は47歳で、対談では茂木氏の方が聞き役となって、林氏のお話を引き出しています。

この対談で、二人を結びつけた共通項はケンブリッジ大学でした。すなわち、二人はケンブリッジ大学に代表される、イギリス的教養のあり方に驚かされ、魅了された経験を共有しているのです。

林氏はベストセラー『イギリスはおいしい』などで知られる作家ですが、本職は書誌学者という、アカデミズムの人です。

1984年、ケンブリッジ大学所蔵の和漢古書の調査と目録作りのため、林氏はイギリスに渡りました。現地での仕事は、途中一時帰国を挟み、1987年まで続きました。

調査は大変なもので、林氏は図書館の開館前から自分の研究室に向かい、昼休憩はたったの15分、あとは午後に10分程度のお茶休憩を取って、ひたすらに文献の調査を行っていたそうです。

調査は、帰国前日の午後4時頃まで続きました。この仕事は、ケンブリッジ大学から出版された目録に結実し、貴重だが何を所蔵しているのか不明であった和漢古書を、研究者が利用し得る状態にすることができました。

ベストセラー『イギリスはおいしい』(1991年)は、イギリス滞在中の経験から、イギリスの食について語ったものです。

林氏が一般読者向けに書いたのは、これが初めてのことだったそうですが、編集者の支持もあり、執筆は二週間ほどで進んだと言います。

一方、脳科学者である茂木氏が渡英したのは1995年から97年のことで、博士課程修了後のポスト・ドクトラル・フェローとして、財団から資金を得つつ、ケンブリッジの生理学研究所で研究を行いました。

茂木氏は、渡英後も毎年のようにイギリスを訪問しているそうで、本書では、いつか日本を脱出して、インディペンデント・スカラーとしてケンブリッジで研究を行いたいとまで言っています。

林氏と茂木氏は、ケンブリッジのカレッジにある、ハイ・テーブル・ディナーの伝統などにイギリス的な教養、アカデミズムの姿を見て、日本の教養・学問のあり方に疑問を呈しています。

 

〇ケンブリッジの変人

この対談では、両氏は主にケンブリッジでの経験を元に、イギリス的な教養ないし学問のあり方を探り、日本の教養・学問の貧しさを指摘しています。

とはいえ、対談は決して堅苦しいものではなく、何となく読んでいても笑えてしまうようなエピソードが散見されます。

茂木氏は日本社会の出る杭は打たれる的な圧力を批判する一方、ケンブリッジやオックスフォードには突き抜けた変人がいて、しかも、自然と尊敬されてすらいる点に、イギリスにおける教養や学問の可能性を見ています。

林氏が紹介しているエピソードがいくつかあります。

ケンブリッジの図書館では、ある日座った席で本を開いて帰れば、次の日も本はそのままで、同じ席で読むことができるそうです。

林氏は和漢古書調査の後もケンブリッジを訪れているようですが、ケンブリッジの図書館には、何年間も同じ席で、しかも同じ服を着て、本を読んでいる学者がいることを発見して、林氏は嬉しくなったそうです。

その学者はインディペンデント・スカラーと思われる古典学者だと、林氏は言っていますが、すると、彼はこれといった肩書を持っているのではなく、ただ純粋にアカデミズムの「地縛霊」となって、図書館に居座っていることになります。

ケンブリッジやオックスフォードには、ホーキング博士(ケンブリッジ)やドーキンス博士(オックスフォード)といった、優れた自然科学者が沢山います。

その一方で、純アカデミズム的とも言える、俗世を捨てきった、呼吸をするかのように学問をしている変な学者も沢山いて、これが両立しているところに、両氏はイギリスの学問の生命を見ているようです。

あるいは、ノエル・アナンの『大学のドンたち』という、ケンブリッジとオックスフォードの学者の奇行を集めた本があるそうです。

バックランドという古生物学者は、どうも、何でも食べてみなければ分からないという考えの持ち主であったらしく、聞くと、今までで一番不味かったのは「青バエ」だったと言います。

虫でも何でも口に入れるというのは、確かに奇行ではあるのですが、何かを理解するという点では合理的でもあり、このエピソードにはどことなく、イギリスの経験主義や実証主義の具体的な表れを感じさせる部分があります。

茂木氏も言うように、彼らはどこか、突き抜けているのです。それも、学問をするという方向に向かってです。すなわち、常識では考えられない知的エネルギーが、歴史や世界に向かう伝統があるのです。

 

〇「教養」について

前回の記事でも述べましたが、私はこのブログを、何らかの形で<教養>を扱うものにしたいと考えています。

すると、私自身が<教養>とは何かについての鮮明なイメージを持っていなければならないので、その参考として、いくつかの本を読む計画でいます。

私は<教養>とは<想像力>であると考えています。あるいは、<想像力>を養うものと言えばよいでしょうか。<教養>は目薬の一滴のように、私たちの<想像力>を刺激してくれるものだと思っています。

前回は、作家・江上剛氏の著作の読書感想を書かせて頂きました。

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江上氏の言う「教養力」とは、仕事などの日常的な問題を解決するための、思考力のことであり、また、考え方、気持ち、意志力のことでした。

その特徴の一つは、教養について語っていながら、江上氏の言う「教養力」は、決してアカデミズムや博識を前提にしたものではないということです。

すなわち、江上氏の「教養力」とは、誰しもが日常的に思考することで、気が付かない内に育てているはずの問題解決能力、と言うことができます。

江上氏の「教養力」が日常生活における実践的なものである一方、私の<教養>は必ずしも実行には結びついてはいないという違いがあるようでした。

さて、<教養>を以上のように考える私には、少しだけ耳が痛かったのですが、『教養脳を磨く!』の冒頭において、茂木氏は以下のように述べています。

「教養」ということについて、世間では大いなる誤解があるのではないかと思う。教養は、どちらかといえば暇な時に「プラスアルファ」として身につけるものという印象はないか。(…)そのようなとらえ方では、とても教養というものの私たちの人生における本質的な意味にたどり着くことはできない。

明らかに、私や江上氏のものとも異なる、尖った、かつ熱っぽい何かが、茂木氏の言葉の内には生きているように思われます。

その、何か先鋭な感じは何に由来しているのかと言うと、茂木氏や林氏は、アカデミズムを代表する教養人として、学問に対して真剣であるということです。

というと、茂木氏や林氏が何を言っても、根本的なところでは、両氏は学者で読者は学者ではないのだから、両氏の言葉も虚しいと言えば虚しいと、そう思われなくもないかもしれません。

確かに、以下のような言葉は、共感し得る読者を選ぶようにも思われます。

「教養」というものが持っていた輝かしい光もすっかり失われてしまっている。今まで自分が知らなかった世界をかいま見る。その醍醐味に人々が突き動かされるという風景は、すっかり遠いものになってしまった。たどり着くためには胆力も粘りも必要な、そんなはるかな知的到達点を思いやる精神の張りが、社会からすっかり失われてしまった。

しかし、以上のような言葉は、人を選ぶからこそ、主張する価値があると言うこともできるでしょう。すなわち、これは本来、人を選ぶということではなく、全ての人が理解し得る感覚であるはずなのだということです。

付け加えて言えば、茂木氏は決して、「教養」に参入し得る人間を選定して、その資格条件について述べているのではありません。

そうではなく、全ての日本人が取り戻すべき「精神の張り」を、どうすれば回復することができるか、ということについて主張しているのです。

ところで、茂木氏は「無知の知」や「無限」、あるいは「深さ」という言葉を使用しています。「深さ」について言えば、茂木氏がその感覚を開いたのは、小学五年生の時に知った相対性理論によってだったそうです。

更に、高校生の時にはニーチェの『悲劇の誕生』などを読んで、一層「深さ」についての感覚を鋭くしていきました。茂木氏がニーチェを通して学んだのは、以下のような認識でした。

社会の表面的な出来事の背後に、もっと深い、探求していけば尽きることのない次元が隠れていること、そこに私たちの生命や意識も究極的には由来すること

これが、茂木氏や林氏が学問に対して真剣である時の、その根本的な認識であると言うことができると思います。すなわち、学問に対する熱量の源泉としての、人間の認識の可能性ということです。

ここで、林氏が最後の章で書いている、昔出会った日本人の外交官について触れておきたいと思います。

その外交官とはロンドンで出会ったようですが、林氏は彼がイギリスのことを何も知らないので、閉口したのだそうです。

ただ、イギリスに関して無知であるということ自体は、まだ問題ではないと言うことも出来ます。元々イギリスに関係のない現場から着任したのかもしれませんし、知識の不足は補うこともできます。

そうではなく、問題は、林氏がその背後にイギリス文化の秘密を嗅ぎ取っていたラウンド・アバウトという、イギリス的な交通方式に対して、彼が「あんなのは、イギリス人の下らない悪知恵ですよ」と言い放ったことです。

その外交官の態度は、茂木氏の「社会の表面的な出来事の背後に、もっと深い、探求していけば尽きることのない次元が隠れている」という、未知に対する感受性とは、丸っきり逆のところにあります。

一般的に言って、教養とは知識であるという考え方は嫌われる傾向にあります。言い換えるとすれば、教養とは、何かを覚える、それをアウトプットするという、単純な出たり入ったりを意味するわけではないのです。

その外交官は、おそらく、大学で学んだ法学や政治学の、テストに出るようなところには詳しいでしょうが、覚えているだけで、世界に対する向き合い方については、全然育ててこなかったのでしょう。

実は、茂木氏が言う「教養」とはある種の態度のことであり、私は一種の<品性>であるとも思うのですが、未知に対する謙譲、あるいはその可能性の認識、これを育ててきた人間を、茂木氏は教養ある人と言うのです。

そのため、本質的なところでは、茂木氏の言う「教養」は決して博識やアカデミックな水準を求めているわけではないのですが、茂木氏にしろ、林氏にしろ、日本の学者に対しては中々辛辣です。

印象的な話では、ケンブリッジにはソサエティ・フォー・ジャパニーズ・スカラーズというソサエティがあって、日本人の学者が集っているのですが、両氏はこんな集まりには出席する価値がないと考えます。

というのも、ケンブリッジには学部の他にカレッジというものがあって、それは入学する時に決める寮みたいなものなのですが、カレッジには食事に参加しなければならないというルールがあります。

カレッジには様々な専門の学生や教授がいて、食事では彼らが集って、学問的な議論を行います。これを、ハイ・テーブル・ディナーと言うのですが、林氏も茂木氏もこれを体験して、学問の総合性を磨くには最適だと感じたようです。

ケンブリッジやオックスフォードの学生は、一方では自分の専門を突き詰めていき、他方では、カレッジの食事によって、学際的な、様々な分野に対する視野も広げることになります。

これが、ケンブリッジやオックスフォードの一般教養になっていて、総合力のある優れた学者を育てていると、両氏は指摘します。

このような、ケンブリッジでの学問体験の醍醐味を前提にすると、日本人同士で意味もなく集まって、休暇がどうとかといった雑談をするだけのソサエティは、確かに出席する価値はないのかもしれません。

茂木氏の「教養」が必ずしも学者的な博識を要求しないのは確かです。それはある種の態度であり、学問の遥かな高さに対する謙譲や憧憬と言えます。

一方、学際的に一般教養を深め、専門分野でも突出した、イギリス的な学者を育成したいという両氏の止め難い欲求が、本書を切れ味の鋭いものにしています。

 

2. 参考図書

林望・茂木健一郎『教養脳を磨く!』(NTT出版)

 

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