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【四大悲劇】シェイクスピア『マクベス』の感想です。

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1. シェイクスピア「マクベス」

前回の記事では、私はシェイクスピアの『ハムレット』を読んだことを書いた。シェイクスピアを読んだのは卒業以来初めてのことである。すると、五年は読んでいなかったであろうか。それだけの時間が経っていると、やはり読み方も、感じ方も変わっているようだ。

最近、私は小林秀雄の『読書について』という作品集を読んだのだが、その中の文章の一つで、小林は、小説はもっぱら若い人が読むもので、歳をとってから改めて読む者は少ない、といったことを書いていた。小林は、理由として、若い人たちは物語の中に我を忘れるために読んでいるのであるが、一たび社会に揉まれて、想像力も衰え、我を忘れるなどできなくなると、もう小説には用はなくなるのだから、といった趣旨の指摘をしていたと記憶している。

小林は読書も経験だと言うが、私には空想と、経験としての読書との違いははっきりとは分からない。それは、私の性情にもよるであろう。だが、作品の中に自分の辿って来た心理生活や、実際上の経験を読むということならば、当然、それは若者の得意とするところではないはずである。経験を積み、読書をすることで、若い時分には見えてこなかったものが見えて来るのは自然なことのはずであるが、そこには、もう空想しか書かれていないように誤解してしまう。確かに、若い時の読書の仕方が影響していると、言えないことはないであろう。

私はシェイクスピアを「四大悲劇」から読み始めたのであるが、最初に読んだのは『ハムレット』であった。前回の記事で紹介した通り、私はランボーの詩「オフェリア」に惹かれて、その乙女の悲劇が実際に描かれている『ハムレット』を読んでみたいと思ったのである。

実は、『マクベス』にも同じような事情がある。私は『マクベス』に対してある種の先入観を持って読み始めたのであるが、私に最初にこの作品を教えたのはボードレールであった。彼の『悪の華』の中に「理想」という詩がある。

 

いや断じて、ああいう飾り版画の美女たちなんかではない、

ろくでなしの世紀の産んだ、瑕もの商品、

編上靴はいた足だの、カスタネット握った指だのではない、

私の心のような心を、満足させることができるのは。

 

貧血症専門の詩人、ガヴァルニにまかせておこう、

施療院の美女たちの囀る群などは。

というのも私は、これら蒼ざめた薔薇たちの間に、

深紅なるわが理想に似かよう花を見出し得ぬゆえ。

 

深淵のように深いこの心に必要なのは、

御身、マクベス夫人、犯罪に力強い魂、

疾風の風土に花咲いたアイスキュロスの夢。

 

さもなければきみ、ミケランジェロの娘たる偉大な<夜>、

巨人族の口に合うように作られたきみの姿態を、

奇怪なポーズでおだやかにくねらせるものよ!

 

ボードレールは「深淵のように深いこの心」と言うが、近代の「蒼ざめた薔薇」の女たちでは、到底、彼の「深淵」に触れることなどできない。軽蔑して、彼女らを浅薄であるなどとは言うまい。それはそれで、愚かしいことだ。が、天国も地獄も知らず、「編上靴」を履いたり、「カスタネット」を握ったり、そんなことだけが彼女らの生活の全てだとして、一体、何が見えるというのであろう。

ここでは、「マクベス夫人」という言葉は、「悪徳」を暗示していると言ってもいいのであるが、彼女は、決して、蠍(さそり)や蝮(まむし)のような詰まらない女ではなかったし、利己心と浅はかさばかりの、軽蔑すべき女だったわけではない。詩は「犯罪に力強い魂」と歌っている。なるほど、彼女ほど、両の眼に確かに炎を宿らせた女性も少ないのである。その炎は、決して卑しくはない。

私は、やはり若者の限界で、学生の時には、マクベス夫人を単に悪徳の象徴か何かとしか読み取ることができなかった。詩から得た先入観もあったであろう。一般に注目されているほど、私はマクベス夫人には注意を向けなかった。というより、私には、期待していたほど読み取れるものがなかったのである。確かに、意志は強い女である。強欲という言葉も浮かんでこないことはない。だが、それ以上を出なかった。

マクベスは武勇の誉れ高い武人である。この度、スコットランドで謀反が起こり、乗じてノルウェー王が軍勢を率いて攻めて来ると、そのどちらも、勇猛果敢に蹴散らしてしまった。時の王・ダンカンはいたく感心する。褒賞として、マクベスはコーダの領主に封じられる。だが、王の下へ向かう途次、荒れ地で、マクベスの前に現れた三人の魔女の予言は、マクベスがコーダの領主になることを言い当てていた。残された予言は、次の王はマクベスである、というものであった。

この物語は、魔女に唆されたマクベスの野心が、目も当てられない、醜悪な暴政へと向かって滅びるという筋である。マクベスが王になるためには、王が自然に息を引き取らない以上、殺害する他なかったのであるが、マクベスはその可能性をはっきりと自覚しておきながら、一人では、その決断ができなかった。弑逆の実行には、マクベス夫人の協力が必要だった。

戦いが終わり、ダンカン王がマクベスの居城にやってきた。もちろん、王の息の根を止めてしまう絶好の機会である。マクベスと夫人とは、口にまで出さないが、この機会に王を亡き者にしてしまおうとする。というより、二人は予言のまま、今夜の自分たちの行動を予感している。だが、マクベスは、最後の最後で尻込みする。

お願いだ、黙っていてくれ、男にふさわしいことなら、何でもやってのけよう、それも度がすぎれば、もう男ではない、人間ではない。

なるほど、マクベスの正当な誉れとは、コーダの領主になるところまでであった。ここで、それ以上を望むならば、人間を止める他ない。

では、マクベスにこのように言わせる夫人は、何かヒステリーのような残忍さで、夫の手を血で染めさせようとしているのであろうか。そうではない、と私は思う。「もしやりそこなったら?」と泣き言を言うマクベスに対して、夫人は、

やりそこなう? 勇気をしぼりだすのです、やりそこなうものですか。王が眠ったら、ええ、どうせ今夜は旅の疲れで、ぐっすり寝こんでしまうでしょう、二人のお附きは大丈夫、葡萄酒をどんどん勧めて酔いつぶしてやる(…)そうなれば、護衛のないダンカン、二人でどうにでも出来ましょう? 大逆の罪も、そのやくざ頭のお附きになすりつけてやったらよい、どうしてそれが出来ないと?

この言葉で、マクベスは一応、決心がついたらしい。

それなら、酔いつぶれた二人に血を塗り附けておく、短剣も奴らのを使う、そうすれば、人の眼にも、そいつらの仕業と見えぬでもあるまい?

やっと結論に辿り着いたマクベスに対して、夫人は「誰がそれを疑います? こちらは王の死を嘆き、大声に騒ぎたてているのに?」と応じている。なかなか緊迫した場面なのであるが、この辺りのやり取りに、マクベス夫人の「人間的な魅力」が表れていると言ってよい。

なるほど、マクベス夫人は人殺しで、それも王殺しの大罪人である。大罪人の「人間的な魅力」などは、言葉の矛盾に過ぎないと思うかもしれない。だが、マクベス夫人は人間に足蹴にされて、おずおず引き込むような、しょうもない蛇などではない。彼女は獅子の類である。

マクベス夫人を、思慮の浅い女の知恵を、夫に対して吹き込むばかりの女だと思って読むと、二人の関係性を見誤る。そういう読み方に慣れていると、確かに、そうとしか読めてこないのである。

ここでは、マクベスは決断のできない、意志の弱い男として書かれている。が、本来は彼自身が、獅子のような男のはずである。どうやら、野心はむしろ、彼の弱点だったらしい。マクベスは三人の魔女から受けた予言を反復するように、一人呟いている。

二つはあたった、王位を賭けた壮大な芝居には、もってこいの幕開きだ。

この言葉に出会うまで、マクベスのセリフはそう多くはないのであるが、何となく、マクベスらしくないセリフのようにも感じられる。マクベスはもちろん、男らしい武人のはずなのであるが、この呟きには、どこか、努めて意志を強く持とうとしているようなところがある。かと言って、軽薄とか、滑稽とか、そう決めつけられるようなものでもない。マクベスの微妙な精神状態、人間的動揺が伝わるのである。

マクベスは、外面だけの貴人などではない。荒々しい腹を持った武人である。予言に居合わせた友人のバンクォーからして同じである。彼は子孫が王になると予言されたのだが、二人の得た予言について後日話し合おうと言うマクベスに対して、ただ一言、「よかろう」と答えている。自分たちが王位に関係してくることに対する潔癖、のようなものは元々ないのである。彼らは貴族社会にばかり生きているのではない、やはり、なお野生に生きている。

王がマクベスの居城に到着した時、夫人が王を出迎えに外に出てくる。その場面での夫人のセリフが面白い。私達にはなかなか美辞麗句としか映らないかもしれないが、このセリフに、私は小賢しい知恵などではない、彼女の、野生の自信を読み取る。

王室への御奉公、その一つ一つを二倍にいたしましても、さらにそれを二倍にしてお尽くししましたところで、王様が日ごろ当家にお恵みくださる大きな栄光にくらべれば、ものの数ではございませぬ。以前のことはもちろん、かてて加えて、このたびの栄誉、いつになったら御恩報じが出来ますやら。

あるいは、

いいえ、わが身はもちろん、召使も、家屋敷も、とどのつまりは、貸し賜わったもの、いつでもお手もとにお返し申しあげるのが、臣下の務めと存じます。

なるほど、非の打ちどころがない。というより、半ば女の言葉ではない。彼女は夫に代わって、夫の言葉を述べているのである。だから、彼女は夫の半身と言っても、写し身と言ってもいい。彼女もまた、ただの貴族の女などではない。武人の妻なのである。

マクベスと夫人とは、お互いの荒い腹の中を、お互いに知り尽くしている。王に対する時のこのセリフに何を読むか、ということは殊の外重要である。人は、そこに冷たい怜悧を読むかもしれない。が、私は、熱い闘志の炎が夫人の体内を巡っている様子を想像して、やはり、私は夫人に敬服せざるを得ない。

まさしく、スコットランドを闇に沈めた王位簒奪事件は、夫と夫人との共犯になるものであった。共作であったと言ってもいい。唆したり、唆されたり、そんなやわな関係は二人の間にはなかった。

言うまでもなく、尻込みするマクベスを尻を叩いたのは夫人である。野心はマクベスにとって迷いそのものだったから、予言は希望と、涙目とを、同時にもたらした。マクベスの本来の闘志は奥に引っ込んでしまい、彼は闘志と陰謀の黒い手とを交換して、誰にも同情されないままに滅びた。

予言を共有するバンクォーを暗殺してしまった後、王の宴席に、招待したはずのマクダフがやってこない。だけでなく、彼はバンクォーの亡霊に悩まされる。言葉通り、死人が化けて現れたのである。

いや、ひとづてに聞いたのだ、だが、とにかく使いを出しておこう。大丈夫だ、おれが飼っている家来のいない屋敷がどこにあるものか……夜が明けたら、そうだ、すぐにも、例の女たちのところへ行ってくる(…)

マクベスは再び、魔女の予言から自身の運命を照らそうと試みるのであるが、そんな予言を待つまでもなく、このようなセリフが現れたところに、崩れ行くマクベスの王位の姿が歴然としている。私は彼を腹の荒い武人だと言ったが、残酷な陰謀を巧みに使いこなして平気な腹は持っていなかった。陰謀に自ら喰われのである。

夫人はもちろん、持ち前の闘志をマクベスに注ぎ続けようと試みたが、駄目だった。マクベスが地獄へと続く坂道を進んで転がり続ける以上、その半身である夫人も、道を同じくする他なかった。夫人も結局は精神を病み、夢遊病の内に自己の罪を告白してしまう。言ってしまえば、夫が、上手い役者になれなかったからである。

さて、どうやら『マクベス』を評すると言えば、『ハムレット』との比較の形をとるのが通例であるらしいから、私も少しばかり思うところを書いてみよう。といって、大して目新しい発見があるわけでもないのであるが。なお、私は『ハムレット』と『マクベス』のどちらがより優れているとか、そんなことを言うつもりはない。私には、どちらもそれ固有の姿をしているとしか思われない。リアリストの作者に対し、一読者が創作技法的な部分を云々することに、どれほどの意味があろうか。

ハムレットは亡き父王の亡霊に出会い、現王・クローヴィスへの復讐を誓う。誓うとは言うが、ハムレットの行動を貫いていたのは逡巡であり、決意ではない。私たちが見せられるのは、例えば情熱や意志に対して、いかに理性ないし意識が頼りなく、実際の行動を伴わないものであるか、ということなのであるが、まさにその割り切れなさのままに、ハムレットらは死んでいく。死の直前には、一応、ハムレットはそれまでの逡巡から解放されているようであるが、読者が復讐劇に期待する、密度の濃い幕引きはそこにはない。

そこで、どこか物足りない『ハムレット』に対して、比較的密度の濃い『マクベス』という評価が成り立つ。私は、創作物として読者が何を好むものかという問題を抜きにすれば、『ハムレット』の物足りなさは、それがそのまま、近代人の意識の問題を表していると言えるのだし、読者が直観的に感じる密度の濃淡が、そのまま作品の優劣に繋がるとは思わない。

が、それはそれとして、『マクベス』の密度とは何か。それは、一読すれば明らかであろうと思う。言うまでもなく、悲劇を幕引きする、破滅を用意するところの「毒」がそれである。つまり、マクベスは王としての全ての尊敬を失い、国の病として、臣下に討たれるのであるが、そのような結末は、読者には自然に思われるのである。

マクベスは罪悪感を胡麻化すために、腹の中に自ら毒液を垂らし、国中に毒を振りまいて自滅するのであるが、人間が、このようにして生き続けられるとは思われない。読者は臣下らがマクベスを見限ったように、彼の人生の終わりを期待し始める。読者は予言の逆説的成就に胸の蟠(わだかま)りを解消するのである。

マクベスの血を巡る「毒」の気配に、読者は安心して、破滅への筋を辿る。また、王位簒奪と、その後の暴政の内に、平凡な自我を超えた、すさまじい「毒」の凝集を読者は読み取るのである。そのような読み方に、読者の勝手な欺瞞がないものか、私は疑問なしとはしないが、『マクベス』賛辞の理由は明らかなのである。

好みの問題で言えば、私は『ハムレット』の哲学を好む。『マクベス』の筋は、マクベスが貴族らの前で、バンクォーの亡霊に毒づいて見せたところで決している。そういう意味では、後に残されたのは、読者の生理的満足に過ぎない。

と言って、私は『マクベス』から容易には逃れられないであろう。武人としてのマクベスと夫人。彼らの内に確かに宿っているように感じられた熱は、私を不思議に魅了してしまった。やはり、私は、彼らには出会いたいのである。毒と悲劇。ここで、劇作品上の理論などは考えないでおきたい。作品の中に確かに人間を見たという手ごたえが、私たちを作品へと繋ぎ続けるのであるから。

 

2. 参考文献

シェイクスピア『マクベス』(新潮文庫)

ボードレール「理想」『ボードレール全詩集 Ⅰ』(ちくま文庫)

 

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