今回は梶井基次郎の人物と代表作「檸檬」を紹介してゆきます。
梶井に興味のある方はぜひご覧下さい。
1. 梶井基次郎ってどんな人?
①生涯
梶井基次郎は1901年に大阪に生まれました。高等学校時代から結核の症状が現れ始めたらしく、この病気のために1932年、31歳という若さでこの世を去ります。
電気の専門家であった兄の影響で、高等学校では理系に属していました。ある時期まではエンジニアを目指していたようです。しかし、高等学校在学中から文学を志し、東大英文科に進学して上京します。
1925年には高等学校時代の仲間たちと、雑誌『青空』を刊行します。その創刊号で発表されたのが、梶井の処女作「檸檬」でした。
この作品は処女作とは思えないほどに完成されており、梶井の独自の世界感覚が十全に表現されています。「檸檬」は梶井の作品の中でも圧倒的に支持されており、多くの読者の鑑賞や研究の対象となっています。
ただ、他の文士との交流はありましたが、梶井は生前には、一般の読者にはほとんど名前を知られていなかったようです。
彼の評価が急速に高まったのは死後間もなくで、川端康成や三島由紀夫のような人物も彼を高く評価しています。
今では、梶井は近代日本文学の古典的作家に名を連ねる人物として私たちに親しまれています。
②影響を受けた人物
梶井は松尾芭蕉や夏目漱石などを愛読したと言われています。
特に松尾芭蕉を敬愛しており、彼の「冬の日」という作品のタイトルは芭蕉の選集『冬の日』に由来しているとも言われます。
また、彼の中期頃の作品「冬の蠅」に関しては、志賀直哉の「城の崎にて」との類似性が指摘されています。どちらも温泉宿での生活の印象を綴った作品です。
当然のことながら、梶井は創作上、先人・同時代人から多くを吸収していたのですね。
しかし、梶井の文章を読めば、彼のモチーフや視点の独自性は揺るがない事実のように思われます。その独自性の形成に中心的な役割を果たしたのは、少なくとも湯ヶ島での療養生活以後では、やはり彼の結核だったようです。
③梶井の作品
梶井が作家として生きた期間は夭折のために短いものでした。
雑誌『青空』誌上に「檸檬」を発表したのち、絶筆の「のんきな患者」を『中央公論』誌上で発表するまで、わずか7年の歳月に過ぎません。
梶井は生前に20編ほどの作品を発表していますが、それらはみな短編小説です。短いながらも、梶井の世界感覚が結実した珠玉の作品が揃っています。
代表作は何を置いても「檸檬」です。
他にも「城のある町にて」、「Kの昇天」、「冬の日」、「筧(かけい)の話」「冬の蠅」、「のんきな患者」など、評価も高く、人気のある作品があります。
梶井をもっと知りたいという方は一通り読んでみることをおすすめします。
④作品の変遷
梶井を知る上で、彼の作品の変遷を知ることは重要です。
「檸檬」を含む前期の作品には魂の救済への希求が描かれているのに対して、中期以降ではそれを意識的に否定しているように見受けられます。
例えば1928年の「冬の蠅」にはこのような文章があります。
私が最後に都会にいた頃―それは冬至に間もない頃であったが―私は毎日自分の窓の風景から消えてゆく日影に限りない愛惜を持っていた。(…)今の私にはもうそんな愛惜はなかった。
引用の前半部分、梶井が「都会にいた頃」の「愛惜」と聞いて思い出されるのは、1927年の「冬の日」という作品です。この作品では沈む日に憧れを感じて追い求める魂の放浪者のような心境が描かれています。
しかし、ある時期から梶井はそのような心境を否定するようになったようです。先ほどの引用は次のように続きます。
私は日の当たった風景の象徴する幸福な感情を否定するのではない。その幸福は今や私を傷つける。私はそれを憎むのである。
梶井が「冬の蠅」において暗い陰の側へ沈んでいったのは、言うまでもなく結核が原因しています。
生活の乱脈もあり、彼は「檸檬」発表の翌年から病状が悪化し、伊豆の湯ヶ島の温泉宿で2年ほどの療養生活を送ります。「冬の蠅」は温泉宿での療養生活を描いた心境小説で、梶井の実体験が元になっています。
当時は不治の病であった結核に冒されて、梶井がおよそ希望というものを嫌悪するようになったとしても不思議ではないでしょう。
絶筆の「のんきな患者」は以下のような文章で結ばれています。
しかし病気というものは決して学校の行軍のように弱いそれに堪えることの出来ない人間をその行軍から除外してくれるものではなく、最後の死のゴールへ行くまではどんな豪傑でも弱虫でもみんな同列にならばして否応なしに引き摺ってゆく―ということであった。
病気で死ぬということ。自分がその例外ではないということ。そのような事実を受け止めようとするとき、これまで持ち続けて来た意欲や希望が全て剥がれ落ちていくような心境になるのかもしれないと、私は想像します。
それは虚脱でもあり絶望でもあり、あるいは、ただ単純な事実として私を襲ってくるものなのかもしれません。だとすれば、希望は乞い求めるべき真実ではもはやなくなってしまうのでしょう。
梶井の文学は「檸檬」はもちろんとして、結核という条件がなければ書かれ得なかったものです。彼自身も「肺病になりたい、肺病にならんとええ文学は出けへん」と言ったことがあったようです。
梶井の文学は、まさに梶井自身の命の結晶なのですね。
2. 代表作「檸檬」について
①概略
梶井の代表作「檸檬」は1925年、雑誌『青空』創刊号において発表されました。
この作品は梶井の処女作ではありますが、元々は習作「瀬山の話」の中にある一挿話を独立させたものです。
代表作「檸檬」はそれまでに書いてきた数十の習作が昇華されて生まれた作品と言えるかもしれません。
冒頭の有名な一文「えたいの知れない不吉な塊」など、読解の興味をそそる要素が多くあり、短いながら読みごたえのある作品だと言えます。文庫本では10ページに満たない短編なので、比較的気軽に読むことができます。
読んでみると、結核を患った単なる文学青年を超えた才能が感じられます。
溢れ出る作者の天才性が、今でも多くの読者を引き付け続けていることは間違いありません。
② あらすじ
語り手の「私」は「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけて」いるのを感じていた。
それは「焦燥」と言えばいいのか、「嫌悪」と言えばいいのか、美しい音楽を聴いていても、美しい詩を読んでいても、「私」を「居堪らず」させてしまうものだった。
それで、京都の町を始終「浮浪し続けていた」頃のことを、「私」は回想する。
その頃、「私」は「見すぼらしくて美しいもの」に惹きつけられた。「風景にしても壊れかかった街」、「裏通り」、あるいは商店で売っている安っぽい色の花火、びいどろのおはじき、南京玉......。
以前の「私」は輸入雑貨店の丸善を好んでいた。しかし、もはや琥珀(こはく)色や翡翠(ひすい)色の香水も煙管(キセル)も「私」を喜ばせなかった。
ある日、「私」はお気に入りの八百屋でレモンを見つけた。お金のない「私」は「二銭や三銭」の贅沢として、それを買った。
そのレモンを握っていると、「始終私の心を圧えつけていた不吉な塊」が弛んでいくのを感じて、「私」は不思議に思った。
「私」はレモンの冷たさや快い香りを楽しみ、視覚、味覚、嗅覚などを楽しませた。すると、肺病で熱を持った「私」の体にも元気が戻ってきた。
「私」は常日頃避けていた丸善に入ってみる気になった。入ってみると、やはり香水も煙管(キセル)も「私」を喜ばせないどころか憂鬱にさせる。以前好んで眺めていた西洋の画集も同じだった。
画集を引き出しては積んでいると、ふと「私」はレモンのことを思い出した。レモンを取り出すと、再び「私」に「先ほどの軽やかな昂奮」が戻ってきた。
「私」は不意に思いついて、様々な色の画集を色々な形に積み上げると、その上にレモンを置いた。
見ていると、「私」に「第二のアイデア」が起った。レモンを置いたまま、丸善を立ち去ったらどうだろう。「私」はレモンをそのままにして立ち去った。
もし「私」が丸善にレモンの爆弾を仕掛けた悪漢で、その爆弾が爆発したとしたら、気詰まりな丸善も木端みじんだろう。「私」は「変にくすぐったい」気持ちだった。
「私」は映画店の看板が街を彩る京極を歩き去った。
3. 「檸檬」の考察
最後に、作品の紹介も兼ねて、「檸檬」の考察を書いてゆきます。
①「えたいの知れない不吉な塊」について
作品の読解上最も重要で、かつ様々な解釈を呼んでいるのが、冒頭の「えたいの知れない不吉な塊」です。
それは「私」の心を始終押さえつけていて、焦燥と言うべきか嫌悪と言うべきかも分からないものだったようです。
その頃の「私」は学生だったようですが、「えたいの知れない不吉な塊」に突き動かされて、あるいはそれから逃れるために、京都を徘徊していました。
そして、「私」は崩れかかったような街の風景とか、鼠花火とか、びいどろのおはじきとか、そういったものに慰めを感じていたようです。
私は「えたいの知れない不吉な塊」とは、<暴(ぼう)発する意志力>のことだと解釈します。
ここで言う意志力とは、自己を鍛え成長する意志の力のことです。あるいは突き進む力のことです。
どこへ突き進むのか? 例えば、より高い世界へ。
主人公の「私」は梶井の生き写しなので、元来優秀で、意欲ある若者と考えることができます。文学青年なので、その熱は文学とか美とかに向かいます。
これまで、「私」の意志力は熱となって、西洋的なものに向かっていました。
生活がまだ蝕まれていなかった以前私の好きであった所は、例えば丸善であった。赤や黄のオードコロンやオードキニン。洒落た切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った琥珀色や翡翠色の香水壜。煙管(キセル)、小刀、石鹸、煙草。
そして、西洋画集ですね。実際、梶井自身がセザンヌを好んでいたという事実もあります。作中では、「アングルの橙色の重い本」を特に好んでいたと書かれています。
それら西洋的な美はきらびやかで、新鮮で、より上等な世界を想像させます。熱に浮かされている若者として、このような魅力に抗うことはちょっと難しいでしょう。
しかし、西洋的なきらびやかな美は、どこか心を脅(おど)かすような美である部分があります。
上昇志向、奢侈、見栄、焦り......。
それに最初、盲目的に魅了されていた頃、西洋趣味は新鮮な新しい世界の空気を呼吸させてくれるオアシスのようなものでした。その象徴である丸善は「もうその頃の私にとっては重くるしい場所に」なってしまっています。
「私」の心は疲労してしまったのです。そして、かつて非現実そのものであったものが、むしろ重苦しい現実を象徴するものになってしまいました。
梶井は松尾芭蕉を敬愛していた人です。西洋的な、人間の欲望が纏わりついているような美には、どこかの時点で趣味のズレを感じ始めたとして不思議ではありません。
丸善の陳列品は、人間の欲望と、人間の生産活動の象徴です。
求めて、求めて、求めて。
作って、作って、作って。
なんだか少し、うんざりしてきませんか。疲れるんです。「私」の意志力はこのような世界に追いついていくことを目標にしてきましたが、苦しいんです。
ただ、「私」の心はすでに今までの意志力のあり方を拒否しているのですが、「私」の自我はまだ意識的にそれを放棄できていません。なぜでしょうか。
それは、「私」がまだ学生で、自分に無条件の確信を抱く事ができていないからです。
若者は意志の力を失って、世界の忙しい部分からはみ出してしまうことを恐れるものです。だから、苦しくても、それを放棄することには勇気が必要なんです。
心が苦しくなってしまっている「私」は、バランスを取るように、「見すぼらしくて美しいもの」を求めます。例えば、「壊れかかった街」。それも「裏通り」。
雨や風が蝕んでやがて土に帰ってしまう、といったような趣きのある街で、土塀が崩れていたり家並が傾きかかっていたり―
これが「私」の求める美です。丸善的な美とは真反対なんです。
つまり、丸善的なものは<作って、作って、作って、そして維持される>美の世界であるのに対して、「私」が求めているのは<崩れていって、土に帰っていくような>美の世界です。
美は、何も頑張って生み出し続けなければならないものではなくて、何でもないところに、何でもない形であるものなのだと言うことですね。
とにかく、「私」はもう頑張りたくないんです。
ただ、それが分かっていても、心は勝手に動き出す。暴発する意志力。
だから、「えたいの知れない不吉な塊」は宿命のように、「私」の心を圧迫して、苦しめ続けるのです。
②レモンが象徴するもの
「私」はお気に入りの八百屋でレモンを一つ買います。何も特別なレモンなのではなく、単調なレモンイエローのレモンです。「私」はこれをひどく気に入ります。
「私」はそのレモンを握って、冷たさを感じてみたり、快い香りを嗅いでみたり、色を確かめてみたり、様々な方法でレモンを楽しみます。すると、例の「えたいの知れない不吉な塊」も緩んでくるのでした。
梶井の作品には視覚的要素が多くて、特に色のイメージが鮮明に浮かぶ描写が多いです。例えば、植物や木の実などでしょうか。あるいは血痰とか。
この作品中に出てくる、商店で売っているような花火とか、びいどろのおはじきというのも、色を含めた視覚的イメージが喚起される描写だと思います。
レモンの描写では、色だけではなく、触覚や嗅覚もよく描写されています。いずれにせよ、作者の五感が素晴らしい筆致で描かれているわけですね。こういう部分は非常に梶井的だと思います。
そして、この作品においてレモンは何を象徴しているのかと言えば、それは<解放>だろうということは言えると思います。
特に、「私」は肺病を患い、常に身体が熱を持っていました。そこに清涼なレモン。まさに「私」の身体が今まさに求めていたものなんですね。
ただ、レモンは「私」にとって、<身体的な解放>だけをもたらすものだったのかと言うと、私はそうではないと思います。
レモンは「私」の<思想的な解放>の象徴でもありました。
「私」はレモンに元気付けられて、最近は避けていた丸善に入ってみるのですが、入ってみるとやはり憂鬱で、好きだったはずの西洋画集も陰鬱に感じられたようです。
「私」は画集を次々手に取って、一応バラバラとめくっては、そのまま積み上げていたみたいです。そうしている内、ふと、様々な色の画集を積み上げて、その上にレモンを置いてみたらどうか、とひらめきました。
私は手当たり次第に積みあげ、また慌しく潰し、また慌しく築きあげた、新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。奇怪な幻想的な城が、その度に赤くなったり青くなったりした。
この「奇怪な幻想的な城」の上にレモンを置いたのです。
見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。
ものすごい一文ですね。これが、作者の色彩的な秩序感覚なんです。そして、この辺りの読解のキーワードも<秩序>だと私は思います。
まさに、「奇怪な幻想的な城」を築き上げるということは、憂鬱な現実世界の、ある種の<秩序再編>なんです。陰鬱で重っ苦しい画集を、ひらめきで積み上げて、そこにレモンを置く。
今までは画集が「私」の王様として、彼を押さえつけていたかもしれません。しかし、今やレモンが王様となり、画集はその下で小さくまとまっています。
新しい王様を自分の手で任命する全能の権利。
先ほどの考察で述べた通り、私は「えたいの知れない不吉な塊」とは<暴(ぼう)発する意志力>だと解釈するのですが、その意志力が見出そうとする世界なんて、「私」にとっては気詰まりでしかなく、壊したいんです。
それを、ひらめきで実行したのです。レモンによる秩序再編。西洋的な美の世界という、「私」のこれまでの現実を一旦ゼロにして、「私」の本当の感性で新世界の創造する。
そして、「私」はこの城をそのままにして丸善を立ち去ります。
変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなに面白いだろう。(…)「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉端みじんだろう」
最初は、「私」は自分一人だけで<秩序再編>を楽しんでいたのですが、これを周りの人間にも見せつけてやろうと思ったのでしょう。
ただ、最後は少し乱暴で、檸檬が爆弾で、丸善も爆発してしまえば愉快だと「私」は言っています。
私は何も爆発させなくても、「私」の創造した新世界の象徴が置き去りにされているというだけで、充分強烈な印象を与えると思うのですが、作者は更に進んで相互崩壊を求めたようです。
それくらい、「私」は丸善が象徴する西洋的な美の世界には迷惑しているわけです。
レモンによる<秩序再編>とは、「私」の世界観、あるいは感性の救済です。私の思う<思想的な解放>とは、こういうことです。
4. 最後に
梶井基次郎について知って頂けたでしょうか?
代表作の「檸檬」が圧倒的に人気で有名ですが、梶井の作品はどれも魅力的です。
この記事で梶井に興味を持って頂いた方は、ぜひ彼の作品を読んでみて下さいね。
5. 参考文献
梶井基次郎「檸檬」他『檸檬・冬の日 他九篇』(岩波文庫)
梶井基次郎「檸檬」他『檸檬』(新潮文庫)
古閑 章「『梶井基次郎の文学』総説」『国語国文学研究』(熊本大学文学部国語国文学会)
戴 松林「肺結核と梶井基次郎の文学」『千葉大学人文社会科学研究科研究プロジェクト報告書第184集』(千葉大学大学院人文社会科学研究科)