Lian's Skyblue Pencil

主に文学作品の鑑賞によって「教養」をゆるりと追求していきます(りあん)

私のブログの今後の方向性について(小林秀雄『読書について』からヒントを得て)

この記事のイメージ画像として茶畑の画像

 

1. 私のブログの今後の方向性について

私はこのブログの方向性が定まらず迷っていた。正直に言えば、今でも迷いは完全には解消されていない。迷いというものは、根本的には、実行の積み重ねなくしては決して解消されない、それくらいのことは私も承知しているつもりである。

私がこの記事を書き始めたのは、私の少ない実行の積み重ねの結果、ようやく自分自身納得のいきそうなブログ運営上の方向性が、おぼろ気ながら見えてきたからである。これは私事であり、記事の「客観的」価値などは、Googleの持つ記事評価上のアルゴリズムから逆算すれば、「あってないようなもの」と言わざるを得ないが、言わざるを得ないばかりでは、面白いブログは作れないであろう。

私は元々、文学作品の解説記事を充実させる方向で、このブログの運営の方針を立てていた。解説は私の気質にも合い、私の得意とするところである。

今は残っていないが、最初の方の記事は、小林秀雄の批評作品を相当の文量で解説したものであった。元々、小林の作品はそう文量があるものではないので、そのことを考え合わせても、とてもコンパクトな記事とは言えないものであった。

一体、一つの作品を、それと同じ程度の文量、あるいは難解さで説明することに価値があるものか、疑問である。私はもちろん、分かりやすく書くことを目指した。が、その分かりやすさは噛み砕くことよりも、言葉を増やすことで実現されようとしていたように思われる。

文学作品の解説の難しさの一つは、噛み砕いたり、平易に書いたりすると、かえって作品の魅力が失われてしまうことにある。これは、ある程度は解説者が勝手に抱く懸念なのであるが、全くの空論とは言えない。難しいということ自体が作品の魅力の一つの要素となっている点は、高い価格がブランドの価値と不可分であるという経済学上の奇妙な現象に似ている。

ただ、私は、徒に文量の多い解説は読者に読まれないのではないかと感じた。私のブログは立ち上げて日も浅く、検索流入の状況から客観的に判断することが叶わない。そのため、その懸念は私の直観でしかなかったが、とにかく、私は書き方を改めることにした。

イデアは、ふとした時にやってきた。文量が多く、それが難しさになっているのだとすれば、文章を短くすればいいのである。であれば、細部の説明は捨てて、本質だけを掴むような解説をすればいい。そこで形になったのが、私の<高校生でも分かる!>シリーズである。

私はこのシリーズの価値を完全に見限ったわけではないが、現状では新しい記事を書き足していくつもりはない。そして、アイデアとしての、私の中での成功と、書いている内に気づき出した矛盾とが、私を更に迷わせることになった。

このシリーズの価値は、芥川や太宰などの作品を、一つのキーワードで、本質的に理解できるところにある。私は文学作品を学問的な理論や象徴論などで理解することを好まない代わりに、自分の内的経験から、作者の内的経験や、登場人物の問題点などを明らかにすることに意義を感じる。作品を理解するとは、言葉の操作による、概念的なものなのではなくて、もっと直接的なものだと、私は考えるのである。

私はこのシリーズの執筆に、私の能力や個性の発揮を期待することができた。記事を増やそうと思えばいくらでも書けるだろうことは、今でも変わらない。しかし、文学作品の解説というジャンル自体に潜む問題点は、次第に明らかになった。何てことはないことである。すなわち、そもそも、他人の解説を求めている文学愛好者などいないのである。単純なことであるが、私には盲点であった。

そこから、私は梶井基次郎の作品を題材に、練習としていくつかの記事を書いた。考察と称してみたり、感想を書いてみたり、書評という形式を借りてみたり、だが、どれも根本的な解決には至らなかった。私は途方に暮れていた。このまま、自分のやり方に納得のいかずに記事を書き続けることは不可能と思われた。

問題の解決は、意外にも簡単に訪れた。原点回帰である。答えは初めから自分の中にあったのである。そして、そこから離れ、再び戻ってくるまでに、少し時間が必要だったに過ぎない、そう言うこともできるであろう。私を連れ戻したのは、やはり小林秀雄であった。私は学生の頃から、学習や読書の基本的な心構えを、この人に負っている。

私はブログ記事というものは、紹介や解説という形で、何かを説明するものでなければならないように感じていた。そして、それがGoogleが定義する、情報の集まりとしてのブログ記事なのである。もちろん、個人の感想や所感といったものにも価値はあるであろうが、ブログの収益化まで考えると、やや心もとない感じがする。

心もとないというが、それだけの理由で、Googleの評価を絶対基準としてブログを運営していくことが不可能であることに、私は気付く必要があったようである。私のブログは今後、雑記ブログに近付いていくであろう。何故なら、私が求めるのは単なる知識の集合としてのブログではないからである。

知識の集合としてのブログは、確実に需要のある運営形態である。Googleは、自身のサーチエンジンが提供するWeb空間を、そのようなコンセプトで整理しようとしているのだから、ブログ運営者も必死である。完全に無視することは不可能であろう。だが、私は単なる知識を求めてはいない。

もちろん、私は単なる知識や、その場だけ必要な情報を求めてインターネットを活用することの方が多いのであるが、それは私の生活上、そう重要なものではなく、私が本を読んだり、映像資料を求めたりするのは、その延長ではない。全く別の精神生活上の要求に基づくのである。

私はそのことを、小林秀雄の『読書について』(中央公論新社)を読み返している内に思い出すことができた。知識の集合としてブログを運営することは、一般的に考えられている需要を満たすかもしれないが、私の需要は満たさない。すると、私は何のためにブログを運営しているのか、すぐに分からなくなる。分かりやすい道理である。

では、どのようなブログが、私の需要を満たすのか。更に言えば、私自身の需要を満たすならば、それが、そのまま私の読者の需要をも満たすことに繋がると思っているのであるが、そのことは偏に、このブログが、我々の内の、本当の教養に作用するブログとして機能することによって、実現するのである。

小林は、「文化について」の中で、「文化」という言葉について説明している。すなわち、「文化」という言葉は元々は漢語で、武力による統治に対して、教育による統治のことを言うのであるが、これが「culture」という西洋の言葉の訳語とされてしまったのである。

西洋人にとって、「culture」という言葉は本来、全く別の意味を持っている。彼らの語感からすれば、この言葉は「栽培」のイメージを持つのである。「culture」は土や肥料であると言えるとすれば、その土壌の上に、様々な芸術上の作品その他が生まれる。そして、それらがまた新しい肥料となると言えるかもしれない。これが、文化という実体ないし現象である。

そして、「culture」は「教養」とも訳されると、小林は言う。

カルチュアという言葉は、日本では又教養とも訳されていますが、例えば、僕がどんなに多くの教養を外部からとり入れても、それがもし僕の素質を育てないならば、僕は教養人、文化人とは言えないという事になります。つまり僕の中に僕の人格を完成させる可能性があるという仮定の下に僕という人間の栽培は可能なわけである。

小林のこの考え方は、真実を掴んでいると同時に、一つのロマンであると、私は感じている。すなわち、我々は文化に栽培されるだけでなく、自分自身を、自らの手で栽培することが可能なのであると。もちろん、方向性から逆算して題材の取捨選択をしている限り、それは知的に合理化された人格像に向って行くに過ぎなくなるだろうが、「栽培されたい」という精神の欲求がある限り、そう神経質になる必要もないであろう。

だから、このブログは、様々な書物その他の力を借りた、私自身の自己栽培と息を合わせたものでなければ駄目なのである。私がやりたいのはそれで、ブログらしいブログを一つ新たに作りたいわけではない。

そういう意味で、今回の記事は、Googleの評価上「あってないようなもの」であろうとも、私の自己栽培の過程を記すものとして、全く無意味であるとは言えない。もし、この記事の延長線上に、自分と読者の需要を満たすに足る記事があるのだとすれば、その時こそ、私の自己栽培は、一つの具体的成果という果実を得たことになる。

栽培はロマンであるが、簡単ではない。私たちは単なる知識の羅列を、教養の表現であると錯覚しがちであるし、他人に示して理解されやすい分、虚栄心から、自分自身を胡麻化すことさえ少なくないからだ。

言うまでもなく、我々は情報社会に生きている。情報は多ければ多い程あり難いと思われている。生活の実用的な場面では、それは正しい。

しかし、我々の精神生活という面では、それは厄介な問題でもある。我々は知識の膨大さに圧倒されるだけでなく、その取捨選択の仕方すら分からないでいる。そして、一つ知識を増やすだけのことにも、乱暴な自負を養わずにはいられない現代人の心理的傾向も、一面では、そのような状況から理解できるであろう。

私は、栽培の果実を急ぐことを諦めよう。その代わり、土と肥料とを準備して、自己という畑を耕すことに集中しよう。このブログは過程であって結果ではない。それは人生というものが最後まで過程であることと同じである。急ぎ得た結果など、どうせ私自身が納得できやしない。

自己栽培というアイデアは学生時代以来、常に持ち続けているものであるが、本当にそれだけに集中できたことはない。やはり、単に何かを知っている、知らないということが気になるのである。

私もあと数年で三十になる。それまでには、もう少しだけでも、自分に自信が持てるようになりたいものだと思う。その自信を特別に個性などと呼んでみる必要がないと分かったのは、ようやく最近になってからのことである。

 

2. 参考文献

小林秀雄「文化について」『読書について』(中央公論新社