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中島敦「山月記」あらすじ・解説【李徴はなぜ虎に?】【尊大な自尊心】

中島敦「山月記」のイメージ画像として白い虎

 

この記事では中島敦「山月記」について、李徴はなぜ虎になったのか、という問題を中心に解説していきます。

李徴が直面した深刻な自意識の問題について理解していきますので、最後までお付き合い頂ければ幸いです。

なお、中島敦の人物(生涯や思想)を知ることのできる記事もあります。以下の記事も併せてご参照下さい。

 

よく分かる「中島敦」【生涯/思想】 - Rin's Skyblue Pencil

 

(1)あらすじ

優秀な李徴(りちょう)は若くして官吏の職を得ましたが、低い位に甘んじることができず、詩作の生活に入りました。それは、李徴が詩によって後世に名を残すことを望んだからです。

詩作に生涯をかけた李徴ではありましたが、李徴は思うように成功できず、追い詰められて容貌も険しくなりました。詩作に絶望した李徴は、とうとう妻子の生活のために地方官の職に戻ります。

しかし、李徴は、自分が詩作をしていた間に昇進した、かつて李徴が侮っていた人間たちの命令を聞くことが堪えられず、ますます憤りを強めました。

仕事で旅に出た時のある夜、李徴はついに発狂しました。そして、ある声を追って無心に駆けた李徴でしたが、気が付けば、彼は虎になっていたのでした。

李徴は虎になった自分を恥ずかしく思い、人間であった頃の自分を後悔しますが、李徴の人間としての意識は日に日に短くなってゆきます。

李徴は長い時間を費やしながら詩で成功できなかったこと、そのために正しい努力をしなかったことを、嘆き泣き、吠えるのでした。

 

(2)解説:李徴はなぜ虎に?

ここでは、李徴はなぜ虎になってしまったのかという問題を中心に、作品を解説していきます。これは、多くの読者が勘付いているように、李徴の人間であった頃の性格や行いが関係していると考えられます。

李徴は優秀な人間でした。見た目も美少年であったとあります。そんな李徴は若くして官吏の職を得るのですが、周りの人間は凡才に見えて、彼らと交わることが気に入らなかったようです。

特に、「膝を俗悪な大官の前に屈する」ことを潔しとしなかったことから、位の低い官吏の職を止めて、詩作の生活に入りました。ただ、官吏の仕事というのは、務めた年数によって位が上がっていくのが普通なので、李徴はそれを待つことができなかったということになります。

李徴は詩作が思うようにいかず、絶望します。後に登場する李徴のかつての友人・袁傪によれば、李徴の詩は優れているには優れているが、どこか惜しいところがあって、第一流には届かないようです。

袁傪は「非常な微妙な点に於いて」欠けるところがあると感じていますが、おそらくそれは、李徴は頭がいいので、綺麗で整った詩を作ることには長けてはいるが、詩情とでも言うべきもので心を打ってくる性質にやや欠けている、ということでしょう。

とにかく、李徴は周りの人間を侮って交わることを嫌い、詩作で自分を追い込んでいきますが成功せず、復職した先では、李徴が軽蔑する人間たちに命令されるので反発を強めていって、最後には発狂、虎になります。

ここまで見てきた李徴の性格や行いから、何か、他人を軽蔑する心が李徴を虎にした原因だったのではないか、と考えてみることもできます。他人に反発する心が、虎という猛獣の姿に投影されているということです。

ただ、李徴の心理はもう少し複雑であったらしいことが説明されています。実は、李徴が虎になった原因については、李徴自身が一つの解釈を示してくれているので、今度はその説明を中心に確認していきましょう。

李徴は以下のように言っています。

人間であった時、己(おれ)は努めて人との交(まじわり)を避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといった。実は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。

これは中々、分かりやすくはないことを言っています。

他人から見て、李徴が人に交わらないことは、李徴が自分を誇り、うぬぼれ、他人を見下しているからだというようにしか見えません。しかし、李徴はそれを「羞恥心」のためと言っているのです。

他に、李徴は「臆病な自尊心」や「尊大な羞恥心」という言葉を使用しています。これらの言葉は同じ意味であると考えられますが、これらは、李徴にとって一体どういう意味を持っているのでしょうか。

李徴は人間であった時の自分を振り返って、こう反省しています。

己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。

引用が少し難しいですが、要するに、李徴は自分に才能があることを半ばは信じているので、凡才とは交わりたくなかったが、もう半分は自分に才能がなかったらどうしようと恐れていて、そのことをはっきりさせたくないので、努力を怠る部分もあった、ということです。

なお、上記の引用をより詩作と関連付けて説明している部分があります。少し前の部分なのですが、

己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。

併せて解釈すれば、李徴は自分の才能が優れていると思うので、凡才の詩友などとは交わりたくなかったが、自分の才能の不足を恐れている部分もあって、実は師匠を求めなかったり、詩友と切磋琢磨しなかったのも、決定的な現実を突きつけられたくなかったからなのだ、ということになります。

となると、李徴が孤立していたのは、確固として自分を信じていたからではなく、半ば自分の才能を疑っていたので、才能の不足が露呈することが恥ずかしく、自然と他人を遠ざけがちになっていたからだということが分かります。

李徴はこれを「臆病な自尊心」や「尊大な羞恥心」と呼んでいるのですが、李徴はそうやって他人から遠ざかる内に、「噴悶と慙恚(ざんい)とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった」と言っています。

つまり、自分を信じようとしても信じきれないことから恥や怒りの気持ちが湧き募ってきて、それによって更に頑(かたく)なになり、頑なになればなるほど、他人に自分の実力が露見することが怖くなったのでしょう。

これが、李徴が臆病な自尊心を「飼いふとらせ」ていった過程です。

そして、李徴は「この尊大な羞恥心が猛獣だった」と結論しています。すなわち、李徴は自分が虎になった理由を「尊大な羞恥心」(あるいは「臆病な自尊心」に求めているのです。

李徴の心の中にある自信のある部分と、自信のない部分とが絡まり合って「尊大な羞恥心」となり、それが「妻子を苦しめ、友人を傷つけ」ました。虎は、そのような自分の内面にふさわしい姿だと、李徴は感じています。

李徴は虎になってしまった現状をこのように理解しています。李徴は李徴で、自分で自分を追い詰めるようにして、人知れず苦しんでいたのですが、自己解決する前に、運命が李徴を虎にしてしまいました。

これを李徴への罰なのだ明言してしまうと、少々李徴に対して厳しすぎるようにも思われるのですが、では、虎になって李徴は何か変わったのでしょうか。これは、私の見る限りでは、李徴は根本的には変わっていません。

例えば、こんな台詞があります。

己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。

これは、李徴が師匠に就いたり、詩友と交わって努力しなかったことを反省して言っているのですが、厳しく言えば、結局李徴は自分を高みに置いて、他人を低く見積もる傾向を捨てられていません。

すなわち、たとえ凡人だったとしても、一心に努力をする人間に対しては尊敬を感じるような、そういう気持ちは李徴にはありません。

自分の才能が優れていると確信することは、これは間違いではないですが、李徴は結局のところ凡人を見下しているので、そういう人間が師匠に就いたり、詩友と交わったりすることは難しいです。

虎になっても、李徴はそういうことには気が付きません。

虎になってまでも、未だに詩の成功を、自分の才能を見せつけることと同じように考えているのであれば、その嘆きはあまり、我々の同情を引かないと言ってしまうこともできるでしょう。

最後まで、李徴の心の中心にあったのは「才能」です。李徴の「自嘲癖」も、そういう暗い気持ちの表れであって、李徴は自身の性格や行いを、心から反省しているわけではありません。

虎になっても、李徴はあまり、人間として変化してはいないのです。

虎になった李徴は、詩作に長い時間をかけたのにも関わらず、全て無駄になったことを嘆いて、一人吠えます。しかし、獣たちはそれを恐れ、ひれ伏すばかりで、誰も李徴の気持ちは分かってくれません。

李徴は人間であった時から孤独でしたが、虎になり、もっと孤独になりました。

虎になるという結末は、運命が課した皮肉と言えるかもしれません。虎は、李徴がかつて望んだ自身の姿であるとも言えるからです。

しかし、李徴はその皮肉の意味合いを全て理解しているわけではありません。

全く何事も判らぬ。理由も分からずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分からずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。

李徴はこのようにも感じています。同情的に見れば、李徴は非常に悲しいうぬぼれで心をいっぱいにしているのだと言えます。その悲しさは、李徴のうぬぼれが、おそらく彼の望むような形では決して満たされないところにあります。

しかし、李徴は自分の「才能」を中心にしてしか、考えることも、嘆くこともできないでいます。そして、それはなかなか共感を生まないのですが、李徴はそのことに気付くことができません。

虎は明け方の月を仰いで、二三度吠えると、元の草むらに飛び込んで、再び姿を見せることはなかった、と物語は結んでいます。

 

(3)参考文献

中島敦「山月記」『李陵・山月記』(新潮文庫)

 

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