今回は夏目漱石「夢十夜」の解説です。
この記事はRinの<高校生でも分かる!>シリーズの第5回目です。このシリーズでは高校生のみなさんが作品を理解するお手伝いを目的としています。
この作品は小説でも評論でもなく、漱石の見た夢が第一夜から第十夜まで一夜ずつ語られております。これらが本当に夢の内容そのままだとは私は思っておりませんが、作品を読んでみると、確かに夢のように、輪郭のぼんやりしたところがあって、独特の味わいを感じさせるようです。
この作品に関して、たった一つの、確定的な読み方というものはありません。色々な角度から多くのことが言える作品と言うべきでしょう。ですから、読み方としては、みなさんはしっくりきたところから想像力を広げていけば大丈夫です。
とはいえ、作品全体を貫く「前提」のようなものはあるのではないかと、私は思っております。みなさんは今回の記事を、そういう読み方もあるのだな、というくらいの気楽な気持ちで読んでみて下さい。
それでは、解説に進んでゆきましょう。
1. 一つのキーワードで解説!
私がこの作品の読解の鍵として設定する言葉は「思った通りじゃない」です。
これは、主観の主体である漱石がぼんやり世界を眺めている時に、常に漱石の腹の底にある「何か」です。
ここで「何か」というのは、これが気持ちとも、感情とも、実感とも、はっきりとは言い表しがたい、「何か」としか表現しようのないものだということです。
心理には違いないので、気持ちでも、感情でも、実感でも、言葉としては近いように思いますが、これらの「言葉という枠」にはめてしまえば、その「何か」はきっとどこかへ消えてしまうでしょう。
何かを語ろうとして、言葉にしてみたら、たちまち実感として消えてしまった、という経験はみなさんにもあるのではないでしょうか。
この作品の中で、漱石はいつもぼんやり世界を眺めているわけではありません。時には自ら行動もしております。例えば、第二夜では夢の中で、漱石は侍として無の境地に到達しなければならないと焦っています。
このような場合には「思った通りじゃない」という言葉は少しだけ拡張することができます。
①「思った通りじゃない」→ぼんやり世界を眺めている時
②「思い通りにならない」→行動や願望が実現しない
私がより万能の鍵として設定する言葉は①「思った通りじゃない」ですけれど、場合によっては②「思い通りにならない」という言葉で理解すべき時もあり、この場合は「憤り」と言い換えてもいいものです。
さて、①「思った通りじゃない」と言いますけれど、一体何が思った通りじゃないのでしょうかか。
言ってしまえば何もかもです。目に映る限りの全て、思い出せる限りの過去、想像できる限りの未来、人、時間、時代、自分自身、漱石にとって、何もかもが「思った通りじゃない」のです。
そんな漱石はわがままと言えばいいでしょうか。あるいは、そうでしょう。漱石は現世的な活動意欲の抜けた夢の世界を描いているのですから、根本的なところでは、何にも興味がないのです。
ここで、一体何が①「思った通りじゃない」のか、また、②「思い通りにならない」のか、参考までに、第一夜から第十夜まで整理してみましょう。
- a) 時間(第一夜、第六夜)
- b) 期待・願望・祈り(第二夜、第四夜、第五夜、第九夜)
- c) 人の恨み(第三夜、第十夜)
- d) 時代(第六夜、第七夜)
- e) 生活(第八夜)
全てを解説すると煩雑になりますから、上記の中で最も根源的とも言える、時間について取り上げて、考えてみましょう。
時間に関しては、漱石はぼんやり状態を超えて、明確に憤りを感じていると言ってよさそうですから、漱石は時間を②「思い通りにならない」ものと感じているのだと理解してみましょう。
確かに、時間とは思い通りにならないものですね。
みなさんの生活で言えば、みなさんはまず、起きなければならない、出かけなければならない、席に着かなければならない、帰らなければならない、課題をしなければならない、そして寝なければならない、他にも、すべきことがあればしなければならない。
みなさんは色々なことを順番にこなすために、時間をいちいち区切って生きなければなりません。そのように忙しく生きなければならないことに、時々はアンニュイな気持ちになったりはしないでしょうか。
時間の区切りの、最も厳しいものは「死」です。なぜなら、そこで人生は最終的に区切られるからです。より卑近な区切りでいうと、締め切りとか目標期限などの、時間制限は全て分かりやすい区切りです。
人間は「死」をはじめとする区切りを意識すればこそ、日常を細々と区切って、賢く忙しく生きていくものです。それはごく当たり前のことなので、ほとんど気にせずに生きていくことだって可能です。
しかし、漱石のような人は同じように考えません。だからと言って、漱石が偉いわけではないですが、漱石みたいな人は、自分の世界感覚というものに対して、贅沢でわがままなのです。
漱石は「なぜ時間は区切られなければならないのか」というように考えます。
そして、勝手に区切られて、他人や時代に背中を叩かれてあくせく生きる人生は嫌なのです。
第一夜では、区切られた時間の世界に生きる漱石と、区切られない時間の世界に生きる女とが登場します。
第一夜の筋は、女が「死にます」と言うので漱石が看取り、また、女が「百年待ってくれれば、また会える」と言うので、日が昇っては沈むのを何べんも数えている内に百年が経つ、というものなのですが、女の方は、自分に流れている時間の流れに任せて生きているようです。
では、漱石はというと、女が死ぬだろうと分かっていても、何度も何度も「本当に死ぬのか」と聞いてしまいます。このような部分に、区切られた時間を生きている人間のせわしさが見え隠れしています。
そこで、第一夜のテーマを勝手に決めてみるとすれば、それは「区切られない時間への郷愁」だと言ってもいいでしょう。
私たちは、ただ呼吸をして、それが気持ちいい、というような生き方が簡単にはできません。ずっと坐っていたくても、立ち上がらなければならない。そして、歩かなければならない。
自分の中に流れている時間感覚に従って生きることは難しいです。内と外とで流れている時間が全然違うことは明らかなのですから。
しかし、漱石にとって、自分の内部の世界に流れている、その時間の流れだけが本当に美しく、真実なのです。
だから、先ほども述べた通り、目の前にあるものは何もかも「思った通りじゃない」のです。漱石には、現実なんてものは、真実なものではないのです。
この作品が「夢」という形式をとったことは、現実に対する漱石の抗議だったのだろうと思います。しかし、決して時代や社会を批判したもののようには見えません。これはどういうことでしょうか。
おそらく、漱石にとって、そのような外部的状況は確かに「思った通りじゃない」ものだったでしょうが、最も「思った通りにならない」で彼を苛立たせたものは、他ならぬ自分自身だったろうと思います。
2. 私のコメント
自分だけの時間の流れのままに生きることはむずかしい。
嫌になって、夢の世界に飛び込んでみても、少し違うのかもしれないと思ったり。
だって、人は外の美味しい空気がなければ窒息してしまうのだから。
3. 読み方のアドバイス
今回の「夢十夜」のような作品は、評論文と違って、言葉を追っているだけでは何が言いたいのか全然分からないですね。それは、私も同じです。言葉を追いかけるだけではチンプンカンプンです。
だから、心で読んで下さい、と言ったら、みなさんは困ってしまうでしょうか。であれば、言葉が心に引っかかった瞬間を大切にして下さい。それが、みなさんと作品とのつながりです。
作者と読者とは、考え方は違うかもしれませんが、同じ心を持っているということが大前提です。みなさんの心が動いた時、その心は、作者の心に限りなく近づいていると言えるのです。
4. 参考文献
夏目漱石「夢十夜」『夢十夜 他二篇』(岩波文庫)