恥の多い生涯を送って来ました。
自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。
今回は太宰治「人間失格」を解説してゆきます。
この記事はLian(リアン)の<高校生でも分かる!>シリーズの第8回目です。このシリーズでは、高校生のみなさんと一緒に作品を理解してゆきます。
この記事の解説は「人間失格」を読んだことがなくても十分に理解することができます。また、私の読解は参考に過ぎません。色々な読み方をして下さい。あるいは、解説は解説としてお楽しみ下さい。
今回解説してゆく「人間失格」ですが、高校生のみなさんが一度は読んでみたいと思う作品の中でも上位に挙がるものなのではないかと、私は勝手に思っております。三島由紀夫や川端康成のように文章自体が難しいわけではないので、実は高校生のみなさんでも読みにくい作品ではないのですが、ただ、内容的には分かるような、分からないような、といったところかもしれません。みなさんはどう感じるでしょうか。
時々、こういう作品を「人間ロマン」と呼んでみたりすることがあるように思われますが、私などは、そう言われてしまうと、なんだか「地に足ついた結末」を想像してしまいます。つまり、色々な出来事や関わりの中で成長した主人公が最後に立っている感じですね。
ですが、「人間失格」は、とにかく、作者が感じていた「人間社会への疑問符」で構成されているような作品です。その疑問の提出の仕方におずおずとした感じのあるところに、太宰という人間がそのまま表れているように感じられます。
太宰は周りの人間がどこかおかしいと感じていながら、他人に対する思いやりの気持ちも強かったので、あまり一方的に強く、断定的に否定することができないのです。それで、自己批判的に生きていたんですね。
実は、この作品は「暗い」とか「ドロドロしている」とか、そういった言葉では上手く表現することができません。「悲惨」という言葉ですら、何だか全てを語り尽くしていないように思われます。というのも、この作品には不思議と澄んだ空気のようなものが底に流れています。澄んだ悲しみと言ってもいいかもしれません。
さて、その理由は、作品の本当の最後、昔京橋でバーをやっていたマダムが主人公の葉蔵を振り返って言うセリフに、全て言い尽くされているように思われます。
私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした。
1. この作品のあらすじ
幼い頃から他人を恐れていた葉蔵は、他人との関わりでは道化を演じなければ不安で仕方がありません。それは中等学校でも、高等学校でも変わらず、その不安に葉蔵は生涯苦しまなければなりませんでした。
元々絵描きになりたかった葉蔵は、高等学校の頃からお酒を飲み歩くようになり、次第に生活が荒廃していきました。そして、カフェで知り合った女性と情死事件を起こしたりして家族からも見放され、仕送りを失った葉蔵は貧困にも苦しむことになります。そこで、葉蔵は自分に生活能力がないことを思い知ります。
葉蔵はお酒と女性関係で苦しみ続けますが、最後には薬に頼らないでは仕事ができなくなってしまい、ついに関係する人間に精神病院につれていかれ、入院させられます。このことで、葉蔵は「人間、失格」という烙印を押されたように感じました。
退院後の葉蔵は田舎のボロ屋で(自分が言うには)廃人のようになり、幸福も不幸もない、全てがただ過ぎ去っていくような心境で日々を送るのでした。
2. 一つのキーワードで理解しましょう。
ああ、われに冷たき意志を与え給え。われに、「人間」の本質を知らしめ給え。人が人を押しのけても、罪ならずや。われに、怒りのマスクを与え給え。
私がこの作品の読解の鍵として設定する言葉は「欠落」です。
主人公の葉蔵に欠落していたものは多いと言えるでしょう。少なくとも、葉蔵が自分でそう思っていたものに関しては。人間を理解する能力とか、生活能力とか、愛情とか、欲とか、誠実さ、度胸、色々なものを、葉蔵は自分に欠けていると感じて、何だか自分は人間ではないような感じがしていたわけですね。
しかし、私が作品を理解する上で本質的だと思っている「欠落」は以上のどれでもありません。それは「腹の底にある不機嫌さ」であると、私は考えます。その不機嫌さは、葉蔵が感じるには、人間を人間たらしめているもので、社会生活を営む上で、絶対に必要なものなのでした。葉蔵にはそれが欠落しています。
葉蔵には、幼い頃から、人間が腹の底に不機嫌さを抱えて「動いている」ように見えていたのだと、私は理解しています。その、他人の動きや言葉の理由が全然理解できないので、葉蔵は怖かったわけです。
もしかすると、みなさんにも思い当たる節があるかもしれません。例えば、ちょっと距離のある他人と話していて、とりあえず、おおむね楽しく話ができていたはずなのに、会話が終わった途端、その人が殺気のようなものを纏い直して立ち去っていくみたいな、そういった光景を不思議に思ったことはないでしょうか。殺気と言うと大げさかもしれませんが、自分と話していない時の他人の、その底に、ちょっと怖い感じを受け取る瞬間ってないでしょうか。
こういった殺気(のようなもの)の突然のオン・オフは、友達より、大人と関わっている時の方が感じやすいかもしれません。そして、幼い時の葉蔵が一番恐れ、もしかすると生涯一番恐れていたかもしれないのは、政治家であった父親です。ザ・大人という感じですよね。しかも、昔の日本人(の大人)は、今よりも厳格なところがあったことを考えあわせなければなりません。
人間はある意味、案外友好的で、話しかければ、結構ニコニコと話してくれたりするものです。しかし、その人が背を向けた瞬間に、何かドス黒いものを感じたりということは、実はよくあることです。みなさんは安心してほしいのですが、それは必ずしも自分が嫌われているとか、そういうことではなく、人間は腹の底ではフワフワ生きていない場合が多いというだけのことです。話が終わると、平常の自分に戻るわけですね。
そのフワフワではない殺気を、私は「腹の底にある不機嫌さ」と呼んでみたいと思います。そして、これは大人としてそれなりに上手くやっていくためには、ある程度必要なものですし、これが全くない人を、私はあまり見たことがありません。他人の中で行動していく上で、この不機嫌さは重要です。混雑した駅とか、満員電車を想像してみて下さい。みんなムスっとした感じがしますよね。その時の同じ精神力のようなものが、どれだけ静かにであっても、腹の底では常に働き続けているものなのです。でなければ、私たちは押しのけられてクタクタになってしまいます。
さて、葉蔵には「腹の底にある不機嫌さ」が欠落しているわけですが、そうなると何が起こるかというと、他人との対立を過度に恐れることになってしまいます。ここで対立という言葉は、みなさんの日常で言えば、ちょっとした「火花」とか「バチバチ」のことだと思って下さい。それすらも、葉蔵には恐ろしいのです。
この「腹の底にある不機嫌さ」はありふれたもので、どこででも発見できるものと言えますが、大抵の人間に関して言えば、自分の腹の底にそのような力が働いているということには無自覚です。無自覚だからこそ、より一層、葉蔵にはそれが恐ろしいのです。だって、急にどう態度を変えて、一体何を言い出すものか分かったものではないのですから。
この恐怖から逃れようとする必死の努力が、葉蔵にとっては道化になるということでした。道化とは、自分はいかにも深刻な気持ちを少しも持っていないかのように振る舞って、お茶らけて、他人を笑わせたりするということです。これは、一見自分の気を紛らわす行為に見えるかもしれませんが、その本質は、相手の方の気を紛らわせることにあります。つまり、葉蔵は相手が相手自身の「腹の底にある不機嫌さ」に気づいてほしくないわけなのです。気づかれると、そこで自分が何を言われるか分かりません。ですから、上手くそれが表面化しないようにしたいのです。
というより、これは私の解釈ですが、葉蔵は他人の不機嫌さをぶつけられるのが怖いだけではなく、他人が腹の底では不機嫌であるということ自体ショックなのです。他人と葉蔵とでは世界観がまるで違うと言ってもいいでしょう。そして、葉蔵は賢いので、幼い時にそのことに気が付いてしまい、無意識的に生きることができなくなってしまったのです。
大人の条件が「腹の底にある不機嫌さ」だとすれば、それが欠落している葉蔵は「純然たる子供」であったと言えるかもしれません。先に引用したマダムのセリフで言えば、葉蔵は「神様みたいないい子」でした。
私は「人間失格」という言葉を、大人の傲慢に対する、太宰の悲しい抗議であると受け止めます。「腹の底にある不機嫌さ」は大人に必ず必要なものかもしれませんが、それがあるからといって、大人が偉いというわけではありません。それに、大抵の大人はその不機嫌さに無自覚です。
最後に、太宰の抗議の、一番頑張った、強く言えた部分を引用して終わりにしましょう。
世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実態があるのでしょう。(…)
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬るのは、あなたでしょう?)
汝は、汝個人のおそろしさ、怪奇、悪辣、古狸性、妖婆性を知れ!
大人の世界は不機嫌さでお互いを認め合っている。とすれば、それはきっと、悲しいものなのでしょう。
3. 私のコメント
葉蔵のもう一つの欠落は「自信」でした。
不機嫌さの一種としての「押しの強さ」とは違う、本当の「自信」です。
葉蔵はその本当の「自信」に、実は一番近いところにいました。
だって、葉蔵には余計なものがなかったのですから。
人間には「静かな自信」が必要なのだと、私は近頃よく感じます。
4. 参考文献
太宰治「人間失格」『人間失格』(新潮文庫)
この記事の引用は全て上記「人間失格」によるものです。
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