1. 読書感想(『何のための「教養」か』)
〇自発的に学ぶ
著者の桑子敏雄氏が東京大学へ進学したのは、1970年のことです。当時は学生がマルクスやレーニンを学んでいて、社会主義や共産主義への共感から、大学を相手に、いわゆる学生闘争を戦っていました。
大学闘争が落ち着くと、当時の闘士達はやがて企業戦士として、資本主義の枠内で生きていくことになりました。このような、思想的に変わり身しやすい日本人の傾向を目の当たりにして、桑子氏は疑問を感じていたようです。
桑子氏が研究の対象にしているのは、主に人間と自然環境との関係ですが、桑子氏は学生時代の学習を、ギリシア哲学から始めました。
西洋の古典哲学を研究するためには、ラテン語とギリシア語を学ばなければいけないのですが、そのギリシア語の初級のテキストの例文で出会った言葉が、桑子氏の座右の銘となったそうです。
それは、ディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』が、アリストテレスの言葉として伝えるもので、「教養は幸運なときには飾りであるが、不運のなかにあっては命綱となる」という言葉です。
この一文の、「飾り」については、桑子氏は「心を輝かせる飾り」と言い換えているのですが、私は少し違って、教養は順風満帆な時には、その人の信頼や威信に関係してくるという、対社会的な意味に解釈しました。
桑子氏によると、文中の「命綱」とは、ギリシア語で「カタフィゲー」であり、「避難所」という意味があるそうです。
つまり、順風満帆の時には一種のステータスとして、人を輝かせる教養ですが、逆境に直面した時には「避難所」となって、その人を根底から支えてくれると言う意味になるのだと思います。
私がこの一文中で一番興味を感じたのは「教養」の部分で、これはギリシア語では「パイデイア」と言うのだそうです。
この単語は「子どもを育てること」を意味するのですが、それは大人が一方的に子どもの教育をすることを言うのではなく、子どもが自分自身の興味関心から、自発的に学ぶことを意味しています。
桑子氏が別の箇所で指摘していることでもあるのですが、日本の科学研究者は、海外の学会や懇親会に参加すると、海外の研究者から日本文化についての質問を受けることがあります。
しかし、多くの研究者がそれに答えることができないので、科学系の研究者も日本文化について、教養として学ぶ必要がある、という危機意識があります。同じような危機意識は、ビジネスの世界にもあると思います。
ただ、教養は自発的に求め、知的好奇心を満たしていくものだと考えると、恥ずかしくない程度の教養を積まなければならないという焦りは、教養の本来的な趣旨に反しているとも言えます。
リベラル・アーツという言葉がありますが、「リベラル」とは「自由」の意味で、教養は人間を自由にしてくれるものだという認識が、古代ギリシアの時代から現代まで一貫してあります。
自由になるということは、例えば、知識や認識の限界を破って、より広い視野を手に入れるということだと思います。視野が広がれば、思考の狭さと偏りから解放されることになるので、よりよい認識と判断を得られるのです。
そうなると、恥ずかしくない程度の教養を得なければならないという焦りは、それ自体が情報の取捨選択における枠組みを勝手に決めてしまうものになりかねず、私は大きな問題の一つと考えます。
桑子氏は教養を木の根っこに例えています。根っこが太ければ、それだけ逆境における強さを発揮することができます。しかし、人それぞれ、根っこを太くする方法は異なるかもしれません。
そのため、一般教養を広く浅く学ぶだけではなく、「これだ!」と思える何かを発見することが、私たちの教養には不可欠です。
現代人が教養に関して焦りを感じることはよく理解できるのですが、パッケージ化された一般教養を、更に浅くしたような知識を得ても仕方がないので、私たちは自分自身の好奇心を大切にするべきだと思います。
〇思慮深さ
桑子氏はアリストテレスから座右の銘を得ただけではなく、人間の持つ知性の二つの区分について教えられたそうです。
これは、すなわち、ソフィアとフロネーシスのことで、ソフィアとは、「自然の必然的な法則性を認識する能力」を意味します。そのため、ソフィアは自然科学に関係深い知性であると言えます。
一方、フロネーシスとは「人間が自らの行為を選択することのできる能力、すなわち善をめざし、よりよい行為を選択することを可能にする能力」であると、桑子氏は説明しています。
桑子氏はフロネーシスを「思慮深さ」と訳しました。
人間は選択を行うことで、自然環境や、自分自身の置かれている環境を変え、未来を創造することができます。
それは、人間が生きて行く上での前提となる能力なのですが、選択は必ずしも好ましい結果をもたらすとは限りません。
しかも、東日本大震災の時の、東京電力福島第一原子力発電所の事故で多くの人が学んだように、私たちの選択は、多くの人間や生物の生命に計り知れない影響を与える可能性があります。
私たちの未来も、地球の将来も私たち人間の選択によって形作られてくるので、いつも正しい選択をすることは難しいと言いつつも、私たちが大きな責任を有しているという事実は変えられません。
桑子氏は以前、「生命の科学と生命倫理」というオムニバス形式の講義を行ったことがあるそうなのですが、ある教授はその講義で、以下のように言ったそうです。
すなわち、「若者たちは、自由に研究を行い、それに喜びを感じればよい。研究にとっては、倫理は手かせ、足かせだ。研究の成果をどのように使うかは、倫理の先生と社会に任せればよい」のだそうです。
あまりにも時代遅れと、一笑に付すこともできますが、問題はそういうことではないと考えてみましょう。
科学の研究者にしろ、ビジネスマンにしろ、一人一人の選択が飛んでもない結果をもたらすこともあり得ます。「思慮深さ」を身につけることは、これは責任の面でも、実は自分自身を守ることに繋がるのだと言えます。
誰も自然を破壊したいとか、生物の生命を脅かしたいとは思っていません。科学技術が自然や社会に与える影響が注目される中で、自分の研究や選択がどのような影響を持つかという問題を無視することは難しいでしょう。
すると、先の教授の割り切ったような発言は、実は学生の不安に正面から答えたものにはならないと言わざるを得ません。
少し話が変わりますが、興味深いお話が、朱子学に関してあります。
朱子学というのは、十二世紀の朱熹(しゅき)という人物が、孔子以来の儒学と易学を融合して創始した学問で、日本には鎌倉時代に伝来し、江戸時代には武士階級が学ぶべき学問とされました。
朱子学、あるいは儒学には「仁」という中心的な言葉があるのですが、これまで、私は親孝行や主君に対する忠義に関係する言葉だと思っていました。
しかし、桑子氏によれば、「仁」とは「ひとの不幸を見過ごすことのできない心」のことを言うのだそうです。
また、その心の根底にあるのは、「すべての生きているものに対する、生きていることへの共感」なのだと、朱子は考えたそうです。
朱子学では、天地(宇宙)には「生生(せいせい)」の働きがあって、人間の生命もその「生生」の働きによるものだから、天地の働きをよく理解し行為することで、よりよく生きることができると考えます。
天地の「生生」の働きが何か、ということは難しい問題ですが、しかし、「すべての生きているものに対する、生きていることへの共感」という考え方は誰にでも理解できるものだと思います。
人類の科学技術が、人間の生活や生命に破滅的な影響を与えるかもしれないという危機感は、選択における「思慮深さ」を身につけることを要求しています。
その「思慮深さ」は、以上に見たような、人間と自然に対する、深くて一体感を伴った認識によって、涵養されるのかもしれません。
〇「教養」について
本書のあとがきで、「教養とは、すぐれた選択を導く総合的・統合的な知であり、思慮深さの基礎である」と、桑子氏は結論しています。
人間は多数の選択を行って生きている存在であり、その選択が人間や地球の将来を形作ることになります。そのため、桑子氏は人間について考える時、その選択ということを重要視しているようです。
桑子氏は「教養」を、科学技術と自然環境の問題のように、現代の具体的な課題に取り組む際の「思慮深さ」を養うためのものと考えています。
前回の記事では、林望氏と茂木健一郎氏の対談『教養脳を磨く!』について、読書感想を書かせて頂きました。
両氏はイギリスのケンブリッジ大学で仕事や研究をした経験を持っていて、イギリス流の総合力のあるアカデミズムを高く評価しています。
学問や教養における総合性ということは、最近特に重視される傾向にあります。タコツボ的に一つの学問領域に籠っているようでは、現代の課題についてはまるで太刀打ちできないと思われるからです。
桑子氏は東京工業大学で、文理の融合を目指す大学院改革などに携わっていて、そういった意味でも、学問や教養の総合性を重要視していると言えます。
それだけではなく、教養は専門の下位に立つのではなく、課題解決において主導的な役割を果たす、より積極的なものと捉えています。
古代ギリシアでは、「自由」とは労働から解放されていることだったのですが、その一方で、「自由」とは余暇を遊んで暮らすことではなく、社会をよりよいものにするために社会参加することでした。
英語の「スクール」はギリシア語の「スコレー」に由来し、それには「余暇」という意味がありました。古代ギリシア人は余暇を、基本的な言論技術、すなわち、文法、修辞学、論理学を学ぶことに当てました。
その後、ヨーロッパで算術、幾何学、音楽、天文学が加わり、いわゆるリベラル・アーツの自由七科となりました。これは、古代ギリシア的な意味付けで言えば、人が自由人として社会参加するための、基本的な教養でした。
林望氏と茂木氏の対談では、どちらかと言えば、学問的な高みに到達するための総合的な教養について主張されていたのですが、桑子氏の場合、大小様々ある現代の課題を解決するための教養を構想しているようです。
そのため、桑子氏の考える「教養」は、より古代ギリシア的な意味でのリベラル・アーツに近付いていると思うのですが、桑子氏はその意味を、ピーター・ドラッカーの言葉を引用することで具体化しています。
少し長いですが、引用しておきましょう。ドラッカーは、マネジメントとは「リベラルアート」であるということについて、以下のように述べています。
マネジメントは、伝統的に一つのリベラルアートと言われてきたものである。(...)マネジメントを行う人は、心理学と哲学、経済学と歴史学、倫理学といった人文諸科学と社会科学のすべての知識と洞察を自然科学と同様に利用する。しかし、かれらはこれらの知識の焦点を効率性と結果に合わせ、病人を治療し、生徒を教え、(...)(る)のである。
こうした理由で、マネジメントは、ますます人文諸科学が再び認識とインパクトと妥当性を獲得するための訓練となり実践となる。
ドラッカーは以上の引用の中で、心理学、哲学、経済学、歴史学、倫理学などの人文諸科学を学ぶ意義を、組織やプロジェクトのマネジメントという具体的な場面に見出しているようです。
マネジメントにおいて、人は目的達成のために効率的・合理的に考えながら、人文諸科学の知識を活用し、企業であれば企業の目的を果たすのだと定式化することで、ドラッカーは人文諸科学の意義を再認識しているのです。
古代ギリシアではもっぱら、自由人として政治参加することが、教養の意義だったのですが、ドラッカー(あるいは桑子氏)においては、教養の意義は、広くマネジメントの場面に見出されています。
桑子氏は、ダム建設、河川改修、海岸浸食対策、津波災害対策、道路整備、森林管理計画の策定、地産地消といった、様々な問題を抱える地方自治体の、市民を含む合意形成の場に参加し、合意を導いてきました。
そこで、桑子氏はプロジェクト・マネジメントの大切さを学びました。桑子氏は、プロジェクトに参加することで実践的に「思慮深さ」を育成することができ、子どものうちからそのような体験をすることが大切だと主張しています。
以上のように、教養は選択における「思慮深さ」を涵養するものであり、私たちがプロジェクトという形で具体的に社会課題に取り組む際に、教養の力が「思慮深さ」に姿を変えて表れるのだと言うことができます。
2. 参考図書
桑子敏雄『何のための「教養」か』(ちくまプリマー新書)