Rin's Skyblue Pencil

文学・歴史・その他学問に関する記事を投稿していきます!!

よく分かる「宗教改革」【世界史】

記事のイメージとして白い花の画像

 

 

(1)宗教改革

宗教改革とは、カトリック教会や教皇の腐敗を批判し、キリスト教信仰を改善しようとした運動のことです。

後述するように、宗教改革のきっかけは、1517年にルターが免罪符を批判したことなのですが、キリスト教信仰の改善を図ろうとする動きは、中世を通しても見られるものでした。

その早い例が十四世紀の英国人ウィクリフで、彼はカトリック教会を批判し、聖書に基づいた信仰の復活を主張しました。

また、ウィクリフは聖書を英語に翻訳しましたが、これは聖書に基づいた信仰を目指すために必要なことでした。

そもそも当時の識字率自体が低いのですが、更に聖書はラテン語(聖ヒエロニムス訳の聖書)で書かれていて、しかも、これを母語に翻訳すること自体が異端行為とされていました。

すると、一般の農民や市民は自分で聖書を読めないので、彼らは聖職者が教会で言うことの是非を聖書に基づいて判断することができず、言われたままに受け入れるしかありませんでした。

ウィクリフに影響を受けたのが、チェコのフスです。フスもまた、カトリック教会を批判し、聖書をチェコ語訳しました。

しかし、1414年のコンスタンツ公会議(カトリックの宗教会議)において、両者は異端とされました。ウィクリフはすでに亡くなっていましたが、フスは捕らえられて火刑に処されました。

1500年代の宗教改革よりも古い例ではありますが、ルターはフスの著作を読んで感銘を受けていますし、彼らが後世に与えた影響は無視できません。

 

(2)ルター

①免罪符

先に述べた通り、1500年代の宗教改革のきっかけは、ルターが免罪符を批判したことでした。

免罪符というものは元々、カトリックにおける告解の秘跡に関係するものでした。告解というのは、教会で罪を告白し、悔い改めることです。

悔い改めは第一にその気持ちを持つことだと思いますが、中世においては、ある種の教会による罰の形で、悔い改めとしての何らかの行為(巡礼、断食、慈善など)が求められていました。

しかし、次第にその贖罪行為は、免罪符を買うためにお金を出すという形で代替できるようになりました。

ここから、更に告解と悔い改めという本質的要素が消えてしまったものが、ルターの批判した免罪符であったと言えます。

当時の教皇レオ10世はカトリックの総本山サン・ピエトロ大聖堂を改築するため、多額の資金を必要としていました。免罪符はその資金集めの手段だったのです。

そして、実際に免罪符を売って回ったのが修道士たちですが、その最も有名な修道士がヨハネス・テッツェルです。

テッツェルによれば、免罪符を買うためのお金を箱の中にいれて、チャリンと鳴ったその瞬間に、煉獄にいる魂が一つ救われるのです。

煉獄はカトリックの教義の一つで、死後、天国にいく少数の人々と、地獄にいく人々の他はみな煉獄にいくことになります。そして、煉獄の浄化の炎で清められてから、天国にいくことができます。

中世の人々は煉獄を恐れてもいましたから、免罪符を買うだけで徳となり、煉獄にいる時間を短くできるというテッツェルの宣伝は願ってもないものでした。

これを批判したのがルターの「九十五カ条の論題」(1517年)で、ルターはこれをヴィッテンベルクの教会の門に貼り、議論を求めました。

意外なことに、免罪符の拡大解釈に関しては、かなり早い段階で教皇レオ10世も誤りを認めて解釈を訂正しています。

また、ルターの方も、最初から教皇を痛烈に批判していたわけではなく、あくまでも免罪符を売っている修道士を批判するという立場でした。

しかし、ライプチヒ討論会(1519年)でカトリックのヨハネス・エックと論争した際に、ルターは教皇を批判するはめになり、徐々に後戻りできないような状況に追い込まれていくのでした。

 

②破門

教皇レオ10世はルネサンスを代表する教皇でもあり、基本的には寛大、あるいは余裕のある人物でした。

ルターに関しても、放っておけば自説を撤回すると思っていたようですし、ドイツの動きに関しても楽観していました。

しかし、ルターが教皇批判を強めたので、1520年に破門を予告、翌年にはルターを実際に破門しました。

同1521年、神聖ローマ皇帝カール5世はルターに弁明の機会を与え、彼をヴォルムス帝国議会に呼びました。しかし、ルターは自説の撤回を拒否したため、カール5世はルターを帝国追放刑としました。

そこで助け舟を出したのが、ザクセン選帝侯フリードリヒでした。選帝侯はヴォルムスからの帰り道でルターを連れ去り、持ち城であるヴァルトブルク城に匿いました。

ヴァルトブルク城におけるルターの活動で重要なことは、ルターがここで聖書をドイツ語訳したことです。

この頃、活版印刷の技術が実用化されるようになってきており、先の「九十五カ条」やルター訳聖書は大いに普及しました。

また、ルター訳聖書にはザクセンの官庁で使用されていたドイツ語が使用され、近代ドイツ語の原型になったと言われています。

なお、ヴァルトブルク城のルターの部屋には、聖書翻訳中に現れた悪魔に投げつけたインク壺のインクの跡が残されているそうです。

 

③宗教改革派

歴史の流れを追うのを一旦止めて、ここで宗教改革派の主張を簡単に確認しておきたいと思います。

ちなみに、一般的には宗教改革派全般を「プロテスタント」と言いますが、歴史的に言えば、プロテスタントとは、狭義にはルター派を指すと考えます。

宗教改革派にも色々あり、後述するツヴィングリ派やカルヴァン派もあります。カルヴァン派は特に影響力が強く、フランスではユグノー、イギリスではピューリタンと呼ばれるようになります。

この記事では混同を避けるため、「プロテスタント」ではなく、様々な宗派からなる彼らを「宗教改革派」と呼ぶことにしています。

さて、宗教改革派に共通する基本思想は、次の三思想から成ります。すなわち、①聖書主義(「聖書のみ」)、②信仰義認説、③万人司祭説です。

聖書主義というのは、信仰は聖書に基づき、聖書が源泉であるという考え方です。

聖書主義によって、カトリック教会の聖書に基づかない様々な教義や習慣は否定されました。例えば、カトリックでは聖職者の結婚が禁止されているのですが、それは聖書上の根拠がないものとして、宗教改革派は結婚を認めています。

次の信仰義認説というのは、人は信仰によって義とされ、救われるのであって、救いは行為に基づくものではないという考え方です。

これは、ルターが新約聖書の「ローマ人への手紙」の中に再発見したもので、元々は一世紀の使徒パウロが主張したものです。

普通、人は様々な善行などの行為によって、救われたり、罰されたりすることを考えるものですが、行為によって善をなすことは難しいことです。たとえ、それを求めていたとしても、できるとは限りません。

このジレンマの中で、行為にこだわるのではなく、信仰こそが救いにつながり、信仰のある全ての人が救われ得ると感じた人物がパウロであり、ルターら宗教改革派の人々でした。

行為に重点を置かないので、免罪符という「善行」はもちろん、集団で修業生活を送る修道院も否定され、解体されました。

最後の万人司祭説というのは、聖書に基づいた信仰を持つ限り、全ての人が司祭であるという考え方です。

全ての人が司祭というのはイメージし辛いかもしれませんが、要するに、カトリックの聖職者(司教や司祭)の持つ、宗教上の優越を否定したのです。

言い換えるならば、聖書という正しい信仰の源泉に基づく限り、キリスト教徒に優劣はなく平等であるという考え方で、カルヴァン派では、長老制という教会組織に結実しています。

長老制というのは、教会を監督する長老会を設置し、一般信徒から選ばれた長老たちによって教会の事項を決定するという制度です。みな平等の一般信徒から選ぶという点が注目されます。

カトリックでは、身分的にも宗教的にも優越する司教が教区内の教会を監督することになっており、これと対比して考えてみると、カルヴァン派の長老制の平等主義が理解できると思います。

 

④反乱

宗教改革の思想は諸侯、騎士、都市、そして農民にまで普及しました。

反乱の早い例では、1522年、フッテンとジッキンゲンという二人の帝国騎士が中心となって、騎士の反乱を起こしていますが、諸侯に鎮圧されました。

また、シュヴァーベン地方の農村でまとめられた「十二箇条」の要求では、聖書に基づいた待遇改善が主張されているのですが、ルターはこれを否定しました。

なぜ、ルターがこれに共感を示さなかったかと言うと、ルターは宗教的な事柄と世俗的な事柄を混同することを嫌い、世俗的なことは諸侯が正統的な権力を持っていると考えたのです。

そのため、聖書に基づいて税の軽減を求めるなどといったことは、聖俗の混同で、ルターには認められないものでした。

最も有名な反乱は、ミュンツァーの率いる農民反乱(1525年)です。宗教改革派とカトリックは一致してこれを鎮圧しました。それだけでなく、ルターもこの反乱を批判しました。

ミュンツァーは神学者で、一時はルターの聖書主義に共感しましたが、次第に独自の聖霊主義を主張するようになりました。すなわち、聖霊による直接の啓示を、聖書よりも上に置いたのです。

 

⑤アウクスブルクの宗教和議

ルター派が「プロテスタント」と呼ばれるようになったのは、1529年の第二回シュパイアー帝国議会の決定に対して、宗教改革派が一致して抗議(プロテスト)したからだと言われています。

そもそも、第一回シュパイアー帝国議会(1526年)においては、フランスや教皇に対抗するため、カール5世はルター派に対して暗黙の承認を与えていました。

更に言えば、この頃、オスマン帝国がハンガリーにまで攻めてきていたため、カール5世には余裕がなく、ルター派の支持も必要だったのです。

しかし、第二回シュパイアー帝国議会では、ヴォルムス帝国議会の決定を厳しく履行することとされました。これはすなわち、宗教改革派を弾圧するということです。

ヴォルムス帝国議会の決定を厳しく履行するという方針は、1530年のアウクスブルク帝国議会でも繰り返されました。そこで、翌年に宗教改革派の諸侯・諸都市の参加するシュマルカルデン同盟が結成されました。

カール5世はやはり、フランスや教皇との対立に引き付けられ、思うように宗教改革を攻撃することができなかったのですが、1546年に態勢が整うと、宗教改革派とカトリックとの間に戦争が起こりました。

この戦争はシュマルカルデン戦争と呼ばれます。戦争の直前にルターが亡くなっているのですが、戦争自体も宗教改革派が負けてしまいました。

しかし、この後も、新しくザクセン選帝侯となったモーリッツを中心とする反乱などがあったため、カール5世は弟のフェルディナンドにドイツ統治を委ねました。

そこで達成されたのが、アウクスブルクの宗教和議(1555年)です。

これは、諸侯は領邦内の宗教を、ルター派かカトリックか自由に選択することができるという決定でした。これによって、宗教改革派は一定の勝利を得ました。

ただし、認められていたのがルター派に限られ、カルヴァン派は1648年のウェストファリア条約に至るまで、正式には認められなかったことに注意が必要です。

また、これはあくまで諸侯の信仰の自由であり、領邦内の個々人の信仰の自由ではありませんでした。すなわち、諸侯はルター派かカトリックかを選んだ上、それを領民に強制することができたのです。

なお、ここまでの宗教改革の舞台、神聖ローマ帝国(ドイツ)について、より詳しくは以下の記事をご参照ください。

 

よく分かる「神聖ローマ帝国」【世界史】 - Rin's Skyblue Pencil

 

(3)ツヴィングリ

ここまでの記述では、主にドイツにおける宗教改革を見てきました。ここからは、一転してスイスの宗教改革について述べていきます。

高校などで世界史を勉強したことのある方には、スイスの宗教改革と言えばカルヴァンをイメージする方が多いのではないかと思います。

しかし、実は、スイスの宗教改革の先陣を切った人物はツヴィングリでした。

スイス生まれのツヴィングリはバーゼル大学やウィーン大学で人文主義に親しみ、その後は在俗司祭となりました。なお、人文主義(ヒューマニズム)とはルネサンスの文化運動で、人間の個性や人生を重要視するものです。

人文主義者でもあるツヴィングリはルターだけではなく、人文主義の王とも言われるエラスムスの影響を強く受けました。

特に、エラスムスが1516年に発表した『校訂新約聖書』の序文には、全ての人が聖書を読み、聖書に基づいた生活を送るべきことが書かれており、ツヴィングリの聖書主義の思想的源泉の一つとなりました。

さて、ツヴィングリは1519年にチューリッヒのグロースミュンスター教会で聖書の講解を行いました。これがスイスの宗教改革の始まりです。スイスにおける初期の宗教改革の中心地はチューリッヒでした。

1522年には、ツヴィングリは聖職者の結婚が認められるべきこと、修道院は廃止されるべきことなどを、主張しました。

カトリックでは聖職者の結婚が禁止されていますが、宗教改革ではこれを聖書上の根拠のないものと見なし、認めることにしたのです。これは、宗教改革の聖書主義を端的に表す一例と言えます。

修道院に関しても、信仰義認説に基づけば、救いは信仰によるもので、厳しい修行をすることとは関係がないので、廃止されるべきとされました。

ツヴィングリの活動に対しては、帝国都市コンスタンツの司教から横やりが入り、司教はチューリッヒ当局に断固たる処置を求めました。

司教というのはカトリックの職制上の身分なのですが、当時は一般的に、宗教問題に関してはカトリック教会が監督するものと考えられていたので、コンスタンツの司教が横やりを入れるというのも、別に珍しいことではありませんでした。

ただ、チューリッヒ当局は要求通りには従わず、ツヴィングリの意見を聞くことに決定しました。そこで、公開討論会なるものが開催され、ツヴィングリはここでカトリック教会の信仰上の権威を否定しました。

ツヴィングリの意見は、チューリッヒ当局によって追認される形となりました。これは都市の自治における進歩とも言えます。すなわち、チューリッヒは宗教上の問題でカトリック教会から自立したのです。似たような自立のパターンは、スイスの他の都市にも見られました。

少し進んで、1525年頃と言えば、ドイツでミュンツァー率いる農民反乱を諸侯がカトリックもプロテスタントも関係なく一致して鎮圧している頃です。この頃のスイスの宗教改革は、全体的に見れば、まだそこまで進んでいなかったようです。

実際、1526年にバーデンで開かれた公開討論会では、ツヴィングリ派とカトリックとの間で討論が戦わせられましたが、カトリック優勢で、チューリッヒは一時スイスで孤立しました。

ただ、その後にいくつかの都市が改革派となり、スイスは改革派都市の連合と、カトリックの都市の連合とに分裂することになりました。この対立が戦争化したものが、第一次カペル戦争(1529年)です。

この戦争はすぐに和平が結ばれましたが、ツヴィングリは和平に不満で、改革のためにはむしろ戦わなければならないと考えたようです。

この前後、ドイツのルター派の首領・ヘッセン方伯フィリップの努力で、スイスのツヴィングリ派とドイツのルター派との同盟が模索されていました。

しかし、ツヴィングリとルターはほとんどの点で一致しながら、聖餐(せいさん)論において意見が対立したため、同盟は実現しませんでした。

この聖餐論というのは、ミサにおけるパンとブドウ酒の解釈に関する問題です。

カトリックだけではないのですが、キリスト教には、ミサにおいてパンとブドウ酒を口にする聖体拝領という儀式があります。これは、カトリックの7つの秘跡(サクラメント)に属し、重要な儀式です。

カトリックでは、このパンとブドウ酒の解釈について、これらは司祭の祈りによってキリストの身体と血となるという化体説が採用されています。聖書においては、イエスの最後の晩餐の場面に、その根拠があります。

しかし、ツヴィングリ派は司祭の祈りによってパンとブドウ酒が本当にキリストになるという考えには反対で、キリストの犠牲を象徴するものと主張しました。

ルター派はその中間ぐらいの意見で、司祭の祈りに力はないが、パンやブドウ酒にはキリストが共在する(共在説)という、少し理解が難しい主張をしていました。

そのような対立でスイスとドイツの宗教改革派の同盟は実現しませんでした。そうこうしている内に、1531年、カトリック諸都市がチューリッヒに宣戦布告し、この第二次カペル戦争において、ツヴィングリは戦死してしましました。

ただ、この戦争の和平の結果、スイス諸都市における宗教的勢力図の現状維持と、各都市の宗派選択権が認められました。すなわち、各都市は宗教改革を受け入れるか、カトリックを受け入れるか、自由に決定できるとされたのです。

この和平の結果は、ドイツにおける、1555年のアウクスブルクの宗教和議を先どりしたものとも言えます。

しばらく後、スイスの宗教改革の中心地は、カルヴァンのいたジュネーヴに移っていきました。また、ツヴィングリ亡き後のチューリッヒの宗教改革は、ブリンガーという人物が引き継ぎました。

 

(4)カルヴァン

①カルヴァンの改革

カルヴァンが宗教改革を行ったジュネーヴは、ツヴィングリの死後、チューリッヒに代わって、スイスの宗教改革の中心地となりました。

カルヴァン派のキリスト教徒は、フランスのユグノー、イギリスのピューリタン、ネーデルラントのゴイセン、スコットランドのプレスビテリアンとなりました。このことからも、カルヴァンの影響力の一端が伺えるかと思います。

しかし、カルヴァンはスイス人ではなくフランス人で、ルターやツヴィングリのように聖職者であったわけでもありませんでした。カルヴァンは元々は一人の人文学者に過ぎなかったのです。

フランスのピカルディー地方に生まれたカルヴァンは、パリのモンテーギュ学寮で人文主義を学んだ後、オルレアン大学とブールジュ大学で法学を学びました。ドイツで第二回シュパイアー国会が開かれ、ルター派のプロテスタントが形成されていた頃、カルヴァンはまだ学生でした。

人文学者のカルヴァンがなぜ宗教改革に関係するようになったのかについては必ずしも明らかではありません。しかし、どうやら1533年頃にカルヴァンは回心を経験したようです。

その頃のカルヴァンにとって大きな出来事であったのは、パリ大学で起きたニコラ・コップ事件でした。コップはカルヴァンの友人で、パリ大学の学長でしたが、カトリック教会を批判する演説を行ったため、問題となりました。

カルヴァンはこの演説との関係を疑われたため、フランスを脱出してスイスのバーゼルへ赴きました。

また、カルヴァンは直接関係していませんが、翌1534年にフランスで起きた大きな事件として檄文事件があります。これは、フランスの各地で、カトリックのミサを批判するビラが貼り出されたという事件です。

この事件への対応として、当時の国王フランソワ1世は関係者を徹底的に処罰しようとしたため、多くの者が亡命し、スイスなどで宗教改革に尽力しました。

バーゼルにおけるカルヴァンの活動として見逃せないのが、この時に主著『キリスト教綱要』(1536年)を執筆していることです。この書物は宗教改革派の神学を始めて体系的に記したものとして重要です。

その後、カルヴァンはストラスブールへ向かう途中でジュネーヴを訪れました。この偶然の訪問が、カルヴァンの後の人生を決定付けることになりました。

ここで、カルヴァンはファレルという人物に出会います。ファレルはすでにジュネーヴで宗教改革を行っていたのですが、『キリスト教綱要』の著者が訪れているらしいことを聞きつけ、カルヴァンを引き込んだのです。

カルヴァンは半ばしぶしぶながら同意したのですが、市民の生活を宗教的に監督する権限に関して、ジュネーヴ当局と対立し、ファレルと共にジュネーヴを一時追放されてしまいました。

1540年に、またも半ばしぶしぶながらジュネーヴに帰還したカルヴァンは、今度こそ徹底的に宗教改革を実施していきました。彼は長老制の教会組織を整備し、教会によって市民生活を監督しました。

長老制というのは、カルヴァン派の基本的な教会制度で、カトリックの司教や司祭からなる教会組織に代わるものです。長老というのは一般信者の代表者で、長老会という会議体を構成し、牧師と共に教会の事項を決定しました。

カルヴァンはセルヴェ事件において、カトリック・宗教改革派双方の根本教義である三位一体論を否定したセルヴェを火刑に処したり、宗教的に不寛容なところがあったことも指摘されています。

しかし、ジュネーヴでの宗教改革は成功であったと言ってよく、ジュネーヴ市民はカルヴァン派の教会の教育の下、道徳的に高い水準に達しました。

 

②運命予定説

ここで、カルヴァン派を特徴づける最も重要な思想として、運命予定説について説明しておきたいと思います。

これは、全ての人は生まれる前に、救われるか救われないかを神によって定められているので、たとえ善行を積んだとしても、それは神の決定を変えることにはならないという考え方です。

なんだか神も仏もないような考えに見えなくもないですが、人が信仰心を持つということ自体、何らかのきっかけに基づいていたりして、必ずしも自力で成し遂げられることではなく、神の導きのように感じられる、といったことを想像してみると、いくらか理解することができます。

すなわち、信仰心を持てるということ自体が神の導きによるものであると考えることもできるのであって、運命予定説は、このような「神の導き」を突き詰めたものと言えるかもしれません。

しかし、カルヴァンは信仰心を持てていることが救いの証だと言っているわけではないので、どうすれば自分が救われるかどうかを確かめられるか、ということが問題になります。

その回答として、カルヴァンは勤勉に労働に励み、利潤を出すことで、その利潤が救いの証になると主張しました。

この主張に革命性を見出したのが、ドイツの社会学者マックス・ウェーバーです。ウェーバーは、勤勉と利潤が資本蓄積に結び付いたことで、後の資本主義の前提が作り上げられたと考えています。

ルターはすでに、労働は隣人愛の実践であり、重要であると考えていました。カルヴァンはこれを更に発展させ、利潤というものを宗教的に忌避せずに、肯定的に捉えられるようにしたのです。

 

(5)ユグノー戦争

ドイツで始まった宗教改革の波は、スイス・ジュネーヴのカルヴァンを経由して、カトリックの伝統の強いフランスにも及ぶことになりました。

フランスの宗教改革派のキリスト教徒はユグノーと呼ばれます。ユグノーという名称の由来は明らかではありませんが、何らかの蔑称であったことは間違いありません。彼らはカルヴァン派の信徒でした。

ユグノーは1598年のナントの王令で一定の信教の自由を得るのですが、彼らが自由を勝ち取るためには、合計8回に渡る内乱を経験しなければなりませんでした。これをユグノー戦争(1562~98年)と言います。

ユグノー戦争はユグノーとカトリックの争いでもあり、また、宮廷での権力を巡る貴族の争いでもありました。

フランソワ1世の時代からユグノーの受難は始まっていましたが、より厳しい弾圧を加えたのは、その子であるアンリ2世(1547年即位)でした。彼は、裁判なしにユグノーたちを処罰していきました。

更に、アンリ2世はカルヴァン派の中心地であるジュネーヴへ攻め入ることを目論みますが、1559年に競技中の事故が原因で亡くなったため、ジュネーヴは救われることになりました。

先にユグノーはカルヴァン派であると述べましたが、実際、フランスの宗教改革はカルヴァンの努力なくしてはあり得ませんでした。

驚くべきことに、1555年以前には、フランスにはユグノーの教会は一つもなかったのですが、1559年には1000以上の教会が建設されていました。その背後にあったのは、カルヴァンやジュネーヴから派遣された宣教師の力でした。

アンリ2世が事故で亡くなくなると、その子であるフランソワ2世が国王に即位しました。

そして、この時に権力を握ったのは、カトリックの首領であるギーズ公フランソワという貴族でした。それには、国王フランソワ2世の王妃の母親が、ギーズ公の姉だったという事情があります。

1560年、ユグノー戦争を暗示するかのような事件が発覚しました。アンボワーズの陰謀です。陰謀なので未遂なのですが、フランソワ2世を押さえ、ギーズ公の勢力を捕まえてクーデターを起こそうというユグノーの画策でした。

陰謀は未然に防がれましたが、この事件を境として、カトリーヌ・ド・メディシスと宰相ロピタルは、ユグノーへの宥和政策を進めていきます。また、フランソワ2世は陰謀発覚の年の末に亡くなり、弟のシャルル9世が即位しました。

カトリーヌはアンリ2世の王妃で、皇太后として、シャルル9世に代わって政治的権力を握りました。彼女の子が順番に、フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世として即位していきました。

カトリーヌはフィレンツェのメディチ家の娘です。アンリ2世との結婚はいわゆる政略結婚でした。すなわち、アンリ2世の父フランソワ1世はイタリア政策の都合で教皇に近付くべく、メディチ家との婚姻を決めたのです。その時の教皇はメディチ家出身のクレメンス7世でした。

高校で世界史を勉強した方にとって、カトリーヌは後述するサンバルテルミの虐殺のイメージが強いのではないかと思いますが、基本的に、彼女はユグノーには宥和的な姿勢を示してきました。それは、大きな権力を持つギーズ公の勢力を牽制するために必要なことだったのです。

ただ、そのギーズ公の勢力は宥和政策に不満であったらしく、1562年、日曜日の礼拝中のユグノーを襲撃するという事件を起こしました。これが、ユグノー戦争のきっかけとなりました。すなわち、ユグノーもこれに対抗して蜂起したのです。

この第一次ユグノー戦争は翌年に終結しましたが、その過程で、カトリックの首領であるギーズ公フランソワと、元々ユグノー側でしたが、寝返ってカトリック側についていたナヴァール王アントワーヌが亡くなりました。

少し進んで、1572年、カトリーヌは娘のマルグリットと新たにナヴァール王となったアンリを結婚させました。というのも、ナヴァール王アンリが新しくユグノーの首領となったからです。宥和政策は継続というわけです。

このナヴァール王アンリはアントワーヌの子で、ブルボン家出身です。この後にカトリーヌの息子たちが皆亡くなり、ヴァロワ朝が途絶えると、彼がアンリ4世としてブルボン朝を創始し、ナントの王令でユグノー戦争を終結させるのです。

最大の事件は同1572年にやってきました。すなわち、この結婚を祝福するために集まったユグノーの貴族たちを、ギーズ公アンリ(先のフランソワの子)の勢力が虐殺したのです。

不可解なことに、カトリーヌはこの虐殺を事前に黙認していたらしいのです。その理由は政治的なものだったようですが、サンバルテルミの虐殺はカトリーヌの評判を大きく落とすことになりました。

この悪名高いサンバルテルミの虐殺ですが、迫害の手はフランス全土にも及び、2万人ものユグノーが犠牲になりました。また、国王シャルル9世は良心の呵責で亡くなったとも言われます。ただ、この虐殺はむしろユグノーを刺激し、第四次ユグノー戦争の引き金となりました。

さて、そのシャルル9世が亡くなったのは1574年のことでした。ここで即位したのがアンリ3世で、彼は宗教対立を超えた立場を主張して、ユグノーでもカトリックでもない第三極であることを目指しました。

それにも関わらず、国王は即位から数年の内に三度の内乱を経験することになり、情勢は安定しませんでした。そして、次の大きな対立は王位継承問題でした。

すなわち、ヴァロワ朝最後の王位継承者であり、アンリ3世の弟であるフランソワが亡くなってしまったため、ナヴァール王アンリが王位継承者となったのです。これを問題視したのがギーズ公の勢力でした。1584年のことです。

この戦い(第八次ユグノー戦争)は、ナントの王令の出る1598年まで続くことになりました。この戦いが「三アンリの戦い」とも呼ばれるのは、重要な指導者の名前が皆アンリだったからです(第三極の国王アンリ3世、ユグノーのナヴァール王アンリ、カトリックのギーズ公アンリ)。

この戦いの過程で、まずギーズ公アンリが殺害され、国王アンリ3世もカトリックの修道士に暗殺されて、ナヴァール王アンリがアンリ4世として即位しました。ブルボン朝の始まりです。

即位後、しばらくの間、アンリ4世はパリに入ることすらできなかったのですが、国王は国内の統一のためにカトリックに改宗し、パリに戻って、第八次ユグノー戦争を終結させました。

1598年の内戦終結後、アンリ4世はナントの王令を発布しました。これにより、ユグノーは信仰の自由を認められました。

ただ、実は多少の制限もあり、例えば、パリやその周辺での礼拝は禁止されました。一方で、公職などでの差別はなくなりました。

ナントの王令は約一世紀後、ルイ14世によって撤廃(1685年)されるまで効力を持ちます。ルイ14世はその後ユグノーを弾圧したため、多くのユグノーが国外へ逃亡しました。

ユグノーは勤勉で技術のある商工業者が多かったため、彼らの流出はフランスの経済発展を大きく遅らせることになったとも言われています。

 

(6)英国国教会

イギリスの宗教改革は、ヘンリー8世の離婚問題をきっかけとして押し進められていきました。

当時の王妃はキャサリンでした。キャサリンの父母は、スペイン王国を建国し、レコンキスタを完成させたフェルナンドとイサベルでした。

なお、レコンキスタとは、イベリア半島をイスラーム勢力から奪還する戦いで、1492年にナスル朝を滅ぼしたことで完全に達成されました。

実は、キャサリンは元々はヘンリー8世の兄アーサーの妻でした。アーサーとの結婚は政略結婚で、父王ヘンリー7世が周辺国への対抗上から、スペイン王家と婚姻を進めたものです。

しかし、アーサーが亡くなってしまったため、まだ少年であったヘンリー8世との結婚が決められました。

問題は、キャサリンが王位を継承する男子を生むことが出来なかったことでした。ヘンリー8世とキャサリンとの間には王女が一人いて、彼女は後にメアリー1世として即位するのですが、男子は生まれなかったのです。

キャサリンが歳をとってしまったこともあって、ヘンリー8世は彼女と離婚して、キャサリンの侍女で、国王の愛人のアン・ブーリンと再婚することを望みました。

離婚を進める際に口実とされたのは、キャサリンが元々は国王の兄の妻だったという事実です。

実は、カトリックでは兄嫁との結婚は近親婚になり、禁止されていました。ただ、ヘンリー8世とキャサリンの結婚は教皇が特別に認めたという事情があり、これをなかったことにすることが、ヘンリー8世の目論見でした。

しかし、当時の教皇クレメンス7世は神聖ローマ皇帝カール5世の抑圧下にあったために、離婚を認めることができませんでした。というのも、カール5世の母親のフアナはキャサリンの姉にあたるため、血縁関係から、カール5世に遠慮したのです。

そこで、ヘンリー8世はカトリック教会を頼らず、自力で、すなわち、この問題を国内問題として処理することに決めました。

そのため、ヘンリー8世はまず上告法(1533年)を制定して、国内の裁判が国外の裁判所に持ち込まれる道を封じました。そもそも、離婚自体がカトリックでは禁止されているので、国外で面倒な問題にならないよう図ったのです。

その上で、ヘンリー8世はキャサリンとの離婚を強行し、アン・ブーリンと正式に結婚することになりました。

この時には、すでにアンは妊娠していたのですが、生まれた子は女子で、彼女は後にエリザベス1世として即位することになりました。

続けて、ヘンリー8世は国王至上法(1534年)を制定しました。これにより、国王はローマ教皇に代わって、イギリスの諸教会の首長となりました。カトリック教会からの自立を果たしたのです。

これが、英国国教会の成立の流れですが、一般的に、国教会はカトリックと宗教改革派の中間のようなものであると言われます。

国教会がルター派やカルヴァン派と違うところはたくさんありますが、代表的なところでいうと、国教会においては、司教や司祭から成るカトリック的な聖職者の階層構造が温存されたことが挙げられます。

ルター派やカルヴァン派の国や都市では、カトリック的な司教という役職は存在しないのですが、国教会ではそれをそのまま残したのです。ただ、名称は司教から「主教」に代わっています。主教は国王が任免権を持ちました。

また、ヘンリー8世は心情的にはカトリック的な部分が強かったため、教義の内容の改革には消極的でした。教義面での改革が進められたのは、子のエドワード6世の治世においてです。この少年王は1547年に即位しました。

アン・ブーリンとの結婚にあれだけ力を尽くしたはずのヘンリー8世ですが、彼はアンとも離婚して、新たにジェーン・シーモアという女性と結婚しています。彼女との間に生まれた待望の男子がエドワード6世です。

ちなみに、ジェーンは出産時に産褥熱で亡くなり、国王はその後、更に三人の女性と結婚することになりました。

エドワード6世の治世に宗教改革を進めたのがクランマーという人物で、彼の下で礼拝統一法が制定され、一般祈祷書が制定されました。礼拝時の規則が定められ、強制されたのです。

しかし、1553年に即位した、キャサリンの子メアリー1世は熱心なカトリック教徒だったため、これまでの宗教改革関連の法律を全て撤廃し、宗教改革派を弾圧していきました。また、彼女はカトリックのスペイン国王フェリペ2世と結婚しました。

宗教改革派にとって幸いなことに、メアリー1世が1558年に亡って、アン・ブーリンの子であるエリザベス1世が即位すると、女王は国教会の再建を図りました。

少し意外なことに、エリザベス1世はカトリックを厳しく弾圧しました。宗教改革派の弾圧者で「ブラッディー・メアリー」とも呼ばれたメアリ1世の時と同じだけのカトリック教徒が迫害されたと言われます。

エリザベス1世の治世で大変だったのは、女王が宗教改革としては中庸な部類に属する宗教政策を行っていたために、カトリックだけではなく、より急進的な宗教改革派からも攻撃を受けたということです。

彼らはより純粋(pure)なキリスト教を求めたため、ピューリタンと呼ばれます。イギリスにおける国教徒以外の宗教改革派はピューリタンと言えるでしょう。

ピューリタンには多くの宗派があるのですが、女王の治世に誕生した宗派として特に重要なものとして、トマス・カールライトの長老派と、ロバート・ブラウンの会衆派(分離派)を紹介しておきたいと思います。

どちらも、司教や司祭が温存されているカトリック的な職制(主教制)に反対している点で一致しているのですが、会衆派の方が極端で、全ての個々の教会の独立を主張しています。

これらの宗派が重要であるのは、彼らが半世紀後のピューリタン革命で主役を演じることになるからです。すなわち、後にチャールズ1世を処刑して、一時的にイギリスの王制を撤廃することになるのは彼らであったのです。

ピューリタン革命で特に中心となって戦ったのが会衆派で、護国卿となって独裁政治を行ったクロムウェルも会衆派でした。その長老派と会衆派の起源はエリザベス朝にありました。

 

(7)参考文献

森田安一『図説 宗教改革』(河出書房新社)

黒川知文『西洋史とキリスト教 ローマ帝国からフランス革命まで』(教文館)

山我哲雄『キリスト教入門』(岩波ジュニア新書)

モンタネッリ『ルネサンスの歴史 反宗教改革のイタリア』(中央公論新社)

 

(8)おすすめ記事

よく分かる「神聖ローマ帝国」【世界史】 - Rin's Skyblue Pencil

よく分かる「マリア・テレジア」【世界史】 - Rin's Skyblue Pencil