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【書評】小林秀雄「歴史」の解説寄りの感想です。

この記事のイメージ画像として東京の下町の空撮

 

今回は小林秀雄「歴史」の書評です。

書評という形式を借りて、内容の紹介、感想、解説を兼ねていきます。ただし、今回の作品は本ではなく短い批評文です。これは文春文庫の『考えるヒント』に収録されています。

戦後の民主化、イデオロギー対立、新しい西洋哲学や精神分析学の流入という、思想潮流に翻弄される同時代人の問題を、小林がどのように見抜いていたか、それが一貫して示されている作品です。小林秀雄が同時代の何を苦々しく思っていたのか、よく分かる作品と言えます。

この書評をきっかけに実際にお手に取って頂いても、この書評で満足して頂いても私としては幸いです。お楽しみ下さい。

 

1. 書評

小林秀雄が生きた時代と、我々の生きている時代の、その文脈は重なりつつも、決して同じではないであろう。

小林の生きた時代の文脈を代表する言葉は色々考えられるであろうが、ここではジャーナリズムの氾濫であるとでも言っておこう。すなわち、小林の同時代人たちは、洪水の如く押し寄せる新知識と新しいものの見方に翻弄されていたわけである。

あるいは、彼らは翻弄されているなどとは思わなかったかもしれない。彼らの知性は新しいもの全てを巧みに吸収したし、それを握って、立派に、情熱的に議論することもできたし、運動することすらできたのである。

彼らの情熱を、小林は軽んじてはいなかったであろうが、彼らの知性に対しては、小林はあまり信頼することができなかったようである。それは、彼らが語るものがいつも何かしらの知識であり、決して自己自身ではなかったからである。

この作品のタイトルは「歴史」であるが、歴史について触れているのは、最後のごく短い部分だけに過ぎない。他に正しい題があるとは言わないが、この作品が他のように名付けられていたとしても、決して不思議ではない。

例えば、この作品は「個性」という題を持っていると言うこともできる。

この作品の冒頭では、小林が河上徹太郎の著作『日本のアウトサイダー』を読んだことが触れられている。ここから、小林は「変わり者」という言葉を得る。これが、なかなか含蓄の深い言葉だと言うのである。

我々は、言うまでもなく個性尊重の時代に生きている。これは近代始まって以来の傾向であるが、社会がこのようにまで個人の個性を重要視し始めるには第二次大戦を経なければならなかった。そして、この傾向は益々時代の要求に合わせて、徹底したものになりつつある。

小林は個性とか独創とかいう言葉には、全幅の信頼を寄せることができなかった。それは小林が反個性主義者であったということではもちろんない。個人主義の問題点を難じていたということでもない。ただ、口先だけの個性とか独創とかいう言葉の背後に、生きた人間を見つけることができなかったのである。

変わり者という言葉には、どこかしら、その言葉を使う人間が感じている愛着のようなものが表れている。小林は女房が夫を評して変わり者と言う場合を挙げているが、他に例を挙げるまでもないであろう。こういう言葉の使用法は、我々の日常生活の内にごく普通に見つけられるものである。

ある意味では、変わり者という言葉は含蓄が深い一方、単純であるとも言える。ここでは、含蓄が深いということと、単純であるということとが同義なのである。

このことは個性という言葉と比べてみるとよく分かる。

個性という言葉は複雑である。それは含蓄が深いからというわけではなく、ただ、この言葉からは様々なことが考えられるということを意味しているに過ぎない。自ずから一つの筋に収斂していくような内的充実を、この言葉は持たない。この言葉は雑然とした観念を住処としているようだ。

多彩に現れる個性の調和とは実生活上の問題であって、観念上のものではない。観念上の個性という言葉は、実に雑然とした多彩さを見せている。それは、そういう色に見せたいという様々な主張に過ぎない。これが、それなりに成立しているところに、個性という言葉の欺瞞性はあると言えよう。

誰も、変り者になろうとしてなれるものではないし、変り者振ったところで、世間は、直ぐそんな男を見破って了う。つまり、世間は、止むを得ず変り者であるような変り者しか決して許さない。だが、そういう巧まずして変り者であるような変り者は、世間ははっきり許す。愛しさえする。

小林の時代には、個性という言葉の欺瞞性に縋って、実は裏切られているような人間が少なくなかったのかもしれない。それに比べれば、我々の時代は個性的な人物、ではなく、変わり者たちが至る所で活動を始めて、その価値が一般に認められているとも言えるだろう。

そういう変わり者たちは、個性的であろうとして、逆に失敗する経験を各人持っているに違いない。そして、我々の多くも、そのような経験は人並みに持っている。小林の問題は、ある程度、時代の流れが巧まずして解決してしまったとも言えるのである。

これは、我々の生活がかなりの程度内的になったことが原因しているだろう。我々の社交的な成功も、この内的な生活の充実によって保証されていることを、我々は知らないわけではないのである。

個性という言葉が観念世界の磁気を荒らし回る時代は過ぎたかもしれず、我々は落ち着きを得たかもしれない。落ち着きこそが、変わり者を生む条件でもある。しかし、我々にはやはり実生活だけではなく、観念を求める傾向がある。自分の生活圏に関することならともかく、それを超えたことになると、我々は結局、小林の時代の人間と少しも変わることはない。人間とは元来そういうものだからである。

我々が急場で求める観念は曖昧なものではなく、明確なものである。少なくとも、我々はそれらが明確なものだと信じているから、それを求める。世界像の曖昧さを埋め合わせるために、我々はどんなことをし始めるだろうか。

小林はフロイトの精神分析学に触れている。小林の同時代人たちは人間を理解し、そして、こちらが本題なのであるが、理解したところをあれこれと述べ立てる必要から、心理学を部分的に援用する術を覚えた。人間について理解しているということ、そしてそれを語り尽くすことができるということは、知識人という仮面を被った彼らの自負であった。

自負は結構であるが、彼らが確かに掴んでいると思っているところのものも自負なのであって、人間そのものではない。理論的な頭脳の運動に自負を流し込むことが、ものを考えるとか、何かを知るということに伴う手ごたえであるという勘違いを進んでやり始める傾向が、知識を求める時の我々にはある。これは近代以降変わらない人間的病理である。

そうなってくると、もう人間に対して変わり者という言葉を使うわけにはいかない。個性の乱用である。いや、個性などなくて構わないのである。ここでは、事実と理論とが全てである。我々はただそれに従うだけなのであって、それらを理解する理解力の均質性がすなわち共感力であり、社会生活の条件である。なるほど、イデオロギーの脅威はまるで過ぎ去った怪物なのではない。

ここで、この作品の題でもあるから、小林が歴史について触れた短い部分について見ておこう。小林は「歴史的意識」について言及する。

歴史的意識は解放された意識である。何から解放されたか。昨日を思い、明日を目指し、二度と繰り返せぬ一生を生きて育て上げた、誰も知っている歴史感情から解放された。歴史はもう他人事のようにしか書かれない。客観的と呼ばれている一種の優越感と侮蔑とをもってしか書かれない。

内的な生活の充実について、私は先に触れた。それが社交上の成功にまで結び付いていることは、現代の特徴の一つである。

それは実生活からの逃避という形で始まり、反転して、次第に社会的地位を得るに至ったものと考えられるが、逃げ道は、何も内的生活ばかりではない。客観的な歴史のように、外的な権威を持った大きな観念もまた、我々が好んで逃げ込むところである。

そこでは我々は進んで小さな部品に成り下がるのであるが、我々の自負は、まるで自分こそが、その大きな全体を動かす中心人物であるかのような錯覚に変じ、他人を軽視するばかりか、観念上の全能に世界を失い始めるのである。

世界も人間も、言い表し得ない微妙なものであることを忘れてしまえば、我々は一層のこと、客観性という幻想に縋る他なくなってしまう。自己の内的経験への自信のなさが逃げ込む先は強力な観念という他者の内にしかない。

誰も彼も、個人という統一した形で生きている。これを疑うものはないのだし、一方、生命と言おうと心と言おうと、それはどうでもよいが、もっと大きな或る名附け難い実体のうちに、私達が在るのを誰でも感じている。この万人に共有な実体は、各人の内的経験を通じ、各人各様に現れざるを得ないし、逆に、この実体自身の側からすれば、その全的経験を、出来る限り各人各様にして欲しいと言っているだろう。

我々は強さと言えば知的で、議論に耐える強さであると勘違いしがちであるが、重要なことは、我々自身が、自己の内的経験の存在をしっかりと感じ、一体感を持つことができているかどうかということだ。自己が経験と共に胎動しているという感覚を、敏感に察知することができるかどうかということだ。

強さは他人に容易に説明できるものである必要はない。議論のために強くなる義務なんて人間にはないのである。我々の生活も言動も、全ては自己の内的経験の先に自ずからあるものなのであって、言葉や形式は、我々の内から生まれるのである。決して定められた言説が、社会の方にあらかじめ用意されているのではない。

現代もまた情報過多の時代である。その環境下で、我々は十分な自信が育つまで、自己の内的経験を大事に守り抜かなければならない。その先に、地味でもなんでも、変わり者という言葉でしか語れない、多彩な人間的調和があるのであろう。

 

2. 参考文献

小林秀雄「歴史」『考えるヒント』(文春文庫)

 

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決して短くはない文章にお付き合い頂き、ありがとうございました。

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