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小林秀雄「ランボオⅢ」:私のノオト

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小林秀雄は日本の近代批評を文学の水準にまで高めた批評家です。

思想的には、現代人の知の在り方に対する批判や、個性に対する考え方、芸術作品に臨む姿勢など、これらの問題に生涯を通して取り組みました。

この記事では、小林秀雄の「ランボオⅢ」を読んで、私が注目した箇所や、読み取ったことなどをノートとして記録していきます。

そして、それを読者の皆様と共有できればと思います。

 

1. 私のノオト(「ランボオⅢ」)

a) 基本情報

この作品(「ランボオⅢ」)が発表されたのは1947年のことです。

Ⅲという印が付いていることからも分かる通り、当然ⅠとⅡもありますが、続き物というわけではなく、それぞれが独立した作品です。

最初のⅠは1926年に発表されました。発表時、小林はまだ東京帝国大学仏文科の学生なのですが、小林がランボーと出会ったのは少し前、第一高等学校時代、二年前の春のことでした。

大学卒業の翌年(1929年)にはランボーの詩の翻訳に着手し、その次の年には白水社から出版されています。その後記がⅡに当たります。

ランボーに関して書かれた、これらⅠからⅢの作品の内、最も読みやすく内容豊富であるのはⅢであると私は思います。

もちろん、これは一読者の感慨に留まり、それらの研究上の価値などについて言うのではないことをお断りしなければなりません。

しかし、Ⅰは学生時の作品であり、Ⅲの作者はすでに「モオツァルト」(1946年)を完成させています。すると、私の感慨も大部分推察して頂けるのではないでしょうか。

さて、小林秀雄は多くの人物から影響を受け、また題材にしたと言えますが、その中においても、ベルグソン、ボードレール、ランボー、ドストエフスキーらの影響は特に大きいものと考えられます。

小林秀雄にとって、目の前にしたランボーという存在自体が事件でした。そして、それは思想形成上の重要性だけでなく、人生の実行上の問題でもありました。

すなわち、丁度ボードレールの圧倒的な影響の内に囚われ、濃密な美的世界に閉塞感を感じ始めていた青年の背中を、ランボーが否応なしにぶっ叩いたのです。

はっとさせられた青年は、最初はまだぼんやりとした頭で、道のない道を歩むともなく歩み始めました。その歩みの先にある小林秀雄を、私たちは「批評の神様」だとか「読書の達人」だとか言っているわけです。

小林秀雄におけるランボーとは、私たちにとって、何よりも作者の人物史的な興味を掻き立てるものであると言えるでしょう。

 

b)アルチュール・ランボー

ここで、小林秀雄の文学者としての進路に大きく影響したと思われる、詩人・ランボーに関しても簡単に確認しておきましょう。

ランボーは1854年、フランスのシャルルヴィルに生まれました。ベルギーとの国境に近いアルデンヌ地方の田舎町で、少年ランボーはその田舎性の故に故郷が退屈で仕方がなかったようです。

ランボーは、文句なしの早熟の天才と言えばいいでしょうか。

残された詩の時期の早いものは16歳頃のものですが、最後に書いた彼の代表作『地獄の季節』は19歳の時のものです。

すなわち、彼の詩作は1870年から73年までのわずか三年間に過ぎないのですが、その後は文学には一切関わらずに生きて行きます。

一切関わらずに、というのは誇張ではありません。

そもそもランボーが自分自身で詩を雑誌などに発表したことはなく、ランボーの才能を信じるヴェルレーヌや友人らが勝手に書簡を雑誌に掲載したり、詩集を刊行したりしたのです。

本人は完全なる沈黙を守りました。そもそも、『地獄の季節』以後のランボーがどこで何をしていたのかということは、当時、おそらくは母と妹を除いて、誰も正確なことを知らず、死亡説まであったくらいです。

さて、ランボーの作品は初期詩編、『イルミナシオン』、『地獄の季節』に大別することができます。この内、小林秀雄が最も重要視したのは、やはり『地獄の季節』と思われます。

小林秀雄はこれを「文学への絶縁状」と言っています。

それは、まさしくその通りで、ランボーは『地獄の季節』を書き上げると、自らの詩的天才を惜しむことなく放棄し、「ざらざらした現実」を抱きしめるために、人間の生活に向かっていきます。

文学と縁を切ったランボーは、ロンドンでフランス語の教師をやったり、ドイツで家庭教師をやったり、曲馬団に随行してデンマークやスウェーデンに行ったり、各地を放浪しました。

1880年になると、イエメンのアデンに辿り着きました。そして、ランボーはエチオピアのハラールを拠点に商人になり、現地の人達を相手に商売を始めます。

1891年に骨膜炎で右足を切断し、マルセイユの病院で亡くなるまで、ランボーは約十年間、この厳しい砂漠の地で商人としての生活を続けました。

ランボーの詩は、とにかく、十代の少年がこれ程の詩を書く事ができたなんて、といった程度の甘いものではなく、近代社会に生きる人間の宿命をさえ感じさせます。

それに加えて、かつての早熟の天才が、なぜ砂漠の生活に辿り着かなければならなかったのかという問いは、未だそれに解答し得た者はおらず、多くの文学者や一般の読者を引き付けて離さないのです。

 

c)ランボーとの出会い

小林秀雄が流星の如き早熟の天才ランボーと出会ったのは、1924年の春であることが知られています。東大仏文科入学が翌年のことなので、この時、小林はまだ第一高等学校の学生です。

僕が、はじめてランボオに、出くわしたのは、二十三歳の春であった。その時、僕は、神田をぶらぶら歩いていた、と書いてもよい。向うからやって来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである。僕には、何んの準備もなかった。ある本屋の店頭で、偶然見付けたメルキュウル版の「地獄の季節」の見すぼらしい豆本に、どんなに烈しい爆薬が仕掛けられていたか、僕は夢にも考えてはいなかった。

上記は冒頭部分からの引用ですが、偶然に手に取った「地獄の季節」の原典は、まるで爆弾のような威力を以って、小林秀雄という人物に作用したようです。

そして、「僕は、数年の間、ランボオという事件の渦中にあった」と作者は続けて言っています。

注目すべき点の一つは、作者は「数年の間」、ランボーという事件の渦中にあったのだということでしょう。

すなわち、小林秀雄におけるランボーの影響は、それが一瞬間の内に彼自身を変え切ってしまったというよりは、数年の年月をかけて、彼をある状態にまで運んでいったのだということです。

当たり前のことのようにも思えますが、年譜を追っているだけでは想像し辛い部分ですので、重要と考えます。この点、もう少し詳しく見ていきましょう。

小林はある日、結核で死期の近い友人・富永太郎を訪ねます。彼は詩人で、小林秀雄と中原中也とを繋げた人物でもあります。小林も中原も、詩人としての富永の才能を強く感じていました。

ランボーとの出会いの頃、富永は京都にいたのですが、小林は彼に「地獄の季節」の最後の章を書いて送りました。そして、富永もまた、ランボーの強い影響を受けた一人になりました。

その後、富永の「詩の衰弱と倦怠とが、ランボオの生気で染色される」のを小林は認めたらしいですが、しかし、「その為に肺患の肉体の刻々の破滅を賭けていた事は見えなかった」と述べています。

そのことを後悔しているようには、小林は書いていないですが、「その種の視覚を、ランボオは僕から奪っていた様に思われる」と述懐しています。

この部分をどう受け取るべきかということは難しい問題ですので、とりあえず、もう少し先まで進んでみましょう。

続く部分では、小林は、富永が見せてくれた彼の詩に対して色々と文句を言ってしまったことに触れて、「僕の方が間違っていた事だけは確かである。何ものも、自分さえも信用出来ない有様だった当時の僕の言葉に、何の意味があっただろうか」と振り返っています。

ランボーと出会った当時、小林はボードレールの圧倒的な影響化にありました。彼にとって『悪の華』は「比類なく精巧に仕上げられた球体」であり、「精緻な体系」であったと述べられています。

要するに、『悪の華』という「球体」の、その美しい内部に囚われていたわけで、それは文学青年の青春であると共に、息苦しさを感じさせるものでした。

ランボーとの出会いによって、「球体は砕けて散った。僕は出発することが出来た」と小林は言うのですが、だからと言って、彼はすぐに、確かな足取りで前に進むことが出来たわけではありませんでした。

ちなみに、ランボーとの出会いは1924年の春であり、今紹介している富永訪問の場面は翌年のことですが(富永は25年に京都から東京に移った)、一年経っても、小林は「自分さえも信用できない有様だった」ようです。

この小林の自己不信の原因を一つに特定することは私にはできませんが、ランボーとの関連で<想像>してみると、ランボーは文学の破壊者ですから、ボードレールという文学の象徴を一旦否定されて、裸のまま人間の生活に放り出された小林は為す術を知らなかったのだと言えるでしょうか。

言うまでもなく、小林と文学との関係は一生涯続くのですが、少なくとも、ランボーの衝撃によって、今までの文学青年的な文学との関わり方は最終的に息の根を止められたのだ、ということは言えるのではないかと思います。

この富永訪問の回想の終わりの部分で、小林は「やがて、僕は、いろいろの事を思い知らねばならなかった。とりわけ自分が人生の入り口に立っていた事について」と書いています。

ランボーとの出会いで「出発することが出来た」小林ではありましたが、それは二十年以上経った地点から振り返ってみて、そう感じたのであって、この回想当時の小林はまだ「人生の入り口」に立っていたに過ぎません。

小林秀雄におけるランボーの影響を整然と理解しようとすると、どうしても、24年の春の時点を決定的に考えてしまいます。しかし、ここまででも、整然とは説明し難い人生の展開の様子が、段々お分かり頂けたかと思います。

さて、少し話が変わりますが、この時小林が訪ねた富永の顔には「死相」らしきものが表れていたらしく、それに気づいた時、思わずぞっとしたそうです。しかし、その強烈な印象は一瞬間の内に過ぎ去ったとも言っています。

何故だったろう。何故、僕は、死が、殆ど足音を立てて、彼に近寄っているのに、想いを致さなかったのだろう。

そんな風に述懐する小林ではありますが、やはり、これは後悔の吐露と解することはできません。彼はただ、「何故だったろう」と呟くのみです。

もちろん、その問いに答えるのに、例えばランボーの衝撃と再出発の狭間にあった小林の精神状態とか、それらしいことを言うことは可能でしょう。

しかし、小林にとって重要なのは「何故だったろう」という気持ちであって、それらしい精神分析ではないので、この問いにこれ以上深入りはしません。

ただ、「何故だったろう」という想いが、この時期の記憶の扉の鍵になっている可能性だけは指摘しておきたいと思います。

ここで少し戻ります。富永が「肺患の肉体の刻々の破滅を賭けて」詩作をしていたことに気が付くことができなかった理由について、小林が「その種の視覚を、ランボオは僕から奪っていた様に思われる」と言っている意味についてです。

長くなってしまいましたが、ここまでの流れには、直接的に回答に結び付きそうなヒントはやはり存在しないと言うべきと思います。

ただ一つ言えるのは、小林が「奪っていたように思われる」とやや曖昧な言い方をしている通り、そもそもこの頃の小林の精神や生活自体に曖昧なところがあり、自身でも整然とした説明は難しいということです。

また、これも<想像>ですが、そもそも、ランボーの影響を受けて詩作に熱を入れるということ自体が矛盾だったりします。というのも、ランボーは詩と絶縁するため『地獄の季節』を書いたのですから。

その点、小林の方はかなり強く、ランボーから<実生活>という方向性を受け取ったように思われます。実際、後の小林は<生活と結びついた思想>に注目する批評家として成長していきます。<生活即思想>と言えましょうか。

ただ、この回想時の小林は、一度、文学と言うものとの距離感が分からなくなってしまっていたのかもしれません。文学を捨てるとまでは考えていないでしょうが、頭の中のどこかには「0」の部分があったのではないでしょうか。

そのような事情で、その時は、富永の「肺患の肉体の刻々の破滅を賭けて」詩作するという、悲しいことですが、最期の意気込みを分かってあげられませんでした。

小林秀雄にとって、ランボーとの出会いは、富永との思い出の中に蘇る、当時の自分自身の曖昧性とも結びついて、当時が人生の転機であったことは間違いないが、振り返ってみたところで、その意味の全てが明らかとは言えない、そういった時期を意味するのだと思います。

 

d)「ランボオという事件」

先ほどの一文、「僕は、数年の間、ランボオという事件の渦中にあった」に含まれる部分ですが、今度は小林が「ランボオという事件」と言っていることに注目してみたいと思います。

これは、つい、「ランボーとの出会いという事件」と変換してしまいそうなところですが、小林は明確に「ランボオという」事件と言っています。

すなわち、ランボーという存在、あるいは『地獄の季節』それ自体が「事件」なのだと小林は言っているのです。

文学とは他人にとって何であれ、少くとも、自分にとっては、或る思想、或る観念、いや一つの言葉さへ現実の事件である、と、はじめて教えてくれたのは、ランボオだった様にも思われる。

正直に言えば、私は(私自身が)影響を受けた作家はいると思いますし、信頼するという形で敬意を払っている思想家もいるのですが(小林秀雄もその一人)、その人たちの存在や作品が「事件」だと思ったことはありません。

というより、「事件」とまで感じる人は少ないのではないでしょうか。

もしかすると、「事件」なんて言う言葉は誇張みたいなもので、文学的装飾として言葉が当てはめられているに過ぎない、と感じるかもしれません。しかし、小林秀雄という人物は、なかなか私たちの理解を超えてくる人です。

例えば、こんなエピソードがあります。小林は1948年から4年間『ゴッホの手紙』を連載しますが、そのきっかけは上野の展覧会で「烏(からす)のいる麦畑」の複製を見たことでした。

その時、小林は何と、衝撃を受けてしゃがみ込んでしまったそうです。

そんなことが普通にあり得るかと言えば、あまりないことだと思います。小林は驚くべきことに驚くことがいかに難しいか、といったことを度々口にしていますが、小林の驚きの感じ方は人よりも強いのでしょう。

なので、ランボーを「事件」だと言う小林の言葉は、おそらくそのままの意味で信じていいと思いますし、むしろ、私たちの普通の感覚よりもずっと強い意味が込められていると想像するべきでしょう。

ただ、その「事件」の言葉の強さまでは私には推し量れませんでした。

しかし、ランボーという「事件」の発見が、西行、実朝、モーツァルト、ゴッホ、本居宣長、正宗白鳥などの「事件」の発見の前提となったのだとすると、やはりランボーとの出会いは批評家・小林秀雄にとって、計り知れない意味があったものと言っていいのかもしれません。

 

e)「精神の深部」

なかなか作品冒頭部分から離れられないのですが、小林は自身におけるランボーの影響を述懐し始めるにあたって、それを明確にすることはできないと言っています。

すなわち、「僕は、影響という曖昧な事実の極限を経験したから」、本来曖昧な影響というものを整然と説明し尽くせるものではないと言うのです。

そして、「自分の眼にも他人の眼にも明瞭な影響の跡という様なものは、精神のほんの表面(うわべ)の取引を語るに過ぎまい」と続けます。

非常に小林秀雄らしい断りの入れ方だと感じるのですが、私がここに抜き出しておきたいと思ったのは、以下の一文です。

それに、もともと精神の深部は、欲するものを確かに手に入れたり、手に入れたものを確かに保存したりするような仕組みに出来上がっているとも思えない。

これを抜き出したのは私の趣味ですが、それはともかくとしても、小林秀雄が持っていた感覚を理解する上でも、案外重要な一文と思います。

この内容もあり、知的にも簡素で、素敵と私には思われる一文ですが、その意味は、簡単に言えば<精神の深部の実体は図り難い>ということです。

あるいは、精神の深部に実体はないと言えましょうか。なんにせよ、そんな言い方をしてみたところで月並みで面白くはなさそうですね。

代りに、どうにか私が感じたところを説明してみましょう。

そもそも精神というもの自体が目に見えるものではないので、精神の深部など、とても言い表すことのできないものに感じるかもしれません。

ただ、(小林の言葉を借りて言えば)「精神のほんの表面(うわべ)」に関しては、私たちはある程度、経験的に理解をしているものとも思われます。

それは、つまり、意識の表層部分や常態部分のことだと言えるでしょう。例えば、私はこれが好きだとか嫌いだとか、あの人は優しいがあの人は苦手だとか、あれがめんどくさいとか、これはできそうにないとか、そういった部分です。

そういった部分は心がけ次第ではすぐに変えることができますし、根本的に変わってはいなくても、言動を変えるだけならすぐにできるかもしれません。また、ある一つの知識が思考の癖を一度に変えてしまうかもしれません。

もし、誰かの「あの人は変わったね」という言葉が、何かとても表層的なものに感じるのであれば、それはこの意識の表層部分の変化を単に指しているに過ぎない、と考えてみてもいいでしょう。

もちろん、その同じ言葉が深い納得感をもたらすこともあるのですが、その場合、彼の変化は表層的なものというよりは、もっと全的なものなのだと言えるでしょう。このことが何か精神の深部に関係がありそうなことは言うまでもありません。

また、精神の表層と精神の深部との乖離は、そうはっきりとしたものではなく、思考の変化がまた感情面での変化と自然に重なっていることは普通にあることと私たちは感じているので、これが、ごく一般的な意味での人間の変化を指すとも言えます。

とにかく、「精神のほんの表面(うわべ)」は、意識の表層的な、それも思考の常態化した癖のような、そういうかなり狭い概念だと捉えておきましょう。

実際、小林秀雄は抽象的な知識ばかりをたくさん詰め込んだ頭脳の自動回転みたいなものを繰り返し批判しているので、そういった頭脳的な次元での極端な現象に注目する観点がなければ、その批評を理解することができません。

さて、それでは「精神の深部」とは如何に説明することができるかという問題に移っていきますが、正直に言えば、定義的な説明は私にはできません。

ただ、私自身の経験から、かなり核心に迫っているだろうことを言うことはできると思います。それは、文学青年的な読書熱について想像して頂ければよいでしょう。

とはいえ、私自身は一度も自分自身を文学青年だとは思ったことはなく、読書に対しては常に一定の距離感を持っている気がするのですが、小林秀雄のような文学青年の熱意は理解することができ、その熱は、ある意味「狂気」のようだと思います。

しかし、私には「狂気」という言葉を適当に使用する意図はなく、私は決して、彼らの行動的な部分を見て、まるで狂っているようだと言いたいわけではないことをお断りしておきます。

ちょっと細かいですが、それは何か、常識的な大人の目線から見た、正常不正常の区別を感じさせます。そういう常識的判断は表層的なものに留まり、悪いものでは偏見と無理解を意味すると思います。

私が言いたいのは、もっと現象の根本的な部分で、<タガがはずれている>とか<無際限である>といった精神の力学です。そして、私はそこに<深部からの底知れない吸引力>を感じ取ります。

私はその<吸引力>に、通常の意味での理性は感じません。ここで言う理性は<整理する能力>のようなもので、上等な意味ではないのですが、精神の深部はおそらく、私たちが手を使って本棚から本を取り出すようには、得るべきものを選別しません。

そうではなく、その<吸引力>が引き寄せるものは、全く偶然に依存していると言っていいものと思います。すなわち、手当たり次第に、ということです。少なくとも、目的から逆算した手順というものを、この深部は持たないように思います。

ごく普通に、本屋さんの本棚から本を手に取る時にも、実は私たちの精神の深部は<吸引力>を働かせているのだと思いますが、文学青年たちの読書熱はまるで<タガが外れている>という点で「狂気」に近いと言えます。

そのため、彼らの熱量はその秘められた精神の力学を発見する上で、大いに参考になるのではないかと思います。

ここで、もう一度、私の引用した部分を振り返ってみましょう。「それに、もともと精神の深部は、欲するものを確かに手に入れたり、手に入れたものを確かに保存したりするような仕組みに出来上がっているとも思えない」。

すでに、引用の前半部分については説明がついていると思います。精神の深部の<吸引力>というものは感じられないこともないが、それには声がなく、明確な指示を読み取れるとは限らない、自然偶然任せにもなる、と言えましょうか。

もし、今何か夢中になっているものがあるのであれば、話はより明白です。精神の深部は今それを掴んで離さない、精神は確かに対象を掴んでいて、生活にも何か手ごたえのようなものが感じられてくる......。

それでは引用の後半部分ですが、精神の深部は「手に入れたものを確かに保存したりするような仕組みに出来上がって」いないのでしょうか。これも、私たちが本棚に一冊ずつ本をしまっていくようには、保存していないと私には思われます。

おそらく、精神の深部が欲しているのものは、知識(それも、悪い場合には抽象的で無味乾燥な知識)なのではなくて、想像力を刺激し養う何か(例えば、経験)なのだと私は思います。

そう考えてみると、精神の深部に秘められた力は、私たちの本源的な想像力なのだと言ってみても、あながち間違いではなさそうです。それは無定形のもので、一瞬一瞬の間に絶えず変化するものとも言えるでしょう。

そうであれば、「こうだ」と思ったことが、次の瞬間にはそうではないと思われてくるような、そういった非統一性の感覚を有することがあっても、決して不思議ではないと私は思います。

普通、例えば瞑想や心理分析などは、深い自己理解を得るために行われるものではあるのですが、突き詰めたところ、自己理解とは行動上の便宜のようなものであり、<自分自身の説明それ自体ではない>と感じます。

すなわち、あらゆる説明を嫌う<私は私>という感覚こそが全てなのであり、説明とはどんなものであれ、説明に過ぎず、本当の意味での「説明」などあり得ないということです。

私の感覚は多少先鋭的なのかもしれませんが、そうだとしても、小林秀雄はそういう精神の力をこそ重視した批評家であると言うことも許されるでしょう。

一方に抽象的で無味乾燥な知識に占領された荒廃した頭脳、一方に精神的な活力の源泉である本源的な想像力、この二極を想像ないし理解することで、小林秀雄の評論はぐっと読みやすくなってくると思います。

 

f)散文詩

これはほんの指摘だけに留まりますが、ランボーの詩に関して小林は以下のように述べています。

それに、彼の韻文詩は、ついで、現れた散文詩ほどの重要さを持たぬ。

小林は「韻文詩」と言っていますが、初期詩編のことかと思います。初期のものが全て韻文なのかどうか、翻訳でしか読めない私にはちょっと分かりません。

とにかく、小林が「イルミナシオン」と、続く「地獄の季節」を重視しており、初期詩編の方は割とはっきりと軽視していることが分かります。

確かに、ランボーが<文学への反逆者>へと変身を遂げたのは、1871年のことで、その後の「イルミナシオン」(1872)、「地獄の季節」(1873)の方をこそ、ランボー的な作品と見なすことに間違いがあるとは言えません。

ただ、ランボーに対して<反逆者>という強い言葉を使うと、自然「地獄の季節」こそがランボー渾身の作だと結論しがち(というよりそれ以外あり得ない)ですが、私はランボーに対しては、<悲しいランボー>といった、少し弱めの言葉を使って視点を変えてみたいとも感じています。

すると、<悲しいランボー>は1870年の作から「地獄の季節」まで、一貫して認められるのであって、<反逆者>への変貌を境とする断絶も消えてゆくものと、これは個人的にですが、思っています。

そういった意味で、私は小林の立場に必ずしも同意はしないのですが、この論点に関しては、いずれランボーに関する記事に手が及んだ時に繰り返したいと思います。

さて、小林秀雄が経験したランボーは、私の言う<悲しいランボー>のような優しいものではなかったようです。

そうではなく、<反逆者>ランボーという、いずれ砂漠に身を焼きに行く、徹底的な現実主義者ランボーだったということを再認識することができるでしょう。

 

g)マラルメの見たランボー

マラルメという詩人がどういう人物かということは、私の乏しい知識ではほとんど説明することができないのですが、ランボーとの関係で言うと、彼は当時ほとんど唯一と言っていいような、ランボーの本質的な理解者であったようです。

いや、だからと言って、マラルメがランボーのその<存在論>の次元まで理解していたかどうかは分かりませんが、少なくとも、当時の無邪気な文学青年たちのようにランボーを賞賛していたわけではありません。

そもそも、詩人としてランボーと向き合うということは、場合によっては、自身の詩人としての根幹が揺らぐような事態なのであって、彼の「地獄の季節」という「文学への絶縁状」を重く受け止めれば、それは当然のこととも思えます。

ですが、ランボーの詩は、基本的には詩の新しい可能性として受け取られました。

そのことは、ランボーの詩が初めて雑誌に掲載されたらしい1886年頃でも同じであったと思われますし、第一次大戦を経た、ダダイスム、シュールレアリスムの時代でも同じであったようです。

もちろん、ランボーの詩の技法上・表現上の新しさ、良さというものはあるのだと思いますし、単純に詩作の参考にして、良いものを取り入れることは、これも積極的なことだと言うべきです。

ただ、単に技法上の模倣を行うだけでは、ランボーの詩にある、何か精神の根本的な渇望に響くような潤い・炎を蘇らすことなど不可能であることは道理で、それは、ランボーの詩の生命がもっと深い部分にある泉に由来しているということでしょう。

そのため、ランボーに影響を受けた文学青年は山といるでしょうが、それは技法上・表現上の次元に留まり、あるいは単純にモチーフを借りるに留まり、精神の深い部分での繋がりを見出した者は少なかっただろうと<想像>できます。

とはいえ、これは<想像>に過ぎないので、一旦置くとして、マラルメは中々文学的にも素敵な言及をランボーに対して残していて、私のこの項の目的は、その言葉をノートに残しておきたいという、それだけのことです。

詩に許された自由というものも、更に言えば、奇跡によって迸ったとも見える自由詩も、自己証明の為に、この人物を引き合いには出せまい。最近の一切の詩の片言と別れて、或いは、まさしく片言が途絶えた時に、彼は古代の戯れの厳密な観察者であった。

彼が、精神上のエキゾティックとでも言うより他はない様な豪奢な無秩序を提げて、パルナス以前の、ロマンティスム以前の、いや極めてクラシックな世界に対抗して産みだしたその魔法の様な効果を、見積もってみ給え。ただただ彼が現存するという動機によって点火された流星の光輝であり、独りで現れて、消えて行く、凡そそういうものは、確かに、其処にどんな文学的環境の準備があったわけではなかったのだから、この途轍もない通行者がいなくても、以前から間違いなく存在していたであろう。人称格は、力づくで居座る。

しかし、フランスの文学者や哲学者の言うことって、本当に晦渋ですよね。正直に言うと(単純に難しいという理由で)苦手です(上記の文章は好きですが)。

私にしても、上記の文章の九割くらいしか理解していないとは思いますが、ある言葉を好きと思うことに完全な理解は必ずしも必要ないと思います。

では、部分に絞って何点か見ていきます。

①まず、「この人物を引き合いには出せまい」ということ。これは、ランボーは新しい詩を書いたかもしれませんが、だからと言って、何々派みたいな、そういう流派の祖となって体系が生まれることはないということ。

ランボーは野生児で本質的に群れないので、その詩の生命の根拠は多数で共有可能な理論的なものではなく、ランボーという存在そのもののみに由来するということ。

②次に、「古代の戯れの厳密な観察者」ということ。近代人は近代的に、現代人は現代的に世界を見るのが普通である。しかし、ランボーは古代的にあるいは中世的に世界を見ていた。

そして、それは驚くべきことに認識上の趣味としてではなく(悪い言い方をすればファッションと言えるだろうか)、野生児ランボーの紛れもない本能としてであったということ。

③更に、「精神上のエキゾティック」ということ。②とほとんど同じ。上手いイメージを探すとすれば、ランボーの精神世界は古典派的な古代趣味というよりは、何か熱帯雨林的な野性味さえある古代であったということ。

つまり、繰り返して言うが、趣味としての想像上の古代でなく、何か本当に生命を有して生きている古代が、ランボーの精神世界に存在しているらしいということ。

④さて、この一文が一番<格好いい>。「ただただ彼が現存するという動機によって点火された流星の光輝」ということ。

なぜ詩作するのか。好きだからである。それが生きがいだからである。そういう風に言えることは幸せだと思う。しかし、ランボーの場合はどうだっただろうか。

それはもちろん、詩人に共通な<表現欲>に突き動かされたからこそ、ランボーは詩作したのだと言えるだろう。

ただ、どうも、それだけで説明を終わらせていいものかどうか、分からない。もっとイカレタな表現を探すべきではないだろうか。

そう、例えば、それは<魔力>であったのだと。ランボーの存在の根源から溢れ出す彼の<魔力>がそのまま詩であり動機であったのだと。

すなわち、ランボーの詩とは、極めて象徴的に理解すれば、それは、かつてランボーがこの世界に<立っていた>という事実を表すものであるということ。

※一応断っておくが、これは力の天使(あるいは悪魔)ランボーについて述べたものであり、幸福の天使ランボーについてはまた別の表現を必要とする。

⑤また、「途轍もない通行者」ということ。これは小林秀雄が引用していたり、結構目にする機会が多いランボーの異名と化している(と思う)。

これも、ランボーは本質的に野生児だから群れないということ。文壇というものは定着人種のその定着性により持続するものであるし、普通、人はその定着性によりある社会に属するものだと言える。

ランボーは、すぐどっかに行く。上手い言い方は必要ない。すぐどっかに行く。フランス文学界に現れたのも、現れたのではなくて、横切ったに過ぎない。

ただ、この「途轍もない通行者」は凄まじい衝撃波を伴って横切ったのであり、その現れた所には、すなわちフランス文学界の中心地において、大きな窪地と炎と再生の生命を残して消えたのだということ。

⑥最後に、「人称格は、力づくで居座る」ということ。こういう表現は私の苦手分野なので<想像>のみで書きます。

すなわち、上手い言葉がないので、またイカレタ<超訳>をしますが、<ランボーは遍満する>ということ。いや、ナンダソレ......。

順番に渋々ながら説明すると(ジャアヤメロヨ)、マラルメの言う「精神上のエキゾティック」としてのランボー的な詩は、その文学的根拠を同時代的な社会に有してはいないように思われる。

すなわち、人間誰しも社会的な存在として成長し、周りの環境の影響を受けて人格や趣味を育てていくものであるが、同じことが、文学者が文学の世界の影響を受けて成長するということにも言える。

だが、ランボーの根源的な部分を推し量るに、彼はフランスの文学界が育て上げた男の子であると言っていいものか分からない。

よっぽど、天界からそのままやってきたとでも、言ってしまいたいくらいである。あるいはまた、その土地土地、時代時代の精霊か何かかとも思われるくらいである。

すると、ランボーを「ランボー」と呼ぶことにも中々意味がない。

ランボーが人間として生まれて、社会的存在として「ランボー」と呼ばれていることは事実であるが、その根源的な部分は「ランボー」が生まれる前からのものだ。

そういう社会性を拒否した根源を持つ人間は、探せばたくさんいるのかもしれない。もしかしたら、皆そうなのかもしれない。

詰まるところ、やはり<ランボーは遍満する>のだ。<私>は、花が咲く大地を必ずしも選ばないように、ふっと現れ、ふっと消えていくということ。

何だか「力ずく」の語感は表現できませんでしたが、私はマラルメではないから、まあいっか......。

 

h)いくつかの引用

実を言うと、驚くべきことに(?)、私はまだ25ページあるこの作品の最初の6ページにしか手を付けていません。

しかし、作品の残りの部分はここまでの記述内容を持ち込めば理解できるのではないかと思いますので、ここからは引用ベースで、簡潔に進んで行きます。

①マラルメがランボーの詩の性質を二点に分けて説明した部分の二つ目。

第二に、彼は英雄譚や伝説の中の人物ではない、ランボオという名さえ偶然と思はれるほどの、或る普遍的な純潔な存在だという事。

これは、この記事のg項の説明で理解できると思いますので、繰り返しを避けるためにランボーの詩の引用を以って、別の形での説明としましょう。

引用は小林も引いているもので、「イルミナシオン」中の「大洪水後」冒頭です。

「大洪水」の記憶も漸く落ち着いた頃、

一匹の兎が、岩おうぎとゆらめくつりがね草との中に足を停め、蜘蛛の網を透かして、虹の橋にお祈りをあげた。

ああ、人目を避けた数々の宝石、――はや眼ある様々の草。

上記引用の最後の部分、「ああ、人目を避けた......」は、明らかに「兎」の嘆息ではないでしょう。これは、人間「ランボー」の嘆息だと思います。それも、地獄の苦悶の気配がします。

しかし、ランボーの詩の本来的な視点は常に「兎」なのだ、と言ってみても、あながち間違いではないでしょう。「兎」とは「天使」であったかもしれない。あるいは、「聖女様」であったかもしれない。

そして、その先に、木の棒を振り回して退屈そうな少年アルチュールがいるのかもしれない......。

地獄の苦悶の嘆息なんて、本当は面白くなんかない。私たちがランボーを信頼するのは実は「兎」の視点の存在による、かどうかはちょっと分かりませんが、少なくとも私に関してはそうです。

②小林秀雄はやっぱりすごいと思わせるさりげない一文。

彼は、詩を書き始めるや、もう、この唐突な事件に不安を感じていた様子である。それは、彼が抱いた自分ではどうにもならぬ「魔」の様なものであった。

これは、ここまでの記述内容だけでは理解できないかもしれません。それに、私の感じ方と小林秀雄の感じ方は微妙に違っている気がします。

まず、「この唐突な事件」というのは、詰まるところ、「大洪水後」なんていう詩を書けてしまったということです。それが怖い、ということですね。

その「怖い」という気持ちに関しての、つまり<なぜ怖いのか>の理解の仕方が、おそらく小林秀雄と私とで異なっているように思われます。

でも、この話題は別の機会に譲りましょう。それはそれとして、小林秀雄のこの辺りの記述は、古今東西のランボー論の中でも最も本質に迫りかつ簡素であるのではないかと勝手に<想像>してしまいます。

初期の韻文詩は、一見、互いに何んの脈絡もなく、各々が偶然に気紛れに雑然と歌い出された様に見えるが、もともと「一匹の兎の祈り」に発するのであって、それは、その受容するものと、その拒絶するものとに、はっきりと二分されている。

これは、私が先ほど①で述べたこととほとんど同じだと思います。ただ、私が「兎」の方にばかり関心があるのに対して、小林の方は「兎」と<地獄>(小林は「歴史への拒絶」と言っている)の正反対の二つの力の方向性というように、理解しています。

ただ、小林流の理解の仕方は、文学者的なもので、とても分かりやすい反面、悪い場合はただの図式主義です。これは、私たちが何かを理解するという場面に常に問われてくる問題だと思います。

しかし、私は決して、小林秀雄を批判していません。というのも、私は小林秀雄をほとんど手放しに信頼しているからです。

すなわち、より正確に言えば、小林は何も図式主義的にランボーを理解しているのではなく、その感じているところの説明の必要上、ここでは図式的に語ったに過ぎないのだと分かっているからです。

私は先ほど「小林流の理解の仕方」と言いました。ただ、それは単に表面的に見えている部分について言ったに過ぎないのであって、本当の<小林流>は、いつだって、何だって、<0地点>から理解し直すことのできる、より自由な創造的理解力だと私は思います。

もう少しだけ説明すると、小林秀雄は同じ題材(ここではランボー)に関して、色々な言葉で語り直せるはずだと私は思っていますが、図式主義的な理解のみに頼っているようでは、いつも同じような説明しかできません。

私の場合、ランボーを<0地点>から理解する合言葉が、<私は「兎」のランボーが好き>なのであって、小林は「兎」の視点が決定的とは知りつつも、<反逆者>のランボーの方に興味があるので、説明の内容が異なってくるのでしょう。

やや、蛇足的なお話になってしまいました。次に行きます。

③ランボーがイザンバールという、彼の修辞学科の先生であり友人でもあった人物に宛てて書いた手紙の内容。

千里眼でなければならぬ(...)。詩人はあらゆる感覚の、長い、限りない、合理的な乱用によって千里眼になる。(...)彼は、既に豊穣な自分の魂を、誰よりもよく耕した。彼は、未知のものに達する。そして、狂って、遂には自分の見るものを理解することが出来なくなろうとも、彼はまさしく見たものは見たのである。

小林によれば、ランボーにとって詩とは「見た物を語る事」であった。しかし、「誰も見ない、既知の物しか見ない。見る事は知る事だから」。

今、私の目の前には電子辞書があるが、私はわざわざこの電子辞書を<見>ようとはしない。そんなことをしなくても、私はこれを<知>っているから。

この<知る>ということを、ランボーは「普遍的知性」と言っているらしい。反対に<見る>ということは「千里眼」と言っている。

私は、私の電子辞書(と同じような電子辞書)を知っているし、それは何よりも使い方を知っているということだが、私にはそれで十分である。

もし、私の電子辞書が最新式で、何か私の知らない機能があるのであれば、私はそれを手に取り、使い方を知ろうとするだろう。これが最も分かりやすい例での、「見る事は知る事」の意味である。

これは、言うまでもなく頭脳の働き。しかし、私は「ちょっと待てよ」と思ってみることもできる。「本当は、電子辞書とは、もっと面白いものなのではないか」。

そうして、何とはなしに眺めてみる。すると、シャルルヴィルの外れにある、アルデンヌの森と、マースの川とが見えてくる。何でだろう。たぶん、電子辞書の中に外国語の辞典が入っているからだ。

だが、「何でだろう」は、ここではあまり関係がない。なぜなら、それは頭脳的な働きだからである。そうではなく、ここで問題なのは想像力だ。

私はランボーの言う「千里眼」をその通り理解できているかどうか分かりません。しかし、その入口位は感じ取れているのではないかとも思います。

それはそれとして、ランボーという人間に、彼が語ったような呪いの如き詩論が必要であったのかどうか、私にはなおさら分からない。

また、更に蛇足なのですが、この「ランボオⅢ」の中には、何かベルグソンっぽいこと言ってるなあと感じさせる部分が多いです。

小林秀雄の、特に戦後の文章には「ぽいなあ」と思わせる部分はほとんどないのではないかなと思います。

なのに、この「ランボオⅢ」では、ベルグソンがぴょこぴょこしているので、小林秀雄であってもランボーは結構難しいんだろうなあと、何となく思いました。

④小林秀雄の「千里眼」理解の一端。

愛の観念、善の観念、等々、総じて僕等の心の内奥の囁きという様な考えは、ランボオには笑うべき空想と見えた。僕等は、ただ見なければならぬ、限度を超えて見なければならぬ。

愛とか善とか、それらは理念ではあるが、感情でもあると思う。そして、感情は各人の自由になるものである。......本当に?

愛も善も感情であるとしよう。だからと言って、それらは私の自由を意味しているのだろうか。感情ですら、社会的伝統に調整されたものに過ぎないのでは?

この種の考え方の行き着くところが決定論で、すなわち、人間の行動、思考、感情は全て環境因によって予め決定され、その原因を全て把握すれば、予測可能である......。

まあ、それはお化けみたいな考え方だとしても、感情ですら、案外社会に対して日和見主義的なのかもしれない。

だとしたら、自由とは「見る」ことにのみ存するのだ、とランボーは言う(と小林秀雄は解釈しているっぽい)。ああ、詩人よ。「千里眼」であれ。

⑤小林秀雄にとっての「言葉」。これは引用のみ。

言葉というものが、元来、自然の存在や人間の生存の最も深い謎めいた所に根を下ろし、其処から栄養を吸って生きているという事実への信頼を失っては、凡そ詩人というものはあり得ない。

⑥ランボーの詩が「千里眼」の文学であることについて、小林秀雄の言葉。

又、人情的なもの感傷的なもの或は形而上学的なもの、そういうものが織りなす雰囲気の曖昧さなぞに、彼は一顧も与えていない。更に又、彼の難解さは、彼の独特な個性とか性癖とかに由来するとも考えられぬ。

人情とか感傷とか哲学的な感じとか、私はそれが文学上の虚飾みたいなものに過ぎないとしても、結構美味しい。ちょっと食べたら飽きるかもしれないけど。

チャーチルという第二次大戦時の英国首相は個性的な人だと思う。彼の書いた著作は面白いけど、分かり難い時もある。両方、チャーチルの個性に由来する。

こういう、本を読んでいて普通に感じるようなことが、ランボーの詩からは一切感じられないとしたら、おかしいんじゃないだろうか?

もし、私がランボーの詩を読んでみて、本当に、そこに彼の「千里眼」を発見するのであれば、その「おかしいんじゃないか」という常識的感覚の強度が、そのままランボーの詩という<未知>への驚きの強さに化けるであろう。

⑦小林秀雄的逆説。ただ格好いいと思ったという理由だけで抜き出す。

僕等が理解している所から得ているものは、理解していないところから得ているものに比べれば、物の数ではあるまい。

ちょっと離れた所から私なりに説明してみます。

私という存在の根源的な活力は、私の脳内にある情報に依存しているとは必ずしも思われない。それは、言葉や知識に依存していないとも言える。

強いて言えば、「私は世界を信じている」。が、「信じている」がどういう意味なのかはさっぱり分からない。哲学でも信仰でもない。

何はともあれ、私はたったこの一言の故に、生きている。

⑧また、格好いい一文を抜き出しておきます。

この不思議な詩人は、人間には言葉より古い記憶はないという事に苛立ったのではなかったか。

ごく短い一文ながら、内容豊富で、簡潔に説明することができない。

ランボーは自らを「言葉の錬金術」師と、道化的に、呼んだ。ランボーは言葉の新しい使用法を実行する。そうして、「千里眼」で見たものを表現する。

しかし、その表現も結局、言葉本来の可能性を超え出ることはできない。いや、私には確かめる能力がないので、かもしれない、と言うだけだ。

ただ、もしそうであるとすれば、<千里眼>の表現能力は、どうしても言葉の可能性による限定を乗り越えることができない。

それが、無限の可能性であればいい。そして、もし有限であれば、ランボーは「彼という人間の謎の根元」に辿り着き、表現することができなかっただろう......。

小林のこの部分の記述はランボー論の本筋というよりは、思考実験的なものではあると思いますが、中々面白いと感じました。

⑨ヴェルレーヌの言葉(1886年)。

ランボオは、今年三十二歳になっている筈だ。今、彼はアジアに旅行して、芸術の仕事に没頭している。

これは、「イルミナシオン」を作者本人に代わって出版した際の、その序文の中に見られる言葉らしい。

二点誤りがある。まず、ランボーはアジアにいない。エチオピアにいる。そして、重大な誤りは、ランボーが芸術の仕事をしていると言っていること。

ランボーは『地獄の季節』以後、本当に一切文学に関わらなかった。小林秀雄は「それほど、驚くべき才能の突然の消滅は異様であり、考え難い事であった」と説明してくれている。

皆、ランボーは戻ってくると思っていた。でも、戻らなかった。たぶん、戻ろうと思ったことはないのだろう。

その思い切りの本質は、ランボーにしか分からないのかもしれない。

⑩クロオデルの言葉。死んだランボーを評して、と言えるだろうか。

最期の港まで来た今となって、お前にはこんな声が聞こえて来ないかーーランボオよ、お前はいつも私から逃げたと考えていたか。

小林は「僕は、クロオデルの信仰を持たぬ」と言っている。私も持たない。

ここで、「クロオデルの信仰」とは、人間とは常に運命に皮肉を浴びせられるものだという、よく分からない信仰のことである。

ランボーは、自分で自分を虐める以上に、虐められるような人間ではない。逃げていたわけでもない。逃げるとか逃げないとか、どうでもいいことだ。

ランボーは「回教徒が言う『世の定め』」とか、「宿命」という言葉を自ら用いているから、運命という考えが全くなかったとは言えない。

しかし、クロオデルの頭の中にある「運命」なんてものは、ごく平凡な人生の退屈なんかよりも、ずっとしょうもないものだ。

誰かの人生の最後に、どんなことが起きようとも、それは運命に皮肉を浴びせられたなんてものなんかじゃない。闘う者に敗北などあり得ないからである。

クロオデルの言うような「運命」などは、闘う者には存在しない。それは、初めから負け犬であるような人間の言い訳に過ぎない。人は誰かに負け犬にされるのではない。自分からなるのである。

闘うために全てを捨てた人間に、皮肉などどう響くと言うのだろう?

だが、確かに、エチオピアでランボーが得たものは、ただ疲労と消耗でしかなかったのかもしれないということは、どうしても考えてみなければならない。

 

2. 参考文献

小林秀雄「ランボオⅢ」『新訂 小林秀雄全集第二巻 ランボオ・Xへの手紙』(新潮社)

細谷博『日本の作家100人 人と文学 小林秀雄』(勉誠出版)

ランボー『地獄の季節』(岩波文庫)

※引用部分の漢字・仮名遣いは私が引用する際に改めております。