今回はカフカ「掟の前で」を解説していきます。私の手元にある光文社古典新訳文庫では「掟の前で」と訳されていますが、「掟の門前」と訳される場合もあるようです。
テキストが短く、お話が抽象的なこともあって、解釈の難しい作品です。論文を含めて解釈は色々あるとは思いますが、この記事では私の考察に基づいて、この作品を解説していきます。最後までお付き合い頂ければ幸いです。
1. 考察の参考として
一つの作品を理解する上で、同じ作者の別の作品を参考にすることは有効です。今回解説の対象とするのは「掟の前で」ですが、この作品を理解する上で、「あるアカデミーでの報告」という作品を理解しておくと非常に参考になります。
そこで、私の「あるアカデミーでの報告」の解説記事に基づいて、その要旨をここにまとめておきたいと思います。
元猿のペーターがアカデミーに依頼されて、自分が猿だった時のお話をします。ペーターは猿としてハンターに捕獲されたのですが、狭い檻の外に出るために、猿であることをやめて、人間になることを選びました。今ではペーターは人間社会において人間として認知されています。
ペーターは「生きるつもりなら、出口を見つけなきゃならない」といったことを言っています。「出口」とは、私の解釈では、「異質な社会や人間と、自己との間にある摩擦状況、その八方ふさがり状態を解決するために、敢えて未知で危険な新しい環境に飛び込むことで、一転して社会的な安全・安心を得ること」です。
ペーターは人間社会に同化することで、猿として檻の中に閉じ込められていた状況から自分を救いました。そして、今では人間社会でもそれなりの地位にいます。
ペーターは元猿ですが、人間というものは、いっそ社会の中に溶け込み、埋没していくことで地位を得、自身の安全・安心を達成することができるものです。このような人生観は理想的ではないにしろ、現代社会における人生の真実であると言うこともできるでしょう。
2. 「掟の前で」の解説
(a)「掟」とは「社会」?
以上で見て頂いたのは「あるアカデミーでの報告」の要旨ですが、そこでは、現代社会における人間の生き方の一つの真実として、社会に飛び込み、同化し、それによって自分自身の立場を向上させていくこと、という方向性が示されています。
この考察が、「掟の前で」の解説でも非常に参考になります。というのも、多くの人が勘付いてはいるように、「掟」とは社会である、ということも可能だからです。二つの作品の方向性には共通点があるのです。
今回の「掟の前で」を理解する上で重要なことは、言うまでもなく「掟」という概念の解釈の問題であり、これは社会、法、世間、大人など、様々に言葉を変えて理解することができますが、いずれも納得的だと私は思っています。
ただ、私の解説では、「掟」=社会という解釈を、やや言葉を変えてみることで、作品を理解することを試みていきます。
(b)「掟」とは?
早速ですが、私の解説における「掟」とは「命令すること」です。「掟」は門の向こう側にあるものと読み取れますが、門の向こう側の世界は、「命令する側の人間」の世界と言えます。
ここで、簡単に作品の内容を確認しておきましょう。掟の門の前には門番が立っていますが、そこへ田舎の男がやってきました。男は掟の中に入りたいのですが、門番が駄目だと言うので、いいと言われるまで待つことにしました。
男は門番に贈り物を送ったりして、何とか中に入りたいのですが、禁止され続け、とうとう老いてしまいました。死に際で、今までの経験が収束して、一つの疑問になりました。「みんな、掟のところにやってくるはずなのに」、「どうして何年たっても、ここには、あたし以外、誰もやってこなかったんだ」。
門番は言いました。「ここでは、ほかの誰も入場を許されなかった。この入口はおまえ専用だったからだ」。そう言うと、門番は門を閉めにかかるのでした。
男は門の中に入りたかったのですが、結局、駄目と言われ続けて、生きている内に中に入ることはできませんでした。門番は最初に「いまはだめだ」と言っているので、いつかは入ってもいいかのように捉えられます。が、結局駄目でした。
では、どうすれば男は門の中に入れたのでしょうか。その条件は、実は特にないのだと私は考えます。門番はいますが、門は開いているので、男は気にせず門の中に入ればよかったのです。
しかし、男は門番が怖いので、中に入りませんでした。その理由の一つは門番の見た目です。毛皮のコートを着て、鼻が大きくとんがっていて、長くて細くて黒い韃靼(だったん)ひげを生やしている門番を見て、男は「よし」と言われるまで待つことを決めたのです。
ここで分かることは、門番がいかにも男性社会的なイメージを喚起することと、男が命令によって動く存在であること、の二つです。
男性社会というのは、男性が命令する権利を行使しながら周りを動かすことで成立している世界です。この世界で世間的に立派と思われるためには、自分自身も命令する側に昇る必要があります。しかし、男はその入口に留まって、門番のいうことを大人しく聞いています。
だから、男は死ぬまで門の前に留まって、命令される側の人間として生き、むしろ、死ぬ前には「子どもっぽくなった」と書いてあります。これは、男が掟の門をくぐり、自分も人に命令する側の人間になりたいと思いながらも、正しい方向性の努力をしなかったことを意味しています。
というのも、男は門番に贈り物を送ったり、自ら命じるのではなくて、お願いによって生きていく態度を取り続けました。これは、自ら主体的に動き、命令によって周りを動かしていく、男性社会における立派な人間像に反します。命令する男性を大人と言うのであれば、男は子どもに過ぎなかったのです。
さて、これは象徴的な解釈になってきますが、門番というのは男の自意識の中の、男に決断を躊躇させる部分であると考えられます。簡単に言えば、他人の目を気にしてしまう自分のことです。
作中の説明によれば、掟の世界には門番が複数いて、先に進むほど、門番も恐ろしくなっていくようです。なので、男が対峙している門番は一番優しいと言えるのですが、男はこの段階で、もう先に進めません。
男が門をくぐるための条件は、実はないのだとすでに述べましたが、実際問題として男が掟の世界への第一歩を踏み出すために必要だったものは、ただ「ふてぶてしさ」に過ぎなかったと言えます。要は、掟の世界の第一段階、最初の門番と同じくらいの地位の人間たちの間で、当たり前のように対等を主張する「ふてぶてしさ」です。
他人に命令する権利、というものは微妙なもので、ごく粗野な段階で言えば、そのような権利はただ「ふてぶてしさ」さえあれば得ることができます。男がまず始めにクリアするべきだった段階は、自分が命令する側の人間である、という特に理由のない自意識の問題でした。
ただ、作品の結末を重要視すれば、男に必要だったものは単純な「ふてぶてしさ」ではなかったかもしれません。
男は死ぬ前に、門番によって、目の前の門は自分専用のものだったと告げられているのですが、これは、門をくぐるか否かが、自分自身の自意識の問題であるということを意味しています。
ただ、男にはそのような真実を知る必要があったので、男はその「ふてぶてしさ」を得るために、経験を積み、知識を得て、人間として成長する必要があったのだと考えることができます。
いわゆる「ふてぶてしさ」などはごく粗野な人間でも身に着けることができるものなのですが、この男の場合、そのような解決ができなかったのでしょう。これは、カフカ自身が粗野な「ふてぶてしさ」では自意識の問題を解決できそうになかったことの表れではないかと思われます。
(c)更なる考察
今回の「掟の前で」にしろ、「あるアカデミーでの報告」にしろ、現代社会における生き方の一つの真実として、社会に飛び込み、同化し、それによって自分自身の立場を向上させていく、という方向性が示されていることは、すでに述べた通りです。
それはまさに、男性社会、あるいは大人の世界で生きていかなければならない現代人の人生に対する、カフカの一つの洞察です。
しかし、社会に埋没して生きるという方向性は、確かにその社会的な利点も否定しがたいところですが、それが人間の人生の理想であるかどうかと言えば、そうとばかりは思えません。というより、カフカ自身がそのような生き方を否定しているようにも思われるのです。
新潮文庫から出ている『絶望名人カフカの人生論』という良書から、カフカ自身の言葉を引用してみます。
この前、ぼくが道ばたの草の繁みに寝転ぼうとしていると、
仕事でときどき会う身分の高い紳士が、
さらに高貴な方のお祝いに出かけるために、
着飾って二頭立ての馬車に乗って通りかかりました。
ぼくは真っ直ぐに伸ばした身体を草の中に沈めながら、
社会的地位から追い落とされていることの喜びを感じました。
重要な点は、カフカが「社会的地位から追い落とされていること」の喜びについて言及していることです。
明らかに、「掟の前で」の田舎の男の一つの到達点は、上記の引用で言えば「身分の高い紳士」あるいは「さらに高貴な方」でしょう。掟の世界の奥の奥には、そういう世界が待っているはずです。
にも関わらず、カフカはその外縁にいることに、むしろ満足しています。この「掟の前で」では、「命令する側の人間の世界」の一員になることが一つの人生の真実であるかのように書かれているのですが、カフカ自身はそれを否定、あるいは拒否する人生を生きているのです。
ただ、カフカの内面世界は、非常に微妙な問題で揺れていたように思われます。カフカはこんな言葉も残しています。
避けようとして後ずさりする、しかめっ面に、
それでも照りつける光。
それこそが真実だ。ほかにはない。
カフカが「真実」と言う時、私は一応、初めに「文学」を想起するのですが、もしかすると、「掟の前で」の男にとっての掟は、カフカにとっては、否定しつつも無視することのできない真実であったかもしれません。
カフカにとっての真実は、自分自身の内面世界を表す「文学」という方向性と、およそ大人であるからには男性社会において生きていかなければならないという、どちらかと言えば現実的な方向性との間で揺れていたように思います。
田舎の男は死ぬ前、「掟の門扉から消えることなく漏れてくるひと筋の輝きに気が付いた」と書いてあります。その輝きは、カフカが否定しつつも、内心では憧れのような気持ちを捨てきれない、世間一般の基準で立派な社会人たちの世界から漏れてくる光だったのかもしれません。
3. さいごに
以上、カフカ「掟の前で」を解説させて頂きました。
カフカの難しさの一つは、カフカが自分自身で納得できる理想を中心にして作品を書いているのではなくて、内心不満を感じている現代社会の姿の方を、一見「真実」であるかのように書いて見せていることにあると、私は感じます。
カフカが現代社会を否定しているのか、していないのか、作品を読んでも今一つはっきりしません。ただ、カフカが作品で示す「真実」は、理想とは言えないながらも、現代人にとって、やはり無視することができない人生観だったりします。
その「真実」の提出の仕方がなかなか真似し難いことから、カフカは現代文学において不動の地位を占めているのではないでしょうか。よく読んでみると、なかなか苦しい作品が多いのですが、それだけ、現代社会におけるカフカという作家の重みは増してくるものと思われます。
4. 参考文献
カフカ「掟の前で」『変身/掟の前で 他2編』(光文社古典新訳文庫)
頭木弘樹編訳『絶望名人カフカの人生論』(新潮文庫)