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【あらすじ】梶井基次郎の作品「桜の樹の下には」の解説寄りの感想です。

満開の桃色の桜の画像

 

今回は夭折の作家・梶井基次郎の「桜の樹の下には」を読んだので、その感想を書いていきたい。あらすじと解説を含むため、梶井基次郎や「桜の樹の下には」に興味のある読者はぜひご一読されたい。その上で実際にお手に取られても、この記事の内容で満足して頂いても、私としては幸いである。

 

1.「桜の樹の下には」のあらすじ

桜の樹の下には屍体が埋まっている!

これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。

語り手の「俺」は「桜の樹の下には屍体が埋まっている」という発見を、「お前」を相手に語っている。「お前」とはおそらく、桜の美しさが信じられないで不安だったすこし前までの「俺」のことである。

どんな樹の花でも満開の頃は、どこか神秘的な印象を与えるものであるが、「俺」を陰鬱な気持ちにしたのも、まさにそれ故だった。しかし、「俺」はやっと、その気持ちからおさらばすることができた。

馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛して蛆が湧き、堪らなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪な蛸のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚めて、その液体を吸っている。

これを「美しい透視術」と「俺」は言う。

このような幻視に成功して初めて、「俺」は「あの桜の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑め」るような気がした。

 

2.「桜の樹の下には」の感想

この作品は「檸檬」の一つの変奏である。

桜の樹の下には屍体が埋まっている――この着想から「黄泉」に連想を繋げていくことは容易いようだが、我々が理解せねばならないのは「黄泉」そのものではない。

桜の樹の下に屍体が埋まっているように、作者の魂も掘り起こしていけば、そこに死者の腐乱を見ることができる。現世と黄泉とは風穴により繋がっていると言うが、何が作者にとり風穴であったのか。それはすなわち、作者の傷を知ることである。

ところで、小林秀雄は「檸檬」を評してこう述べている。

「これは言うまでもなく近代知識人の頽廃、或いは衰弱の表現であるが、(尤も今日頽廃或いは衰弱の苦い味をなめた事のない似而非(えせ)知的作家の充満を、私は一層頽廃或いは衰弱的現象であると考えている)、この小説の味わいには何等頽廃衰弱を思わせるものがない。」

よく知られているように、「檸檬」の主人公は「えたいの知れない不吉な塊」に心を圧迫されながら、京都の街を彷徨していた。小林秀雄はここに「近代知識人」特有の心身の衰弱を見るのである。そして、それに対する「似而非(えせ)知的作家の充満」という表現に、正統の「近代知識人」としての、小林秀雄の自負を読んでもいい。

梶井の「橡(とち)の花」にこんな一文がある。

俗悪に対してひどい反感を抱くのは私の久しい間の癖でした。そしてそれは何時も私自身の精神が弛んでいるときの徴候でした。然し私自身みじめな気持になったのはその時が最初でした。梅雨が私を弱くしているのを知りました。

ここには、まさに近代知識人の「衰弱の表現」を見ることができる。梶井は「衰弱の苦い味」をこの時まさになめているのである。小林秀雄の批評は何よりもまず、己に近い体験を共有する者に対する仲間意識なのである。

そして、彼らをして、一流の「近代知識人」足らしめたのは、彼らの青年期を特徴付けたある種の苛烈さである。言うまでもなく、彼らの苛烈さは彼ら自身の感覚する世界の絶対性に由来している。

同じく「橡の花」の中で、ある友の言葉に梶井は言及する。

友はまた京都にいた時代、電車の窓と窓がすれちがうとき「あちらの第何番目の窓にいる娘が今度自分の生活に交渉を持って来るのだ」とその番号を心のなかで極(き)め、託宣を聴くような気持ですれちがうのを待っていた―そんなことをした時もあったとその日云っておりました。そしてその話は私にとって無感覚なのでした。そんなことにも私自身がこだわりを持っていました。

友の語る青春の回想は、そのまま主人公の回想であったとして、何ら不思議ではないように思われる。しかし、主人公は「こだわり」を持っていて、友の話には「無感覚」だったと言っている。ここに、主人公の自身の感覚世界に対する、ある種の頑迷さを読むことができるであろう。

頑迷さはそのまま自負となり、苛烈さとなり、彼らの美の世界は稲妻の如き野生と共にいよいよ美しさを増してゆく。一方で、獣のごとき自負は心身を衰弱させ、苛烈さはそのまま弱さに反転する。

作者は「桜の樹の下には」の冒頭に近い部分でこう書いている。

どうして俺が毎晩家へ帰って来る道で、俺の部屋の数ある道具のうちの、選りに選ってちっぽけな薄っぺらいもの、安全剃刀の刃なんぞが、千里眼のように思い浮んで来るのか―

かつて美と共にあった苛烈さは、いつか作者の心身を穿っていた。それが作者にとり風穴であった。作者は見るも哀れに衰弱している。精神の傷からは黄泉の腐乱した臭気が漏れ出し、作者の眼は陰に冒され黄泉に沈むのである。が、それが同時に、作者の「透視術」の秘密でもあった。

この渓間ではなにも俺をよろこばすものはない。鶯や四十雀(しじゅうから)も、白い日光をさ青(お)に煙らせている木の若芽も、ただそれだけでは、もうろうとした心象に過ぎない。俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺の心象は明確になって来る。

付け加えておくと、創作に近い頃、梶井はボードレールに親しんだらしい。言われてみれば、ここに見られる作者の美意識は『悪の華』的でもある。実際、梶井が自身の美意識を「苛烈な陶酔」として描いたことは、私の知る限りでは他にない。

桜の樹の下には屍体が埋まっている――作者の内では、満開の美しい桜は高天原の女神たちの姿と結びつくことはなかった。そうではなく、作者はむしろ、桜の影に自己を見出そうとした。それは青空に匂う花弁から冷たく湿る地下へと視点を転じることで可能になった。

梶井基次郎の文学は偏(ひとえ)に作者の感覚の鋭さによって、その輝きを保証されていると言えよう。それだけの感覚を働かせるためには、作者の内では絶え間ない精神の緊張が必要であったと想像できる。

その緊張を繋ぐ呪具的な役割を果たしたのが「黄泉」であった。しかし、言うまでもないことであるが、梶井基次郎の作品はおどろおどろしい陰の文学ではない。絶望を語っていても、そこに朝露のように澄んだ真実の印象を与えてしまうのが、彼の文学の特徴なのである。

まるで桜だ、とここに来て私は思う。なるほど、梶井基次郎の文学とは青空に匂う満開の桜なのである。そして、その下には屍体が埋まっている。

今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑めそうな気がする。

苛烈な自意識によって感覚の神秘を開いた作者は、その代償として、匂い立つ美しさの裏側に黄泉の臭気を忘れないことを自己に課すのである。

 

3. 参考文献

梶井基次郎「桜の樹の下には」他『檸檬』(新潮文庫)

 

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