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坂口安吾「私は海を抱きしめていたい」解説&感想

海の画像

 

今回は坂口安吾「私は海を抱きしめていたい」の解説と感想です。

この短編小説は「私はいつも神様の国へ行こうとしながら地獄の門を潜ってしまう人間だ。......」という書き出しから始まっています。

坂口安吾の小説は基本的に知的に抑制されていると私は思っていますが、この冒頭の部分には、作者の心と言いますか、そのありのままの姿が力強く表れているように感じられて、私は一度に引き込まれました。

前回の「外套と青空」と近しいところもありながら、今回の作品には一つの美的とも言える到達点があるのではないかと思います。

この記事ではその点も踏まえ、坂口安吾の「私は海を抱きしめていたい」の解説と感想を書いていきますので、是非お付き合い下さい。

 

1. 解説と感想

前回の「外套と青空」の感想の際もそうでしたが、今回の作品の題である「私は海を抱きしめていたい」という言葉もまた素敵で、坂口安吾らしい感性だと感じました。

ただ、どちらの作品の題も一見さわやかに思われるものの、作品の実際の内容は切実であり、希望や幸福との繋がりを見出すことのできない主人公の苦しみを読み取ることができます。

今回の作品の主人公は「私」であり、肉体関係にある元娼婦の「女」を通して、肉欲の浄化らしきものを予感し始める、というのが作品の大体の筋でしょうか。

主人公はその肉欲の浄化というものを、まず、女の娼婦であったための不感症の身体に見出し、女と海に出かけた際、その海を大きな身体として、女に感じたのと同じ浄化を予感します。

今回の作品の題は先にも述べた通り、一見さわやかでもあり、あるいはロマンティックでもあるのですが、以上の通り、この題には、主人公の肉欲からの解放への想いが込められています。

とはいえ、前回の「外套と青空」での、主人公の最終場面での想いが肉欲への嫌悪であったとするのであれば、「私は海を抱きしめていたい」での主人公の想いは、単なる肉欲への嫌悪、あるいは肉欲からの解放への希求を超えて、孤独な魂ないし孤独そのものが持つ美のようなものへの到達を読み取ることができる、そう私は思います。

ここで、この作品の主人公がどのような人物であるのか確認しておきましょう。

先にも引用した通り、この作品は「私はいつも神様の国へ行こうとしながら地獄の門を潜ってしまう人間だ」という書き出しで始まります。

少し先では「私はずるいのだ。悪魔の裏側に神様を忘れず、神様の陰で悪魔と住んでいるのだから」とも書かれており、何か謎めかしたようなことが語られているようにも思われます。

この部分の読解は容易ではないかもしれませんが、その鍵となりそうなのは「私は結局地獄というものに戦慄したためしはなく、馬鹿のように落付いていられるくせに、神様の国を忘れることが出来ないという人間だ」という一文です。

地獄というのは、主人公の生活の想像上の結果と言えるでしょうか。

主人公は元娼婦の女の肉体だけを求めるような頽廃的な生活をしたり、あるいは、これは想像ですが、欲望のままに、それが破滅的であることなど厭わずに生きていけるようなところがあります。

主人公のこのような部分を、仮に悪魔的と名付けるとしましょう。さて、しかし、主人公は決して悪魔的であることだけに人生の満足を感じ切る人間ではありません。

すなわち、主人公は地獄に向かっていき、自らその住人となり切ることが出来ず、いつでも「神様の国へ行こうということを忘れたことのない甘ったるい人間」だったのだと言うことができます。

地獄が人生の希望を見いだせない中での欲望の追求であるのだとすれば、神様の国というのは、希望や幸福、あるいは純粋な自愛の向かう先であると考えられるのではないでしょうか。

地獄的な欲望の追求が破滅的であり、結局のところ自罰的でもあるにも関わらず、主人公は「神様の国」を想い、主人公には「甘ったるい人間」と感じられるような、自分が可愛い気持ちを持ち続けているわけです。

主人公は自分が可愛い気持ちを持っていたのですが、そういう気持ちは、自分は誰かに助けてもらえるという気持ちに繋がってくるものです。

その気持ちに良い悪いということは全くありません。しかし、主人公は悪魔的に振る舞っておきながら、同時に「神様の国」を想うことで神様の助け、あるいは正しい希望を期待してもいて、そのことがずるさとして意識されていたようです。

簡単に言い直すとすれば、助けてもらえる資格のない生活をしていながら、自分は助けてもらえる人間だと同時に感じてもいるような甘えのような部分が、主人公にはずるいように思われたわけです。

そのため、主人公は「今に、悪魔にも神様にも復讐されると信じていた」らしく、その時には「悪魔と神様を相手に組打ちもするし、蹴とばしもするし......」ということを言っています。確かに、これは「悲愴な覚悟」であると言えるでしょう。

ただ、このような気持ちはある時を境に薄らいでいったようです。それは、元娼婦の女の肉体を得ることができたからです。主人公は彼女の肉体に許しを感じ、これまでの味方のいない中での想像上の奮闘が必要なくなったわけです。

冒頭部分との繋がりで言えば、この女は主人公を変え、一つの到達点へと導いたとも言えると思うのですが、主人公にとって、この女は恋愛の対象ではなく、例えば「頭が悪くて、貞操の観念がない」とか「ガサツな慌て者」などと言っています。

ただ、主人公は女の身体を美しいと思い、彼女は不感症でしたが、反応がないだけにかえって主人公には都合がよかったようです。おそらく、主人公は女と共に肉欲に耽るということはしたくなかったのでしょう。

これは「外套と青空」にも見られる肉欲への嫌悪であり、欲望は確かに存在しておりながらも、それから目を反らしながらでなければいられない、ある種の自意識の傲慢を読むことができると思います。

そして、主人公は女の身体に、次第に「清潔」を感じるようになります。「私は私のみだらな魂がそれによって静かに許されているような幼いなつかしさを覚えることができた」と主人公は語ります。

主人公と女の関係は恋愛ではなく、主人公の肉欲は愛情とは関係のないものと言ってもいいでしょう。そのためでしょうか、もし、彼女が主人公の肉欲に身体で応えたのであれば、彼らは共に汚れていったものと考えてもいいのかもしれません。

しかし、彼女の身体は「清潔」であり、その反応のない反応が、主人公に許しを感じさせることになったようです。「幼いなつかしさ」という言葉があるように、それは何かいたずらを許されているような感覚なのでしょうか。

さて、少し意地悪な言い方をすると、主人公は女の身体が不感症なのをいいことに玩弄していて、女がおそらく普通の愛情を求めている一方、主人公はそんな関係はありえないと決めつけて、肉体的関係だけを求めています。

少々傲慢にも思うのですが、主人公はやはり「魂」という言葉を使用しています。よくあるように、主人公は女の方は放蕩で精神的なものは求めないものと決めつけている一方、おそらく女の身体が「清潔」であるのと同じく、自分の魂には「清潔」を求めているようです。

ただ、その相手に対する愛情というものを欠いた精神性という概念の傲慢さについては置いておくとして、確かに、主人公は女の不感症の身体を通して、一つの美的とも言える到達点に達したものと考えても良いだろうと思います。

つまり、彼は結局、他者との関係の中にある愛情ではなく、魂の孤独が行き着く先を予感し、そちらに向けて惹かれていったのだと言うことです。

それは、すなわち、悪魔的な欲望の追求という自罰でもなく、他者からの助け、あるいは他者との結びつきという希望でもなく、許しを受けた、浄化された孤独な魂そのものが放つ光を抱いて生きるということです。

主人公は女が「あなたが私の魂を高めてくれなければ、誰が高めてくれるの」と言うのを「虫のいいことを言うものじゃないよ」と一蹴していますが、このような自分の持つ愛情も他者からの愛情も信じることのできない自意識の見出した答えが、肉欲の浄化であったようです。

主人公は作品の最後で「私は肉欲の小ささが悲しかった」と言っています。それは満足が小さかったということなのですが、より正確には、その満足がすぐに消えてしまうことを言っているのだと思います。

だから、主人公はそのような不確かな満足には虚しさを感じていて、最初は女の身体に肉欲の浄化の可能性を見出し、最後には海にそれを見出します。

そして、肉欲の浄化された後に残るのは「清潔」となった孤独な魂です。

主人公は「私は海をだきしめて、私の肉欲がみたされてくれればよいと思った」と言っていますが、抱きしめた水の中に本当にあるのは、彼自身の孤独な魂なのではないでしょうか。

孤独の美というものは、作品中で語られているものではありませんが、この作品の解釈を肉欲からの解放の一点に求めてしまっては、この作品に漂うある種の美観を十分に組み尽くせないように思われます。

作品の冒頭からは主人公の心が感じている、味方の存在しない状況での焦りが生々しく感じられましたが、女の身体を通して、主人公はある種の安心の境地に限りなく近づくことができたようです。

それが主人公にとっての真の幸福であるか、ということについては様々な意見があることでしょう。

ただ、主人公が女に対してこぼした「自分のことは、自分でする以外に仕方がないものだ」などというような、俗らしい個人主義と比べれば、主人公が最後に到達した孤独な魂の美というものには、確かにある種の精神的な魅力があるものです。

擦り切れた習慣的な思考と、無定形の、目に見えない精神的な力には大きな違いがあるものですから、この作品の主人公は「外套と青空」の主人公とは違い、女との肉体関係から自らを飛躍させる何物かを得たものと言っていいでしょう。

もちろん、その美観に危うさを感じないこともありませんが、やはり単なる頽廃を頽廃と描くだけの私小説とは異なる魅力が、この作品にもあるものと私は感じます。

 

2. 参考文献

坂口安吾「私は海を抱きしめていたい」『白痴』(新潮文庫)

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