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白樺派・武者小路実篤の作品「真理先生」の解説的感想です。

この記事のイメージ画像として水墨画

 

1. 武者小路実篤「真理先生」の感想

今回は白樺派の代表的作家・武者小路実篤の「真理先生」を読んだので、その感想を書いていきたい。あらすじと解説を含むため、武者小路実篤や「真理先生」に興味のある読者はぜひご一読されたい。その上で実際にお手に取られても、この記事の内容で満足して頂いても、私としては幸いである。

武者小路実篤と言えば、言わずと知れた白樺派の代表的作家で、私達はすぐに理想主義だとか人道主義だとかいう言葉を思い起こす。しかし、実は、武者小路は太平洋戦争には作家として協力する立場であったらしい。そのため、武者小路は占領当局から公職追放を受けている。

公職追放が解除されたのは1951年のことであるが、武者小路が「真理先生」を書いたのはその間のことである。武者小路はこの作品を1949年から翌年末にかけて、自身が主幹した『心』誌上に連載した。連載開始の年、作者は64歳であった。これが武者小路の戦後の代表作である。

武者小路が戦争に協力する立場であったことは驚き、というより、理想主義や人道主義という言葉が念頭にある我々には不思議である。が、元より、武者小路の中にあるそれは一心に潔癖を追求するようなものでもない。そのことは「真理先生」を読むことによっても明らかである。

この作品の主人公は山谷という老年の男である。といって、山谷が何をするわけでもないのであるが、我々は観察者である彼の眼を通して、真理先生をはじめ、変わり者の周辺人物たちの様子を追っていくことになる。作者老年の作品であるからかどうかは分からないが、みな老年の男たちである。「友情」の登場人物たちがみな若者であったことと比べると対照的と言える。

私は「変わり者」と言ったが、それは真理先生はもちろん、それぞれ画家や書家の馬鹿一、泰山、泰山の兄・白雲子のたちがみな、世間と足並みを揃えることなく、自身の大願をのみ追って、それに満足しているということである。これが「真理先生」の中心思想であると言っていい。この作品では、小難しいことは抜きに、武者小路の思う人間の理想の生き方が描かれているのである。

重ねて言うが、本当に、小難しいことは抜きに、なのである。「真理先生」という作品の題を聞いて、少しも身構えない読者は少ないだろう。その点、冒頭で山谷が読者の感情を代弁してくれている。すなわち、山谷自身も始め、噂に聞く真理先生などは「誇大妄想狂のように思われたし、偽善者のようにも思われたし、道学者の出来損いのようにも思われ」虫が好かなかったのである。

が、どうやら、山谷は実際に真理先生を一目みると、それまでの警戒はふっと消えてしまったらしい。その理由は色々あるかもしれないが、その一つは、真理先生の考えていることが小難しくなく、平易で、奇を衒ったり、権威主義的であったりしなかったからだろうと思われる。真理先生にはお弟子さんが数十人いるのだが、彼らが人を殺すことについて質問したときなどは、以下のようであった。

あなたが殺されていい時がありますか。あなたは殺されていい条件があれば、それを聞かして下さい。あなたがどんな時でも殺されるのがいやなら、少なくもあなたは人殺しをしてはいけない。

別段、何てことはない答えであろうと思う。一応、真理先生は、人を殺そうとする人間は自分が殺されてもいいと考えている人間だから、そういう相手に対してはその限りではないとも断っているのだが、こういう簡単な考えがしっくりくる瞬間さえあれば、難問も決して難問ではないのである。私たちは理屈が小難しいほど知性的であるように感じがちであるが、そうとばかりは言えまい。

真理先生の考え方が以上の通り平易であるから、弟子のある者はいつか、「先生の考えは実に平凡だ」と言ったらしい。それに対して、真理先生はすまして「ありがとう」と言いつつ、以下のように続けた。

僕はあたりまえのこときり言いたくない。今の人はあたりまえのことを知らなすぎる。何でも一つひねくらないと承知しない。(…)あたりまえでないことを尤もらしく言うと、わけがわからないので感心する。こういう人間が今は多すぎる。僕はそんな面倒なことをする興味は持てない。

なかなか現代人にも刺さる言葉であろうと思う。我々は理屈の複雑さや、その複雑さの背景にある感情の屈折をもって個性や知性であると誇りがちである。そういう誇りの持ち方は案外老年になっても継続するものであるらしい。ところが、真理先生にはそういった類の気負いは全くない。そして、真理先生の周囲に集まる人間たちは、世間の見せる複雑さからは離れて、先生流の平易で良しと納得しているのである。

真理先生の立場は平易ではある。が、それがかえって先鋭的であると言えないこともないだろう。だが、真理先生を慕う人間たちは決して、先生の言葉の内に鋭い刺激を求めているのではない。そうではなく、彼らは真理先生を訪ねると、不思議と明るい気持ちになれ、こだわっていたことも忘れられるような、そういった感覚になるのだ。単純に真理先生の人柄を慕っているのである。

真理先生の慕われっぷりは相当なもので、先生は別段一般に有名であるわけではないにも関わらず、真理先生の後援会というものがある。後援会の人たちは先生の食事やお金などの問題を管理していて、先生当人はお金の心配をする必要がない。どころか、真理先生自身はお金を持たない。それでも生活が成り立っているので、真理先生は人々に慕われて幸運な人間だと言っている。先生の人徳である。

だが、かといって真理先生はキリストだとか釈迦だとか、あるいは孔子だとかいった完全無欠の聖人ではない。真理先生自身が自覚しているように、先生は完璧な人間とは言えない。そうではなく、より真理に近づくことができるように、日々心掛けているに過ぎない。ここで先生が決して完璧な人間を自称しているわけではないことを確認しておきたい。真理先生の言う「真理」については後述することにしよう。

相手がどう出ようが、自分はいつも正しい姿でいられる人間、そうなりたいと僕は思うのだが、時々自分でも恥かしくなるように興奮することがある。(…)僕はまだだめな人間だと思わないわけにはゆかない。だが自分が駄目な人間だとわかるうちは、進歩が出来ると、まあ思いはするが、恥かしい話さ。

真理先生の人柄については一旦止めて、作品の内容について少し見ていこう。この作品の話の筋は実は真理先生ではなく、馬鹿一という老年画家を中心に展開する。彼は真理先生たちからは「石かき先生」と呼ばれている。それは、彼が四十年以上もの間、石ころとか雑草とかばかり描いてきたからである。

馬鹿一の絵は決して上手くはない。周りからは侮られ続けてきた。しかし、真理先生は一目みて、彼の絵の魅力を見抜いた。どうやら、石や雑草を見る目に誠実なところがあったらしい。それに、対象に対する愛情が感じられたようだ。真理先生に絵を褒められた馬鹿一は非常に喜んだ。

馬鹿一は動かない石や雑草ばかり描いて、人間を書く事を恐れていたが、真理先生や画家の白雲子らの思惑が重なって、ついに馬鹿一も人間を書き始めた。彼の家にモデルの女性が出入りすることになったのである。それから、馬鹿一は自分の今までの絵の不正確さを自覚して、本物になるべく臍を固める。そして、馬鹿一は段々と絵を上達させていくのである。

話の大筋は、実はこんなところなのであるが、もう一つ大きな話の展開を紹介するとすれば、それは愛子という女性と白雲子の息子が結婚することになることと、馬鹿一のところに出入りしたモデルの杉子と、馬鹿一の弟子のような男の稲田が恋人関係になることだろうか。この二組の男女を結び合わせたのは、図らずも主人公の山谷であった。そのため、山谷は柄にもなく関係人物たちに感謝されることになった。

私は「真理先生」を面白い、面白くないではなく、何となく読み心地がよい一心で読み進めていった。一応、話は展開し続けているが、その筋が重大とも思っておらず、夏目漱石の「吾輩は猫である」を読んだ時のように、のんびりページを繰っていた。あとは時々書かれている真理先生の言葉に注意していたに過ぎない。

だが、終盤の場面で、馬鹿一の家に山谷、愛子、杉子が集まり、馬鹿一が杉子や愛子がモデルになってくれたことに感謝して、「今日、この室の美しさ」という言葉を紙切れに書いて、みなに見せた時、私は作者の力量にはっとさせられた。それほど自然に手繰り寄せられていった場面の美しさなのであった。この作品はただ真理先生の言葉に注目させるためだけのものではなかったのである。

が、やはり読者は真理先生の言う「真理」とは何なのかについて一番興味を示すに違いないから、最後にその「真理」について見ていこう。その点に関しては、真理先生は作中で何度か説明してくれているのであるが、やはり作品の結末部分の言葉を参考にするのがよかろうと思う。これは「真理の力」をいう題目で人を集めて真理先生が述べた内容である。以下に引用してみよう。

つまり私達は、すべての人間が完成されることを望み、その方に向って前進することを真理に要求されているのです。この真理を目ざして、私達は自分相応の力で前進することを心がけることが出来れば、その人は真理を愛する人だと言うことが出来るのです。

すなわち、真理先生の言う「真理」とは、人間は自己完成に向って前進するものであるという認識である。いや、人は自己完成など目指さずとも生きていかれるので、様々な原因から多くの人がそこからかけ離れた生活をしているのだが、自己完成を敢えて追求することを己に課した者を、真理先生は「真理を愛する人」と呼ぶ。が、そもそも「自己完成」とは何なのであろうか。

実は、これはそう仰々しいものではない。もっと前の場面から引用してみよう。

内からあふれる生命力、先ず私はそれを信じるのです。本来の生命、自然はそれに何処までも生きよと命じているのです。この命令は我々にとって絶対と言っていいのであります。

自己の生命力に従って生きること。これが人生である。そのような生き方を完遂するために努力し、自己改善していくこと。これが「自己完成」の意味である。政治・社会的な意味合いと言うよりは、芸術家的な発想であることが分かる。実際、自己の生命力に従う生き方の端緒を作中で見せてくれているのは、馬鹿一、泰山、白雲子といった芸術家たちである。

見て頂いた通り、真理先生の言う「真理」は案外平易なものである。「真理」という言葉の代わりに「道」と言ってもいい。つまり、生き方である。生き方であるから、必ずしも頭で理解する必要もなく、それらしく生きていられればいい。いくら平易で物足りなくても、それ以上複雑である必要がないのである。

この作品の思想は目新しいものではないかもしれない。話の筋も劇的ではなく、読者の感情を強烈に刺激するものではない。しかし、作中の登場人物たちの言動から成る物語世界は、不思議と愛おしい。そして、不思議な読後の満足感がある。読者は真理先生の言葉の真偽など詮索する必要はない。ただ、変わった人達もいたものだと呆れていればいいのである。

 

2. 参考文献

武者小路実篤「真理先生」『真理先生』(新潮文庫)

 

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