Lian's Skyblue Pencil

主に文学作品の鑑賞によって「教養」をゆるりと追求していきます(りあん)

学生時代最後の作品・梶井基次郎の短編「Kの昇天」の書評です!

梶井基次郎の「Kの昇天」のイメージ画像。月夜の砂浜の画像。

 

1.「Kの昇天」について

この作品は1926年に雑誌『青空』10月号において発表されました。

梶井は前年に同誌創刊号において処女作「檸檬」を発表しています。

梶井が「Kの昇天」を発表した頃には、彼はまだ東大英文科に在籍しており、活動の拠点は東京にありました。

しかし、すでに結核の病状の悪化が見え始めており、この年の夏には「左右肺尖に病竃(びょうそう)あり」との診断を受け、更に秋頃からは血痰を吐くようなりました。

同年、友人の勧めもあり、梶井は東大を中途退学し、伊豆・湯ヶ島の温泉宿での療養生活に入ります。梶井がその地を選んだのは、そこに当時の新進作家・川端康成が逗留していたからとも言われます。

この作品で語られているのは、月光を背に受けて砂浜に映っている影を見ていると、それが生き物であるかのように見えてきて、月光を遡って、魂が月の世界へ昇天してゆくようだという、儚くも鮮明な感覚です。

梶井の作品では様々な感覚が語られていますが、「Kの昇天」を含め、それらは単なる作者の束の間の印象の記録を超えて、読者の心の内に絶対的な形で浮かび上がります。

この作品における、砂浜に映る生き物のようは影は、現実に対する仮象の世界を象徴するものと言えます。しかし、梶井がその仮象について語る時、たちまち現実と非現実の立場は入れ替わってしまい、読者は反転した世界の内に真実を見ます。

梶井の作品そのものが、一種の仮象の趣きを持っていると言えます。それは目に見える世界にではなく、私たちの心が何かを映し出した時の、その揺らぎのような世界に、その存在の根拠を置いているように思われます。

 

2. 「Kの昇天」のあらすじ

ある人物からの手紙の中で、Kが溺死したことを知った「私」は、驚きながらも、「K君はとうとう月世界へ行った」と直観する。

逗留先のN海岸で、「私」は初めてKと出会った。病気で眠りにつけず、月明かりの中に宿を抜け出して砂浜へ向かうと、そこにKはいた。

Kは奇妙にも、砂浜を前に進んだり、後ろへ進んだり、立ち止まったりしていた。落とし物でも探しているのだろうと、「私」は一応納得する。

しばらくKを見ていた「私」は、何か大事な落とし物でもしたのだろうと思い、マッチを貸してやりにKの下へ歩いて行った。

それが「私」とKとの出会いだった。

聞くと、Kは落とし物を探していたのではなく、自分の影を見ていたのだと言う。

影程不思議なものはないとK君は言いました。君もやってみれば、必ず経験するだろう。影をじーっと見凝めておると、そのなかに段々生物の相があらわれて来る。外でもない自分自身の姿なのだが。(...)
「影と『ドッペルゲンゲル』。私はこの二つに、月夜になれば憑かれるんですよ。この世のものでないというような、そんなものを見たときの感じ。―その感じになじんでいると、現実の世界が全く身に合わなく思われて来るのです。」

更に、Kは不思議なことを語る。すなわち、自分の影を見ていると、そこに「自分の姿が見えて来る」。そして、

段々姿があらわれて来るに随って、影の自分は彼自身の人格を持ちはじめ、それにつれて此方の自分は段々気持ちが杳(はる)かになって、或る瞬間から月へ向って、スースーッと昇って行く。(…)それが月から射し下ろして来る光線を遡って、それはなんとも云えぬ気持ちで、昇天してゆくのです。

会うと、Kは影について「私」に熱心に語った。「私」がKと交友を持った、たった一月の間にも、Kは病気に蝕まれていっているように見えた。

溺死の真相を、「私」はこう推理する。

Kは病気でかえって精神が研ぎ澄まされていた。影はますます生き生きとしてくる。そこで、Kは無意識の内に影を追いながら、海中に足を踏み入れたものであろう、と。

影の方の彼は遂に一箇の人格を持ちました。K君の魂はなお高く昇天してゆきます。そしてその形骸は影の彼に導かれつつ、機械人形のように海へ歩み入ったのではないでしょうか。

Kの魂は月の世界へ飛翔し去ったのだと、「私」は結論した。

 

3. 書評

この作品の着想は、影が実は生き物であるということと、影が徐々に生命を持ち出すと共に、魂は身体から抜け、月光を遡って月の世界へ昇天してゆく、というものです。

影が生き物であるという着想は、実はこの作品で初めて語られるのではありません。「檸檬」と同じ年に発表された「泥濘」において既に見られます。

大きな通りを外れた、雪の積もる暗い路を歩いていると、月明かりが影を作っていました。主人公は自分の影を見ている内、「段々此方の自分を失って行った」ようです。

すると、

影の中に生き物らしい気配があらわれて来た。何を思っているのか確かに何かを思っている―影だと思っていたものは、それは、生々しい自分であった!
自分が歩いてゆく! そしてこちらの自分は月のような位置からその自分を眺めている。地面はなにか玻璃を張ったような透明で、自分は軽い眩暈を感じる。
「あれは何処へ歩いてゆくのだろう」と漠とした不安が自分に起りはじめた。......

おそらく「泥濘」のこの一文で梶井は、彼が最初に影が生きていることを感じた時のことを振り返っているのでしょう。生きている影とは「生々しい自分」であったと作者は書いています。

そして、身体の外に伸びた、自己のコントロールの外にある「生々しい自分」に、「あれは何処へ歩いてゆくのだろう」と「漠とした不安」を感じたようです。

この文章には戦慄と不安とが見て取れますが、梶井はこういう時こそ、あまのじゃく的な好奇心を発揮するところがあります。

同じく「泥濘」の中に、

夜晩(おそ)く鏡を覗くのは時によっては非常に怖ろしいものである。自分の顔がまるで知らない人の顔のように見えて来たり、眼が疲れて来る故(せい)か、じーっと見ているうちに醜悪な伎楽の腫れ面という面にそっくりに見えて来たりする。(…)
然し恐怖というようなものも或る程度自分で出したり引込めたり出来る性質のものである。子供が浪打際(なみうちぎわ)で寄せたり退いたりしている浪に追いつ追われつしながら遊ぶように、自分は鏡のなかの伎楽の面を恐れながらもそれと遊びたい興味に駆られた。

夜遅く鏡を覗くのを恐怖しながらも覗かないではいられないように、梶井は影が生きているという感覚に戦慄しながらも、その感覚を確かめずにはいられなかったと想像できます。

その一種の「遊び」が結実した作品が「Kの昇天」であると言えるかもしれません。

ただ、「泥濘」において既に「自分は月のような位置からその自分を眺めている」という一文があることからも、梶井は最初の体験で、「Kの昇天」に必要な自己観察を全て終えていたとも言えます。

梶井が体験したのは、影の側で動き出す自分と、月の側へ抜けて行く自分との分離の感覚です。そして、その中間には魂の抜けた身体が残ります。

私はここに、一つの自我論の解決を見ます。

すなわち、自我とは一種の楔であって、通常身体の中で入り混じり、渦巻いている主体の諸性質の中心点であり、それらを身体内につなぎ留めておくための重石のようなものなのです。

影を眺め、自我の重たい凝集力が緩み始めると、幽鬼のようなものは影に分離し、意識は純化され、身体を超えた地点から現象を眺め始める。

ここに身体は諸性質の牢獄という役割から放たれ、魂の抜けた柔らかい物体となる。

K君の身体は仆(たお)れると共に沖へ運ばれました。感覚はまだ蘇りません。次の浪が浜辺へ引摺(ひきず)りあげました。感覚はまだ帰りません。また沖へ引去られ、また浜辺へ叩きつけられました。然も魂は月の方へ昇天してゆくのです。

Kは「私」に、影を見ることは「阿片の如きもの」だと言っています。しかし、この作品で語られているのは、薬物体験による意識の解放を遥かに超えた、肉体を徹底的に放棄することへの願望です。

おそらく、すべての重苦しさの感覚は身体内で生じるもので、それは諸性質の不調和に原因を求められるでしょう。この世の苦しみは身体と共にあるのです。

Kはこれまで何度も昇天を試みては、失敗していたようです。

哀れなる哉、イカルスが幾人(いくたり)も来ては落っこちる。

フランスの詩人・ラフォルグの詩の一節だそうです。Kは照れ隠しのように、「私」にこの一節を漏らしました。

自我がある限り、昇天は成功しません。身体を放棄することなど叶わず、諸性質は身体内で不協和を起こし、重たい陰の気が巡り、苦しみと憂鬱を結果する。梶井はこのような現実を何度も体験したのでしょう。

この作品は梶井の逃避願望の完全なる表現であると私は考えます。

この作品が見識もないある人物から届いた手紙から始まること、その手紙で初めてKが溺死したことを知ったこと、Kが昇天して月世界へ行ったという直観は「私」の推測でしかないこと。

そして、昇天したのが「私」ではなくKであること。この作品に見られる多くの非直接性は、Kが照れ隠しで「私」にラフォルグを漏らしたのと同様に、梶井の読者への照れ隠しだったのでしょう。

梶井が救いへの願望を描く時、そこには何かはにかみのようなものが感じられます。

直観の鋭さと意志の強さとに似合わない、ある種の奥ゆかしさが、梶井基次郎の文学への参入者の層を広げていることは、私には疑い得ないもののように思われます。

 

4. 参考文献

梶井基次郎Kの昇天」他『檸檬』(新潮文庫

 

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