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梶井基次郎「Kの昇天」あらすじと解説【肉体と魂の分離】【月世界】

梶井基次郎の「Kの昇天」のイメージ画像。月夜の砂浜の画像。

 

この記事では、梶井基次郎「Kの昇天」を解説していきます。

この作品は1926年に雑誌『青空』10月号において発表されました。処女作「檸檬」発表の翌年のことです。

結核の症状の悪化が見られ始めた頃で、その後梶井は伊豆・湯ヶ島の温泉宿での療養生活に入ります。

この解説では、Kの「昇天」が何だったかを中心にして作品を理解していきます。最後までお付き合い頂ければ幸いです。

 

1. あらすじ

ある人物からの手紙の中で、Kが溺死したことを知った「私」は、驚きながらも、「K君はとうとう月世界へ行った」と直観する。

逗留先のN海岸で、「私」は初めてKと出会った。病気で眠りにつけず、月明かりの中に宿を抜け出して砂浜へ向かうと、そこにKはいた。

Kは奇妙にも、砂浜を前に進んだり、後ろへ進んだり、立ち止まったりしていた。落とし物でも探しているのだろうと、「私」は一応納得する。

しばらくKを見ていた「私」は、何か大事な落とし物でもしたのだろうと思い、マッチを貸してやりにKの下へ歩いて行った。それが「私」とKとの出会いだった。

聞くと、Kは落とし物を探していたのではなく、自分の影を見ていたのだと言う。

K曰く、影ほど不思議なものはない。月明かりによって出来た影を見ていると、その影が段々生物のように見えて来る。つまり、自分自身の姿だ。

更に、Kは不思議なことを語る。すなわち、自分の影を見ていると、影は影自身の人格を持ち始め、自分の方は意識が遠くなって、月の方へ昇って行く。月光を辿って、自分は昇天するのだ、と。

会うと、Kは影について「私」に熱心に語った。Kは、「私」が彼と交友を持った、たった一月の間にも、段々病気に蝕まれていっているようだった。

Kの溺死の真相を、「私」はこう推理する。

すなわち、Kは病気でかえって精神が研ぎ澄まされていた。影はますます生き生きとしてくる。そこで、Kは無意識の内に自分の影を追いながら、海中に足を踏み入れたものであろう、と。

Kの魂は月の世界へ飛翔し去ったのだと、「私」は結論した。

 

2. 梶井基次郎「Kの昇天」の解説

Kの言う「昇天」とは、月明かりによって出来た自分の影を見ている内に、影が段々と生き物のように見えてきて、影自身の人格を持ち、それに従って、自分の意識は遠くなってきて、魂が月光を遡って昇って行く、ということです。

少し長いですが、K自身の説明で言えば、Kは自分の影を見ていると、

自分の姿が見えて来る。不思議はそればかりではない。段々姿があらわれて来るに随って、影の自分は彼自身の人格を持ちはじめ、それにつれて此方の自分は段々気持が杳かになって、或る瞬間から月へ向って、スースーッと昇って行く。それは気持で何物とも云えませんが、まあ魂とでも云うのでしょう。それが月から射し下ろして来る光線を遡って、それはなんとも云えぬ気持で、昇天してゆくのです。

これが、Kの「昇天」体験です。Kは自分の影を見るという行為に取り憑かれているらしく、K自身、自分は「影と『ドッペルゲンゲル』。私はこの二つに、月夜になれば憑かれるんですよ」と言っています。

ここで、「ドッペルゲンゲル」と言うのは、影の内に現れて来る「生物の相」のことなのですが、Kはこれを自分自身のことと言います。そして、見ている内に、影は自分自身の人格を持ち始めるようです。

Kにとって、それは単なる錯覚なのではなく、むしろ、もう一つの現実です。Kは影を見ることに、「この世のものでないというような、そんなものを見たときの感じ」を抱くのですが、「その感じになじんでいると、現実の世界が全く身に合わなく」なってくるようです。

そのため、Kは「昼間は阿片喫煙者のように倦怠」なのだそうです。「昇天」体験はKにとって、ちょっとした錯覚に過ぎないものではないことが分かります。Kは現実の方には熱意を感じないのです。

実は、影が生き物に見えるとか、影を見ていると意識が遠くなってくる、という着想が最初に見られるのは、「Kの昇天」ではなく「泥濘」です。これは前年に発表されている作品ですが、そこでは、

影の中に生き物らしい気配があらわれて来た。何を思っているのか確かに何かを思っている。――影だと思っていたものは、それは、生なましい自分であった! 自分が歩いてゆく! そしてこちらの自分は月のような位置からその自分を眺めている。(…)「あれは何処へ歩いてゆくのだろう」と漠とした不安が自分に起りはじめた。

と語られています。「泥濘」では、梶井はむしろ影が生き物じみて見えることに不安を感じているようです。それは、自分の「生き物」の部分が影の方に移動して、意識の方は遠くなり、こちらもまた肉体から抜けていく、という感覚だと思われます。

その生き物としての自分が勝手に動き出しそうは気配を見せるので、梶井は「あれは何処へ歩いてゆくのだろう」と不安になります。

なので、「泥濘」では、梶井は自分の生き物の部分が気になっていますが、この「Kの昇天」では、影そのものよりも、魂が肉体から抜けて行く感覚の方に興味があるように思われます。

ここで、「昇天」とは肉体の放棄、あるいは肉体と魂の分離を意味しています。Kは肉体を抜け出すことに執着しているのですが、それは、Kにとって肉体が、病気や倦怠を意味するものだからです。

Kの肉体は病気と倦怠によって、気だるい微熱的状態にあったと考えてよいと思われますが、Kが「昇天」をする時は、「スースーッ」と、魂が月光を遡っていきます。これは、抑留された魂の解放なのです。

ただ、Kはラフォルグの詩、すなわち、「哀れなる哉、イカルスが幾人も来ては落っこちる」に言及していますが、Kの「昇天」も、これまでは月世界へ昇り切るまではいかなかったようです。

それが、「私」によれば、

K君の病気は徐々に進んでいたように思われます。K君の瞳は段々深く澄んで来、頬は段々こけ、あの高い鼻柱が目に立って硬く秀でて参ったように覚えています。

とあるように、段々と肉体の力も弱くなっていき、かえって「精神が鋭く尖」るに至ったKは、遂に「昇天」を遂げることになりました。ただ、これはあくまで「私」の推測に基づくもので、Kの溺死の真相は分かりません。

現実の人生は退屈だとか、倦怠だとか、あるいは絶望だとかいう感覚は、梶井の結核が進行する程強まってきますが、処女作の「檸檬」からすでに、梶井にはそのような傾向があります。

例えば、「筧(かけい)の話」(1928年)では、梶井は、

しかし私はこの山径を散歩しそこを通りかかる度に自分の宿命について次のようなことを考えないではいられなかった。

「課せられているのは永遠の退屈だ。生の幻影は絶望と重なっている」

という言葉で作品を終えていたり、現実の苦しさ、あるいは処理し難さを歎じていることが多いです。その苦しさは梶井にとって、肉体的な重苦しさとして感じられていたのではないかと思います。

Kは影を追って海の中に入っていき溺死した、と「私」は推測していますが、その想像の中でKの肉体は、

K君の身体は仆れると共に沖へ運ばれました。感覚はまだ蘇りません。次の浪が浜辺へ引摺りあげました。感覚はまだ帰りません。また沖へ引去られ、また浜辺へ叩きつけられました。

とあるように、波の為すがままであり、沖に流されたり、浜辺へ叩きつけられたりしています。このような肉体的表現もまた、重苦しい肉体からの解放を希求するものと捉えることができます。

ただ、この作品では、海間に打ち捨てられた肉体ではなく、月に昇るKの魂の方に焦点があることは言うまでもないことです。

Kの昇って行った「月世界」がどのようなものについては言及がありません。推し量るのであれば、それは、優れた感覚を持つ梶井基次郎という作家が知っていた、純粋な感覚世界だったのではないでしょうか。

 

4. 参考文献

梶井基次郎「Kの昇天」他『檸檬』(新潮文庫)

 

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