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福沢諭吉「丁丑公論」要約と解説【福沢の見る西南戦争】

西郷隆盛像の画像

 

1. 福沢諭吉「丁丑公論」とは?

今回の「丁丑(ていちゅう)公論」は福沢諭吉の評論です。この記事ではこの評論の内容紹介と解説を行っていきます。

福沢諭吉は「丁丑公論」によって、西郷隆盛及び西南戦争に対する世論を反駁しています。「丁丑公論」は西南戦争の鎮圧後すぐに執筆されましたが、実際に発表されたのは二十年以上経ってからで、1901年のことでした。この評論は『時事新報』誌上に掲載されましたが、掲載半ばで福沢諭吉は亡くなっています。

西南戦争は明治における最大の士族反乱ですが、その首領であった西郷隆盛に対する世論は厳しいものであったらしく、西郷隆盛を賊と呼んではばからない様子でした。といっても、ここで言う世論とは新聞や雑誌におけるものです。あまりに貶めるので、福沢諭吉は議論の公平を期すために、この評論を執筆しました。

当時の俗論を一つずつ反駁しているので、必ずしもその全てが現代の読者の興味を満たすとは限りませんが、啓蒙思想家としての福沢諭吉が垣間見れる部分もあり、またやや熱を帯びた文章に臨場感も感じられ、比較的手軽に読める歴史資料としてお楽しみ頂けるのではないかと思います。

未読の読者のために、まずは要約から入っていきます。「丁丑公論」の内容を知って頂けるので、ぜひ最後までお付き合い下さい。西郷隆盛や西南戦争についても簡単にご説明していきたいと思います。

 

2. 「丁丑公論」の要約

人間は専制を好む。自分の意のままに振る舞いたいからである。これは、政府に関しても同じことだ。専制の精神は人類の性である。だから、抵抗の精神も同時に必要とされてくる。にも関わらず、近年の知識人たちの間には抵抗の気概がない。政府に気兼ねしているからである。

西南戦争における西郷隆盛を、新聞記者たちは本心から賊として問題視しているように思われる。その理由は様々であるが、どれも実状を捉えるものではない。例えば、彼らは内乱は法秩序にもとるものと考えている。しかし、法とはそもそも、人民の利益のために制定されるものである。これが機能不全に陥っている時にも、法を絶対視するのは実益を無視した形式主義に過ぎない。

西郷隆盛は薩摩において、不平士族たちを長年抑え込んできたのであって、最終的に西南戦争に至ったのは、彼らの不平を解消出来なかった政府の落ち度である。政府は民権論の勢いを捉えて、民選議員の制度を整えるなど、士族らの活躍に好ましい方向性を与えるべきであった。

西郷隆盛は内乱の末自死したが、これは政府が殺したようなものである。西郷隆盛の人物は稀有であるから、日本のために大きな損失であった。西郷隆盛の抵抗の方法は学問的な要素が欠けていて、その点は惜しかったが、西郷隆盛の抵抗の精神は後世に語り伝えるに価するものである。

 

3. 西郷隆盛と西南戦争について

解説に入る前に、簡単に歴史的事実を確認しておきましょう。

西郷隆盛は、大久保利通や木戸孝允と共に、維新の三傑に数えられる、明治維新の立役者であり、明治政府初期の重要人物です。大久保利通と同じく薩摩藩の人で、倒幕の運動の中心人物でした。

大久保利通らが遣欧使節として欧米へ向かうと、西郷隆盛は日本国内に残る重要人物として、いわゆる留守政府を運営しました。しかし、明治六年の政変(1873年)により西郷隆盛は下野、数多くの兵士を引き連れて郷里薩摩に戻ります。背景には征韓論に関する意見の対立がありました。

すなわち、西郷隆盛や板垣退助などは士族の不平を反らす目的もあり、鎖国中の朝鮮を武力によって開国させ、影響力を伸ばすことを主張したのですが、遣欧使節から帰国した大久保利通や木戸孝允の反対に会い、むしろ日本国内の問題に集中する方針が採られました。これに不服として、西郷隆盛は薩摩に帰ったのです。

その後、秩禄(士族の世襲の給料のようなもの)の撤廃や、廃刀令施行など、士族の特権が失われていき、生活も困窮する中で、士族の反乱が相次ぎました。佐賀の乱(1874年)などは征韓を主張する蜂起だったのですが、規模の大きなものでした。

西南戦争(1877年)は士族の反乱の中でも最大のものでした。これは、西郷隆盛が薩摩に戻ってから開校した、私学校の生徒が西郷隆盛を奉じて蜂起したものです。半年以上経って、やっと政府軍が鎮圧したのですが、その中で西郷隆盛は自死しました。

翌年に大久保利通が紀尾井坂で暗殺され、既に木戸孝允も病死していましたので、維新の三傑を中心とする政治体制は終わりを迎えました。士族の武力蜂起は、その後は自由民権運動という形に変化したと言われています。

 

4.「丁丑公論」の解説

(a)俗論に対する反論

福沢諭吉によれば、西南戦争の首領である西郷隆盛に対する新聞記者らの批判は激しいもので、西郷隆盛は色々な理由から賊であると言われていました。新聞記者らが西郷隆盛を賊とした論はいくつかあるのですが、以下に簡潔に抜き出してみましょう。

 

①西郷隆盛の挙兵は大義名分に反し、国家の道徳品行に害をなす。

②西郷隆盛が勝てば士族中心の世に戻り、人民が抑圧され、時代が逆行する。

③政府高官らの多くが追放され、政治体制に大きな変動が起きる。

④法秩序に対して害をなす。

 

新聞記者らの論は、一見説得的にも見えますが、福沢諭吉はこれら全てを事実を弁えていないか、杞憂として退けています。基本的に、福沢諭吉はたとえ西郷隆盛が勝利したとしても、西南戦争の影響は限定的であると分析しています。

上記の中でも、④の西郷隆盛の挙兵が法秩序に対して害をなすという論に対する、福沢諭吉の反駁は実に啓蒙家らしく思われるので、特に紹介しておきます。

④の論をもう少し正確に紹介すると、政府は法によって国家の秩序を定め、それによって国民の安全と幸福を保障するのであるが、それは政府と国民との間の契約を成すものであるから、国家の法に対する攻撃はご法度である、という論です。

しかし、福沢諭吉は、あくまで重要なのは国民の安全と幸福を保障することで、政府を設けるとか、法を定めるということは手段に過ぎないから、これを形式的に絶対視して反乱を批判する論は成り立たないと言っています。

特に、これは直近の歴史においても証明されているようです。というのも、そもそも倒幕して新政府を定めたこと自体が反乱で、幕府という現行の政体に対する攻撃だったのですが、これは一般に「義」であったと考えられています。

それは、「旧幕府は政府の名義あれども事物の秩序を保護して人民の幸福を進むるの事実なきものと認めたるが故」であると、福沢諭吉は説明しています。政府に対する反乱は無条件に批判されるものではないということです。以上のような形で、福沢諭吉は新聞記者らの論の難点を突いています。

 

(b)西南戦争における政府の責任

福沢諭吉は西南戦争に関しては、西郷隆盛に同情する部分があったようです。

福沢諭吉によれば、西郷隆盛は決して進んで反乱を起こしたのではありません。西郷隆盛はむしろ、長い間血気盛んな若者たちを抑えていたのですが、ついに抑えきれず、西南戦争となってしまったのです。

その原因を福沢諭吉は政府に求めます。例えば、西郷隆盛は征韓論争に敗れて薩摩に帰ったと説明しましたが、実は、その翌年に台湾出兵という事件が起きています。これは明治政府初の武力外交なのですが、前年には西郷らを退けておいて、政府は自ら武力外交を行うのです。

また、秩禄の撤廃や廃刀令などで武士の特権が失われ、困窮するばかりではなく、地租改正によって農民も苦しい生活を強いられました。すなわち、国民の安全幸福という点では政府の正当性が疑われるような状況にあったわけです。

このような状況に、西郷隆盛は「方今の事物の有様なれば討幕の師は必竟無益の労にして、今日に至ては却て徳川家に対して申訳なし」と嘆いたそうです。せっかく徳川の世を終わらせた意味がないということです。

要するに、福沢諭吉によれば、士族の不平の原因は政府が作ったのであって、反乱の責任も政府にあるのです。政府は民権論の高まりの中で民選議員の制度などを整え、士族に活躍の場を用意するべきだったのですが、むしろ議論を弾圧したりしているので、士族が不平をためるのも仕方がなかったのです。

西郷隆盛を追い詰め、自死に向かわせたのは政府なのだと、福沢諭吉は考えます。

 

5. さいごに

最後までお読み頂きありがとうございます。以上、福沢諭吉「丁丑公論」の内容紹介と解説をしていきました。

補足ですが、福沢諭吉は緒言において、人間及び政府というものは必ず専制の精神を持つから、国民の間には抵抗の精神がなければならないと言っています。

西郷隆盛を賊とする新聞記者らは、いずれも不十分な分析に基づいて、西郷隆盛を批判していました。そして、それが一般論として通用していました。そうなってくると、国民の間には程度の低い議論ばかり広まって、自然と政府寄りの論調が幅をきかせることになります。

そこで、福沢諭吉は議論の公平を保つため、西郷隆盛を抵抗の精神の持ち主として取り上げたのです。福沢諭吉は本文ではその抵抗の精神について、直接的には語っていないのですが、福沢諭吉が国民の間で、特に議論の世界でどのような気風が維持されていることが好ましいと考えているのかが分かります。

福沢諭吉は議論の流れに不足している部分を補うために執筆している傾向があるように思われます。そのためには、国家や政治を俯瞰し、長期的な視野を持っている必要があります。常に独立して思考し、行動した福沢諭吉は、流石明治の偉人であると言えるのではないでしょうか。

 

6. 参考文献

全国歴史教育研究協議会編『改訂版 日本史B用語集』(山川出版社)

福沢諭吉「明治十年 丁丑公論」『明治十年 丁丑公論・瘠我慢の説』(講談社学術文庫)

 

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