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白樺派・有島武郎の作品「小さき者へ」の解説的感想です。

この記事のイメージ画像として手紙と万年筆

 

1. 有島武郎「小さき者へ」の感想

今回は白樺派の代表的作家・有島武郎の「小さき者へ」を読んだので、その感想を書いていきたい。あらすじと解説を含むため、有島武郎や「小さき者へ」に興味のある読者はぜひご一読されたい。その上で実際にお手に取られても、この記事の内容で満足して頂いても、私としては幸いである。

私の手元にある文庫本は新潮社のもので、今回の「小さき者へ」と併せて「生れ出づる悩み」が収録されているが、どちらも1918年(大正7年)に発表されている。

芥川龍之介が「鼻」を『新思潮』上に発表し、夏目漱石の激賞を受けたのが1916年のことだから、ちょうど、新時代の作家たちが衆目を驚かせ始めたその勢いの中に、有島もあったと言っていいだろう。

だが、先に本格的な作家生活に入ったのは有島の方が早い。芥川が「羅生門」を発表したのは1915年であるが、有島の作家生活は1910年の『白樺』創刊と共に始まる。

この学習院の文学同人誌を中心に武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎、里見弴などが集まった。彼らは文学史上では「白樺派」とされているが、その作風は一般に理想主義的であると言われる。ちなみに、里見弴は有島の弟である。

有島が「小さき者へ」を発表した年、彼は40歳であった。が、彼が特に精力を傾けて創作活動を始めたのは、この作品の前年頃からのことらしい。「カインの末裔」などを発表した年のことである。

きっかけは、1916年に妻と父を失ったことだった。おそらく、それまでは、有島は文学に賭す気持ちは明確に持ちながら、どこかそれに熱中しきることを妨げる疑念のようなものを払拭できないでいたのだろう。妻を失ったことへの述懐と、不安とも疑念とも言えない胸の圧迫とは、そのまま「小さき者へ」の内容を成している。

妻を失った時、有島には3人の子供がいた。みな年子で幼かった。「小さき者へ」という20ページ足らずの小品は、成長し、一人前の大人になった後の子供らに宛てて書かれた、言わば父からの手紙である。

作品の性格上、どこまでが事実で、どこからが創作か判然としないが、作中の記述に従えば、有島は深夜、上の子もまだ8つかそこらでしかない、その幼い子供らが隣室で眠る中、ペンを執りこの手紙を書きあげた。その内容の底に流れるものは、父性とも、普遍主義的な友情とも言い難く、やはり愛と言うべきかもしれない。だが、その愛はどこか「淋しい」。

この「淋しい」という言葉は、「小さき者へ」と「生れ出づる悩み」とに共通して頻繁に使用されている。「淋しい」とは、もちろん、哀しいということであろう。哀しいという感情に理由などない。ただ、何事につけ、人間の生活や運命というものを目の当たりにすると、堪らなく哀しいのである。

往々にして、愛は無条件的で無際限であると理解されるものである。これは、神の如き愛を夢想し、それを理想とすることから来る誤解であると言えるかもしれない。誤解でなければ、あるいは、欺瞞であろうか。このような完全な愛の観念は、我々の実生活において有り難いものとは言い難い。

我々の愛はやはり限定されている。起こるべき時に起こらなければ、意味もなく親身にさせられる時すらある。このような不完全性に対して我々を失望させ、自己に絶望さえさせるのは、その神の如き理想の愛の観念なのであるが、人間というものをより現実的に眺めてみれば、不完全な愛とて、あながち偽善とは捨てられまい。

妻がまだ結核に蝕まれる前、有島は愛を深く受け止めることができないでいた。有島は自身の問題で心がいっぱいで、家庭の小さなことで相談に来る妻を邪見にしたし、ぐずる子供たちに辛く当たったりした。妻は、年子の幼い子供たちの世話で睡眠すらまともに取れていなかったのだが、有島は、おそらく、机に向かわないではいられなかったのであろう。有島は次のように書いている。

私はその頃心の中に色々な問題をあり余る程持っていた。そして始終齷齪(あくせく)しながら何一つ自分を「満足」に近づけるような仕事をしていなかった。

妻が、当時の死病である結核と診断され、有島は衝撃を受けたようである。彼は元々心根の優しい人物だったから、このように不意に前途を絶たれた時も、これまでの自分が何を為すべきであったのかなど、考えるまでもなく分かったに違いない。運命の恐ろしさの一端は、人間のありふれた平凡さにその原因があると言っていいだろう。有島は非情な力で打ちのめされた。

だが、有島は、絶望はしても落ちぶれたりはしなかった。むしろ、妻の結核感染をきっかけに、家族一団の、その平凡な愛の時間を知ることになった。平凡と言うが、平凡であれなんであれ、その愛を知り、涙すら流すことができるという人間的事実は、あまりありふれてはいない。愛と涙とが繋がるためには、人は、猜疑的な、消極的な世界に閉じこもることを止めなければならない。有島は、土竜な自分などはいっそ陽に捧げてしまったのである。

私はこの間にどんな道を通って来たろう。お前たちの母上の死によって、私は自分の生きて行くべき大道にさまよい出た。私は自分を愛護してその道を踏み迷わずに通っていけばいいのを知るようになった。

先に、有島は「自分を『満足』に近づけるような仕事をしていなかった」過去を述懐しているが、それができなかったのは、決して彼の怠慢のせいではないだろう。おそらく有島は、自身の文学的才能ではなく、自身の愛について、確信がなかったのである。単なる言葉に過ぎない愛の思想などは、この鋭敏で、聡明な作家の目には、唾棄すべき虚偽としか映らなかっただろう。

妻の結核と死とは、有島に再生の機会を与えた。この非情な事件を通して、彼は猜疑の衣を脱ぎ捨てることができた。そして、彼の落ちくぼんだ心臓にも、何か温かい、生命のようなものが流れ込むようになった。そのことに、有島は子供たちに感謝するという形で、彼なりの礼を表している。

さて、有島が胸に知るに至った愛は、熱く、「淋しい」。その愛に生かされ、「自分の生きて行くべき大道」を歩もうとする有島の覚悟は、どこか悲愴ですらある。有島が子供たちに対して、「お前たちは遠慮なく私を踏台にして、高い遠い所に私を乗り越えて進まなければ間違っているのだ」と言うとき、彼の愛が、血縁を超えて、より普遍的な発露を求めるものであることは明らかである。

それは一見、あの無条件的で無際限な、神の如き理想の愛を思わせる。なるほど、確かに彼の愛は普遍的である。決して口先だけのものでもない。しかし、そこには、傷ついた優しい心の持ち主だけに見られる、一種の感傷がある。彼の愛の隠れた条件は、人間の生活と運命の「淋しさ」に対する共感なのである。

彼の優しい慈悲は、決して完全ではない人間社会において稀有なものであるが、この作品を、白樺派的な理想主義的作品と捉える時、彼の愛の性格は正しく理解されるものだろうか。いや、よくあるように、理想主義的な愛の臭いに鼻持ちならなさを感じて、本能的な嫌悪を覚える読者も少なくはないだろう。

この手紙は「行け。勇んで。小さき者よ」という言葉で結ばれている。これは、人生を前進することと悟り、覚悟した者の言葉なのである。私はすぐに、チェーホフの「桜の園」を想起した。人類は前進する。未来の人間は、現在の人間のことを忘れる。それでも前進を続ける人類は尊いが、やはり哀しい。

有島の理想主義、と敢えて言うが、それが頭でっかちな、おりこうで、理論的なものに堕しているという印象を与えないのは、彼が敏感に感じ取っている「淋しさ」が、決して彼だけの感慨ではなく、我々一般にも共通する感情だからなのではないだろうか。それは共感でもあり、自愛でもあるはずである。

小さき者よ。不幸なそして同時に幸福なお前たちの父と母との祝福を胸にしめて人の世の旅に登れ。前途は遠い。そして暗い。然し恐れてはならぬ。恐れない者の前に道は開ける。

父と母の愛に心を開き、受け取り、為すべきことを為せ、とこの父は言うのである。それは、もちろんこの愛情深い父親の優しさなのであるが、人間というものは、このように核心を付いた人生を突き進むには弱すぎる。

人生が難しいのは、決して社会が複雑だからとか、そういったことではなく、胸を開いて生きて行くことが、特に現代人には負担なのである。他人に失望ばかりしている現代人には、常に胸を開いて社会を渡るということが、なかなか想像できないのである。

それは難しいことであることに間違いはないのであるが、正しい生き方であることもまた確かであろう。ある意味では、当たり前のことですらある。その当たり前のことを真に悟り、普遍的な形で語れる者は少ない。

有島は決して、読者を超越した高みから理想を述べているのではない。また、彼は理想を掲げることで社会から逃げているわけでもない。そうではなく、どこまでも社会の中に潜り込んでいこうとする意気込みが有島にはある。それだけに、この作品を静かに見極め、味わう者は、有島が弱く、それ故に強く聡明な、我々と変わらぬ一人の人間であることを見出す。

数々の当然な不完全性にも関わらず、我々はやはり有島を信頼しないではいられないだろう。

 

2. 参考文献

有島武郎「小さき者へ」『小さき者へ・生れ出づる悩み』(新潮文庫)

 

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