今回は芥川龍之介「トロッコ」を解説してゆきます。
この記事はRinの<高校生でも分かる!>シリーズの第10回目です。このシリーズでは高校生のみなさんと一緒に作品を理解してゆきます。
この記事の解説は事前に「トロッコ」を読んでいなくても、十分に理解することができます。あらすじもありますので、このままお読み下さい。
芥川の少年少女向けとも言える作品の中では、「蜘蛛の糸」や「杜子春」が有名かと思いますが、今回の「トロッコ」もまた、人気の高い作品です。お話に入り込めるだけでなく、芥川的な技法もあり、短い作品ながら、読書の満足感を十分に味わえるよい作品です。
ただ、芥川は少しだけ、読者にいじわるをしているようです。最後の部分ですね。最後の最後で、これまでの物語の雰囲気を一気に変えてしまう、作者の語りが挿入されているのです。そこだけは、解釈の問題が残るでしょう。今回の解説では、その部分を中心に説明していきます。
それでは、早速解説してゆきましょう。
なお、作者の生涯についてご興味のある方は、以下の記事を併せてご覧下さい。
1. この作品のあらすじ
この作品は良平が八つの頃のお話から始まります。トロッコの思い出です。
良平が子どもの頃、小田原熱海間で鉄道の敷設工事があり、土を運搬するトロッコが見たいばかりに、良平はよく工事現場を眺めにいきました。
ある日、トロッコを押す二人の土工を見て、人がよさそうだと思った良平は、頼んでトロッコを押す手伝いをさせてもらいます。良平は二人の土工と一緒にトロッコを押し、みかん畑や雑木林を進み、海すら見えてくるようになりました。海を見ると、良平は遠くまで来過ぎてしまったように感じて、不安になります。
しばらくして、土工に「そろそろお帰り」と言われ、良平は一瞬、途方に暮れます。しかし、泣きたい気持ちを我慢して、来た道を一人で、必死に走ります。履いていたものも、着ていたものも捨てて走ります。
すっかり暗くなってから、良平はなんとか家までたどり着きました。すると、良平は両親にも、集まって来た近所のおばさんたちにも構わないで、わあわあと大泣きします。
そして、現在東京の雑誌社で働く良平は、仕事で疲労する中、あの必死の帰り道のことを、よく訳もなく思い出すのでした。
2. 一つのキーワードで理解しましょう
私がこの作品の読解の鍵として設定する言葉は「泣きべそ」です。
この作品の読解は、作品の最後の部分の解釈にかかってきます。トロッコの思い出の話が終わり、大人になって、東京の雑誌社で疲労している良平が代わりに登場してくる場面です。ここで、読者は自分なりの読み方を修正させられることになります。
彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思い出す事がある。全然何の理由もないのに?――塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細々と一すじ断続している。……
暗示ですね。芥川らしい視点の提示によって、読者はそれまでの思い思いの読み方を中断させられ、芥川の言葉の意味を考えさせられるわけです。これは、読者にとってはちょっとした暴力で、子どもの頃の良平の話には素直に感情移入できて読み進めてきたはずなのに、最後にぐっと突き放されるのです。これまでの素晴らしい描写ぶりが、全てこの最後の視点の提示のためにあったのかと、読者は驚かざるを得ません。
しかし、この最後の部分の解釈は結構難しいです。みなさんはどのように受け止めたでしょうか。「薄暗い藪や坂のある路」。何の暗示なのでしょうか。前に進むのが苦しくてしんどいのか、どこかに帰りたいのか、解釈が一つに定まりません。
この作品を理解するということは、大人を理解するということなのだと、私は思っています。そして、この作品から得たヒントを使って大人を理解しようとする時、私は「泣きべそ」という言葉を鍵としてみてもいいのではないかと思いました。
ところで、みなさんは最近、泣きべそをかいたことがありますでしょうか。たぶん、高校生のみなさんは、泣くことはあっても、泣きべそをかくことはないのではないかと思います。もちろん、泣きべそをかいったって構わないのですが、一般的に言って、泣きべそをかくのは小学生くらいまでで、中学生になってくると、段々と泣きべそをかいたりはしなくなってくると思います。
大人になればなおさらです。泣きべそなんてかきません。なんででしょう。
理由は一つではないかもしれません。ですが、私が感じている理由の一つは、大人は泣きべそをかく代わりに、怒ったり、無視したりすることが上手だから、です。大人だって、不安になったり、急所をつかれたりすることは多々あるのですが、大抵の場合は怒ったり、無視したりして、やり過ごすことができます。
子どもだったら泣きべそをかきそうな場面で、大人は怒りを感じます。泣きべそをかきたくなったら泣けばいいのですが、泣かないで怒るのです。そうすると、実は自分がちょっと弱気になっていて、本当は泣きたい気持ちなんだということには気付かず、心の中で毒づいて、それで終わりです。なので、一見、子どもよりも強く見えます。
だからと言って、大人は泣きべそなんてかかないのかと言うと、それは嘘です。大人も結構泣きべそかいています。少なくとも、心の中では。ただ、それを悟られまいとするのが普通なわけですね。
塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細々と一すじ断続している。……
この文章は、一見虚無的と言いますか、疲労感に満ちていて、読んでいてもだるくなってしまうような書きぶりですが、良平は、実際は泣きべそをかきたいのだと、私は思っています。大人が泣きべそかきたい気持ちをなかなか悟らせないのと同じように、芥川もそれをはっきりと指し示してはいませんが、ここに良平の泣きべそを探り当てることによって、作品全体を理解することができるものと思われます。
泣きべそは、理不尽に対する自然な心の反応だと思います。トロッコを押して、遠くまで行き過ぎて不安になり、一人で帰らなければならないことを悟って、子どもの良平は泣きべそをかきました。だって理不尽だから。「なんで?」って思わざるを得ないわけですね。泣きべそをかくとき、人の心の中は「なんで?」でいっぱいです。
大人の良平だって同じです。良平は妻子を連れて東京に出て来たわけですが、別にしたいわけでもない仕事をきっちりやらなければならなくて、「なんで?」って内心では思っているのです。でも、変に厳しいことに、その「なんで?」は大人の社会では通用しないことになっているから、良平も、誰も、泣きべそをかいたりはしない。してはいけないような気がしているのです。
しかし、彼は何といわれても泣き立てるより外に仕方がなかった。あの遠い路を駈け通して来た、今までの心細さをふり返ると、いくら大声に泣き続けても、足りない気持ちに迫られながら、……
泣きべそかきたいときは、泣くこと。子どもなら考えなくてもできます。でも、大人にはできません。子どもの良平にしたって、泣くのは我慢して、頑張って家まで走りました。泣いたのは、家に帰ってから。結局、泣いたってどうしようもないので、自力でなんとかしなければならない瞬間ってたくさんあります。
実は、大人になっても、案外泣きべそをこじらせている人は多いです。みなさんは社会に出てびっくりするかもしれません。でも、仕方のない部分があります。自分の泣きべそをどうするかって問題は、誰も解決法を知らないのですから。
良平は、たぶん、もう一回思いっきり泣きたいのでしょうね。それは動物的な涙。泣いて、寝る。復活。だとすれば、子どもと同じようには泣けない大人は、生きる上で、ちょっと不便をしているのかもしれませんね。
全く、先の見えない道が、「細々と一すじ断続している。……」
3. 私のコメント
芥川のシニシズムが感じられますね。
最後のほんの短い部分で、人間社会を丸ごとひっくり返してしまうような。
でも、いきなりひっくり返されても起き上がれない私たち。
文学は毒なのか良薬なのか。その危なさが芥川の魅力なのかもしれません。
4. 参考文献
芥川竜之介「トロッコ」『蜘蛛の糸・杜子春・トロッコ 他十七篇』(岩波文庫)
この記事の引用は全て上記「トロッコ」によるものです。著者の「竜」の字は文庫の表記に準じます。