Rin's Skyblue Pencil

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【解説】高校生でも分かる!芥川龍之介「杜子春」の一つの解釈~「自分基準」で生きてみよう!

芥川龍之介「杜子春」のイメージ画像として目の覚めるような桃の花

 

今回は芥川龍之介「杜子春」を解説してゆきます。

この記事はRinの<高校生でも分かる!>シリーズの第9回目です。このシリーズでは高校生のみなさんと一緒に作品を理解してゆきます。

事前に「杜子春」を読んでいなくても、解説は十分に理解することができます。みなさんはぜひ、気軽な気持ちでお読みください。

今回の作品は、芥川の作品の中では、童話というジャンルに含まれます。童話と言えば、芥川の「蜘蛛の糸」はご存じかもしれません。「蜘蛛の糸」よりも、「杜子春」の方が少しだけ難しいような気もしますが、童話ですので、高校生のみなさんなら問題なく読むことができるかと思います。読んだことがあるのであれば、親子の愛情だとか、真面目に生きることの大切さだとか、みなさんも、この作品の童話らしいメッセージを受け取ることができたのではないでしょうか。

さて、この記事では、「杜子春」の基本的な童話的メッセージをやや超えて、主人公である杜子春が抱えていた問題とその解決について考えてみたいと思います。ただし、この解説は私なりの受け取り方に過ぎないと考えて頂いて構いません。少なくとも、これが唯一の読みではないことに、みなさんは注意して下さい。

ともあれ、解説を進めてゆきましょう。

なお、作者の生涯についてご興味のある方は、以下の記事を併せてご覧下さい。

 

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1. この作品のあらすじ

主人公の杜子春はお金持ちの家に生まれましたが、財産を使い果たしてしまい、宿もないので仕方なく、長安の西の門にぼんやり立っていました。

すると、どこからともなく不思議な老人が現れて、日が沈んだらそこで穴を掘りなさい、そうすれば黄金が見つかるから、と言って消えてしまいます。言われる通りにすると、本当に黄金が見つかって、杜子春はものすごいお金持ちになりました。

お金持ちになった杜子春は思いっきり贅沢をするのですが、数年経てばお金もなくなります。そこで、以前と同じように西の門でぼんやりしていると、あの老人が再び現れ、同じようなことを言うので、言われた通りにすると、杜子春はまた黄金を見つけるのでした。

懲りない杜子春は同じように贅沢をして、また財産を使い果たしてしまいます。しかし、この時、杜子春はお金のある時だけ自分のところに集まってくる人間たちに嫌気が差していました。そして、あの老人が再び現れるのですが、今度は黄金は辞退して、自分を仙人にしてくれるようにお願いしました。というのも、その老人は仙人だったからです。

老人は杜子春を弟子にすると言い、仙術で彼を山に連れていくのですが、仙人になりたければ魔性が現れても一言も喋ってはいけない、と杜子春に言いつけて、出かけてしまいます。

そして、次々に現れる魔性相手に杜子春はよく我慢するのですが、幻影か何か、杜子春は一度死んで、その魂は地獄に連れていかれます。そして、閻魔大王の意地悪で、地獄でも自分が黙っているばかりに、死んだ父母が痛めつけられてしまいます。それでも、彼の母は「黙っててもいいんだよ」と言ってくれるのですが、杜子春は何か感じるものがあって、ついに口を開いてしまいます。

結局、杜子春は仙人にはなれませんでした。しかし、お金持ちでも仙人でもなくて、とにかく正直に生きていく気持ちを決めることができたのでした。

 

2. 一つのキーワードで理解しましょう

私が「杜子春」の読解の鍵として設定する言葉は「自分基準」です。この言葉は、「自分で決める」と言い換えても構いません。

私が正直に主人公の杜子春に思ったことは、なかなか、こいつはとんでもない奴だ、ということです。仙人の老人も言っている通り、杜子春は賢そうな男なのに、黄金をいっぱい手に入れたからといって、何の考えもなしに長安流の贅沢をし尽くすのですから。それも、一度ではなく二度です。最初に両親の財産を使い果たしていたことを考えあわせると、三度同じような失敗をしているわけです。反省できない子じゃないのに。

杜子春も二回目に黄金を使い果たした時には、贅沢をすることにもうんざりしていたようです。ただし、それはお金を使うこと自体が厭わしいのではなく、お金のあるところに集まってくる人間の軽薄さが嫌になったということらしいです。お金を通して、人間の嫌なところがいっぱい分かるようになってきた、ということです。

人間は皆薄情です。私が大金持になった時には、世辞も追従もしますけれど、一旦貧乏になって御覧なさい。柔しい顔さえもして見せはしません。そんなことを考えると、たといもう一度大金持になったところが、何にもならないような気がするのです。

この杜子春の台詞に、仙人は「いや、お前は若い者に似合わず、感心に物のわかる男だ」と言ってあげるのですが、ここが杜子春の「気づき」のピークというわけではありません。というより、杜子春はここでは、若者らしい「愚痴」をこぼしているに過ぎません。

ここで、この解説のキーワードが登場してきます。「自分基準」。私が思うに、この時点での杜子春は全然「自分基準」でものを考えていません。一見、杜子春は「感心に物のわかる男」ですし、杜子春の人間批判はもっとものようにも思われますが、厳しく言えば、これはそんなに褒めてあげるところではありません。どういうことでしょうか。

杜子春は最初に財産を失った時点で、「自分基準」で自分の人生を考え直すべきでした。ですが、それは結構難しいことなので、二度、更に財産を失う経験をしなければなりませんでした。それにも関わらず、杜子春がその経験から得た結論って、結局、周りの人間が何か嫌だなあ、というものに過ぎません。ここが、少しもどかしいのです。

自分の人生を考える時に、周りの人間が嫌だから、という気持ちは結構重要だったりするかもしれませんが、しかし、真面目に生きるとか、正直に生きるとか、そういった決断が求められている時に、他人がどうこうという話は問題になってこないはずです。だって、何かしなければならないのは自分であって、他人ではないのですから。そこで必要なのは「自分基準」だけです。自分で、こうしなきゃなと思う。それだけ。

この作品の素晴らしいところは、最終的に、杜子春が「自分基準」の人生のスタートラインにちゃんと立つことができたというところにあると、私は思います。あまり、若者でそんなことはできません。何となく、自分よりも他人の方が悪いような気がして生きていく。なかなか「自分基準」には意識の焦点が合わない。

それが普通ですよね。杜子春は、やっぱり見込みのある男だったわけです。

何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです

杜子春はこの結論に落ち着くまで少し時間がかかりましたが、最後には、私たちは晴れやかな気持ちで「杜子春」を読み終えるでしょう。彼の結論が、私たちには嬉しいのです。

自分がどういう人間であるべきか、どう生きるべきか、という問題を、周りの人間は一般的にどうか、という視点でごまかしている限り、永遠に結論は出ません。私たちも杜子春のように「自分基準」で歩き出すことができれば、周りがどうこうという問題で心をグルグルさせたりすることなく、平穏で、望ましい生活を送ることができるのかもしれませんね。

 

3. 私のコメント

芥川の童話のメッセージは不思議と真っすぐですよね。

きっと、余計なことを何も言っていないんでしょう。作品が真っすぐ歩いています。

そこには、物語創作の上手さだけでは説明できない、作品の真実性があるような気がします。

童話作品は、ある意味、芥川の本領だと、私は思っています。

 

4. 参考文献

芥川竜之介「杜子春」『蜘蛛の糸・杜子春・トロッコ 他十七篇』(岩波文庫)

この記事の引用は全て上記「杜子春」によるものです。また、著者の「竜」の字は文庫本によっています。

 

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