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白樺派・武者小路実篤の代表作「友情」の解説的感想です。

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1. 武者小路実篤「友情」の感想

今回は白樺派の代表的作家・武者小路実篤の「友情」を読んだので、その感想を書いていきたい。あらすじと解説を含むため、武者小路実篤や「友情」に興味のある読者はぜひご一読されたい。その上で実際にお手に取られても、この記事の内容で満足して頂いても、私としては幸いである。

白樺派という文学史上の呼称は、彼らが学習院の文学同人誌『白樺』を中心にして集まったことに由来している。この雑誌は1910年に創刊され、関東大震災をきっかけとして1923年に廃刊になった。雑誌は創刊当初から注目されていたらしい。それには学習院のお坊ちゃん達が集まったという話題性もあったが、当時文壇を閉塞的に支配していた自然主義に代わり得る運動として期待されたからでもあった。

同人には志賀直哉、有島武郎、里見弴などがいたが、最も重要な人物は武者小路であった。志賀などはある時期から『白樺』から距離を取っているが、武者小路は創刊から廃刊に至るまでかなりの数の作品を同誌に寄稿している。また、彼が中心となった<新しき村>の創村活動などは、白樺派の人道主義的理想の実践的表現として重要である。武者小路は『白樺』の屋台骨であったと言っていい。

現代の我々に最も親しまれている武者小路の作品は「友情」であろう。これは『大阪毎日新聞』誌上に連載(1919年)されたものである。翌年に単行本化されているが、この時作者は三十五歳である。すでに<新しき村>の運動(1918年に着手)も動き出していたから、彼は比較的若い時期から自身の思想を具体的に表現していくことができたと言えるだろう。

この作品の題は「友情」であるが、これは恋愛小説である。その主題を友情と恋愛の対立と捉えることもできるが、何か収まりの悪い部分があるように私は感じる。主人公が野島と言う学生であるから、これを青春小説の類と呼ぶこともできるのであるが、野島の恋愛が世間一般の恋愛と同じ意味合いのものであったかは疑わしい。

この作品の恋愛には世間が求めがちな生々しさは欠けている。あるいは放蕩な感覚的喜びなどは明確に退けられている。さらに言えば、筋の展開の劇的性質で読者を引き付ける類のものでもないから、分かりやすく読者を引き付ける娯楽性とは無縁の作品であると言える。それがなぜ、現代の我々にもなお親しまれているかという点は考えられてもいいだろう。

この作品の主人公は野島という若者である。彼は脚本家志望の学生で、すでに作品を発表したこともあるが、未だ作品が評価されるところまでに至ってはいない。野島は自分自身の才能ないし卓越性を信じており、脚本家志望でありながら他人の劇などはあまり見ないことなど、その証拠のように私には思われる。

いや、もっと直接的に、「彼はどの男よりも自分が偉(すぐ)れたものを持っていると思える種類の男だった」と作者が書いている。ただ、野島には不動の自信が今一つ欠けていて、自分の作品が批判などされると必要以上に動揺してしまうようだ。

その野島の最大の理解者が大宮という青年である。彼の方が野島より年長で、未だ芽の出ない野島に対して、大宮はすでに作家として注目され始めているらしい。そんな大宮に野島は嫉妬しないこともないが、大宮は野島のことを良く理解し、野島が批判のために落ち込んだ時などは慰めてくれるから、野島は大宮のことを尊敬もし、その友情に感謝している。

野島の方が大宮に支えられているように見えるが、大宮の方も年少の野島に感化されることが多いらしく、互いが互いを必要としている、稀有な友情で結ばれている関係であると言える。

最終的には、友情は恋愛の前に一歩後ろに退いてしまうのであるが、野島と大宮の友情の間に入ってきたのは杉子という16歳の娘である。彼女は野島の友人である仲田という法科の学生の妹であり、野島は帝劇で彼女に初めて対面した。その日から、野島は杉子のことが気になって堪らなくなる。野島の初恋である。

野島は女性というと、自分と結婚するに価するかどうか、ということばかりが気になるらしい。結婚に価しない女性達には興味も感じないのである。ずいぶん傲慢なようにも思われるが、それは反面、野島が真実結婚に価する女性を強烈に求めていることの表れであろう。ただ、結局はその傲慢さを杉子に嗅ぎ当てられ、彼女が野島を拒む口実となったようである。

この作品の筋は複雑ではない。ある日野島は杉子に恋していることを大宮に相談し、それ以降、大宮は野島を心から応援していた。杉子の野島に対する反応はそう悪いものではなく、野島は一喜一憂を繰り返す。

しかし、実際に恋し合っているのは杉子と大宮とであった。大宮は野島との友情のため杉子に冷たくしていたが、最終的には杉子と結ばれることを選ぶ。野島は杉子への求婚に失敗し、大宮からの告白を受けて、孤独の内に偉大な仕事をする決心をする。意地と言ってもいい。

この作品の魅力は大宮の見せたエゴとか、好き嫌いのどうしようもなさとか、そういったところばかりにあるのではないと私は思う。先にも指摘した通り、この作品は筋の劇的性質で魅せる作品ではないと私は感じている。もし、そういったものを期待して「友情」を読めば、きっと物足りなく感じるだろう。だとすれば、この作品の魅力はどこにあるのだろうか。この作品は一体、何を語ろうとしているのか。

それは、実は、作者が冒頭に置いた自序を読むことで明らかになる。すなわち、

人間にとって結婚は大事なことにはちがいない。しかし唯一のことではない。する方がいい、しない方がいい、どっちもいい。同時にどっちもわるいとも云えるかも知れない。しかし自分は結婚に就(つい)ては楽観しているものだ。そして本当に恋しあうものは結婚すべきであると思う。(…)

このような、ある意味ありきたりで、面白みもない自序が冒頭に置かれているのであるが、この自序が案外重要なのである。というのも、読者はおそらく、この恋愛物語においては勝者は大宮で、敗者が野島であると思うであろうし、大宮が幸福な一方、野島は不幸であると感じるであろう。だが、恋愛の結果の幸不幸は、実はそう単純なものではないし、様々な可能性が考えられる。少なくとも、この自序を合わせ読むことで、野島が直ちに敗者だとか不幸だとか言うことはできなくなるのである。

ところで、人間にはどうしても抗えない自然的な感情がある。この作品では、言うまでもなく恋愛と友情とであるが、実はもう一つ、読者が十分に理解していなければならない感情がある。それは、野島と大宮が一貫して示している、精神的に向上したい、精神的に偉大な人物でありたい、という欲求である。

実は、彼らの恋愛や友情はそのような精神的欲求と不可分である。そのことを示す文章は色々あるのであるが、そのいくつかを引用してみよう。

例えば、野島は杉子が彼の妻となることを次のように想像している。

彼は杉子と一軒家をもつことを考えた。杉子が自分一人にたより、自分一人に媚び(…)彼はそんなことを考えると天国に居るよりもなお幸福になれるような気がした。その時、自分は精神界の帝王になり、杉子は女王になる。自分の脚本は世界を征服する。(…)

恋愛が男と女との間の心の惹かれ合いであることを考えれば、野島の想像は酷く独りよがりで、見方によっては気味悪くもあるのであるが、それでもなお、野島と、他の軽薄な男たちとを分かつものは、野島が終始想像の中心に置いている精神性である。他の箇所では、彼は以下のように感じている。

世界には嵐が吹きまくっている。思想の嵐が。その真唯中に一本の大樹として自分が立ち上がって、一歩もその嵐に自分を譲らない、その力がほしかった。

ここに野島の野心が見られる。先の引用に戻るが、野島は「精神界の帝王」を本当に目指しているのである。そのために結婚に価する女を求めていて、それが杉子であったのだ。大宮はこのような野島の意志に敬意を払い、尊敬しているのだが、私が思うに、これは野島の意志というよりは、未だ、強烈な妄想に留まるに過ぎない。杉子は、野島の妄想の一翼を担っているに過ぎないのである。

実際、杉子は言っている。

野島さまは私と云うものをそっちのけにして勝手に私を人間ばなれしたものに築きあげて、そして勝手にそれを賛美していらっしゃるのです。

さて、精神性を追い求めているという点では大宮も同じである。彼は野島に宛てて発表した作品の中で、次のように書いている。

天使よ、俺の為に進軍のラッパを吹け。今は人類が、立ち上がらなければならない時だ。自分達精神的に働くものは真剣にならなければならない時だ。

これは野島と大宮とが共通して持つ志である。そして、大宮は杉子との関係を野島に告白するにあたって、次のように考えている。

友は必ず今度のことで本当に鍛えられるだろう。(…)人類、神と云いたい所だが、人類は彼を本当に鍛えて偉大なる仕事をさせようと思っているのかも知れない。

この作品の中心的主題が、実は野島や大宮が共有していた精神的欲求と不可分のものであることは、これだけの引用でも分かって頂けたと思う。そして、先の大宮の言葉の引用でなお重要なことは、大宮が今回の顛末の背景に、「人類」とか「神」とかの意志を感じているらしい点である。

恋愛感情も、友情の感情も、人間に与えられた自然なもので、我々はそれを素直に感じるのがよい。反対に、偽ることは難しい。要するに、自分の感情でありながら、自分の意にならないものなのである。

それと同じように、今回の顛末、すなわち野島が失恋し、思想家として、作家としてより鍛えられるという顛末は、「人類」や「神」の意志という、彼らの意にならないものによってもたらされたものなのである。だから、この作品のカラクリの説明として大宮のエゴを取り上げることには疑問があるし、この恋愛には、実は、関係者の作為という要素は、一点もないのである。

というのも、実は、野島が杉子を自身の潜在意識に入れたのは、初めて帝劇で出会うよりも前、兄の仲田から彼女の写る写真を見た時であったし、杉子が大宮に一目ぼれらしきものをするのも、実は物語のずっと前のことだったのである。それだけでなく、大宮が杉子を愛らしいと思ったのも、同じく物語よりもずっと前のことなのである。

全員が、お互いに知り合いになるより以前に、それぞれの恋を始めていた。だから、恋愛感情の自然に従えば、彼らの恋愛は物語が始まるよりも前に、結末が決まっていたのである。

さて、先に失恋した野島が不幸かどうかは実は一概には言えないと述べた。が、普通に考えれば、やはり彼は不幸であろう。彼が不幸でないとすれば、彼が噛み締めている孤独から偉大な作品が生まれ、それが世に評価される時だけであろう。あるいは、彼が目指す「精神界の帝王」を妄想ではなく、本当の仕事にするために、杉子という妄想の一端を運命が叩き切ったことを、野島が本当に受け入れた時だけであろう。

最後に、作品の最後にある野島の言葉を引用してみよう。

自分は淋しさをやっとたえて来た。今後なお耐えなければならないのか、全く一人で。神よ助け給え

ここに「芸術家の孤独」という第四項が得られる。

この作品を単純な恋愛小説として楽しめることも確かであるが、それだけで不朽の名作となったとは私は思わない。だが、第三項の精神的な欲求に注目することで、結末において第四項を単なる失恋の寂しさではなく、「芸術家の孤独」という形で得ることができるのである。だが、この辺りは曖昧で、純粋に失恋物語として共感できるからこその作品の魅力であることも否定できない。

野島の悲愴な叫びで作品は永遠に閉じられている。この叫びこそ、この作品の生命であると言えるかもしれない。大正の「精神界」を知ることのできる作品であるから、武者小路や白樺派に興味のある読者にはぜひご一読頂きたい。

 

2. 参考文献

武者小路実篤「友情」『友情』(新潮文庫)

 

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