1. 川端康成「雪国」の解説及び感想
今回は新感覚派の作家・川端康成の代表作「雪国」を読んだので、その感想を解説を含む形で書いていきたい。あらすじを含むため、川端康成や「雪国」に興味のある読者はご一読されたい。その上で実際にお手に取られても、この記事の内容で満足して頂いても、私としては幸いである。
この作品は1935年から書き始められた。初めから一つの作品として構想されていたわけではなく、複数の断章が書き継がれ、現在の形を成している。例えば、初出の部分の題は元々「夕景色の鏡」であったようだ。他にも「徒労」や「天の河」など、作品の印象を端的に示した題が散見されて面白い。
作品の冒頭の描写はあまりにも有名である。すなわち、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」であるが、このトンネルは群馬県と新潟県とを繋ぐもので、作品の舞台となったのは越後湯沢温泉であると言われる。
この描写は確かに、読者にたった一文で作品世界の情景を理解させ、作品中に引き込む力を持っている。それだけでなく、読み返してみれば、この一文からすでに、夢の狭間で足踏みする主人公の心理の連なりが語られ始めていることが分かる。トンネルの先にある雪国は、妻子のいる都会とは異なる、非現実の領域なのである。
が、この一文は一般読者の間で過度に神格化されている所がある。この一文の優れた点を考えれば、美点はいくらでも指摘できるかもしれない。しかし、「雪国」に充満する詩の世界を考えれば、この一文が作品中の頂点を成すとは限らない。この一文で何を読み取るかということは読者によって異なるだろうし、全然重要視しない読者があったとして何も誤りはない。
実際に読み始める前から、この一文に躓いている読者は少なくない。が、この一文を黙殺することは必ずしも読解力の不足を意味するのではない。それは実は大きな問題ではないので、とにかく最後まで読んでみることを私は勧めたい。少なくとも、問題は文字面の美しさにあるのではないので、読者は通読して詩に触れる瞬間が一度でもあればよいのである。
さて、私は先に「伊豆の踊子」について感想を書いている。この作品は川端がもっと若い頃に書いたものであるが、比べると、「雪国」の作品としての完成度の異常がよく分かるようである。「伊豆の踊子」も傑作であり、若者などはむしろ、こちらの作品に愛情を感じるかもしれない。が、「雪国」の極点にある、人生すらも忘却された美しさは例えようもなく、それ故に危うい。
読者はおそらく、主人公の島村と芸者の駒子との間の恋愛を追いながら、「踊子」よりは多少難解なこの作品を読み進めていくであろう。あるいは、読者は作中に流れる雪国らしい澄んだ空気を一緒に呼吸する。それは得難い読書の喜びであると言える。
が、島村と駒子との間にあるのは恋愛では、おそらくない。恋とか愛とか明確に命名できる感情に彼らが動かされているとは私は思わない。でなければ、「期待」と言えるかもしれない。彼らが何を求め、何を期待しているのか、それは無論分からない。にも関わらず、それが「徒労」であることだけは読者に明らかである。いや、この作品は徒労を徒労のまま終わらせることに、一種の倫理や美を見出しているらしくもある。
雪国へと向かう列車の中で、主人公の島村は葉子という娘を発見する。葉子は不思議と美しい声で喋る女で、病人らしき男を甲斐甲斐しく世話している所に、何か刺すような真剣さを島村は感じていた。
信号所で止まる列車から、葉子は外にいる駅長さんに向かって、「駅長さあん、今度の休みの日に家へお帰りって、弟に言ってやって下さあい」と叫んでいるが、こんな何でもないような台詞も単なる情景の描写なのではない。そう思わなければ、こんな台詞は俗でしかない。しかし、私にはどうも、葉子には努めて幼児じみたままごとを続けているような異常さを感じる。
葉子がなぜ、ままごとに異常に執着するのか、結局明らかにはならない。そして、言うまでもなく島村は葉子に何かを感じ、惹かれているのであるが、島村は決して葉子と一緒になるわけではないし、それを望んでいるわけでもない。葉子という存在は、島村にとって何か「予感」に留まるものであったのだろう。「雪国」という作品は、実は謎が多く、登場人物の心理も将来も、何一つ明確にされてはいない。
島村がこの列車に乗っているのは、ある女に会うためらしい。実は、主人公が作中の雪国を訪れるのは二度目のことなのである。その前は新緑の季節に訪れたのだ。その女を懐かしんで、島村は列車に揺られているのである。その女は駒子といったが、この時点では島村はまだ名前も知っていない。
始めて会った時、駒子は手伝いに過ぎなかったが、改めて来てみると、駒子は芸者になっていた。駒子がなぜ芸者になったのかは判然としない。実は、葉子と一緒にいた病人の男と駒子とは、恋愛関係ではないが、近い関係にあったらしく、彼の病気のために金が入用であったように書かれてはいる。だが、それも真実かどうか分からない。駒子が葉子やその男について語りたがらないからである。
駒子は島村曰く「いい女」である。だが、その言葉には、島村にしか込められない微妙なニュアンスがあるようである。彼女は別に勝気でも、おしとやかでもない。美人ではあるのだが、だから「いい女」なわけではない。
駒子の可愛らしさには、どこか「哀れ」な感じが付きまとう。それは、確かに島村のせいなのである。もし、駒子が島村を知らなければ、駒子は平凡な、取るに足りない女として一生を終えたであろう。そういう人間が抱く人生の苦悶は、結局平凡なものに過ぎず、他人の興味を引くとは限らない。
駒子は、適当な言葉が見当たらないが、少し変わっている。それは変人であるとか、奇妙な癖があるとか、そういうことではない。島村は彼女を信頼している。「いい女」という言葉が惑わしいのであれば、「いい子」と言えばよいだろうか。他に得難い可愛らしさがあるのである。
初めて会った時などは、「島村さあん、島村さあん。」と叫びながら宿を上がって来たりした。もちろん酔っぱらっているのである。「酔ってやしないよ。ううん、酔っているもんか。苦しい。苦しいだけなのよ。性根は確かだよ。」彼女は吸い寄せられるように島村の宿にやってくるのである。
同じような場面は実に多い。煩いと言えば煩いだろう。これは、女の弱さとも、強さとも言えまい。が、何か誰かの前で喋り通さなければ生きていかれないような、そういう生活があることもまた確かである。島村は決して駒子を邪険にしない。彼は駒子の生活に「徒労」を感じているのであるが、それだけ一層、彼女が愛おしいのだ。
だが、その愛おしさが真実の愛に繋がるわけではない。真実の愛は不適切なら、実生活とでも言おうか。実は、島村は親の財産で無為徒食する、要するに働かないで喰っている類の人間なのであるが、自分が駒子をどうしてやることもできないことなど、彼には分かり切っているのである。島村も駒子もお互い離れがたく思っているが、決定的に生活が噛み合うことはないのである。
それに比べると、島村と葉子とが一緒になる可能性はあった、と私は考える。葉子が始めから半ば現実に生きていないからである。もちろん、葉子の真剣な眼や声色は、一見すれば人生に対する強い意志を思わせる。だが、それは半ば虚構の、おままごとのようなものだと私は感じる。何か、決定的に「現実」に身を持ち崩すことを恐れる心が、葉子にはあるのではないだろうか。
葉子はあの病身の男が死んだ後、彼の墓参りばかりして暮らしていた。駒子は彼女が気を狂わしはしないかと思案している。駒子と葉子との関係はよく分からない。が、駒子はこのように言う。
じょうだんじゃないのよ。あの子を見てると、行末私のつらい荷物になりそうな気がするの。なんとなくそうなの。あんただって仮にあの子が好きだとして、あの子のことよく見てごらんなさい。きっとそうお思いになってよ。
駒子と葉子との現実的な関係は不明である。しかし、作中において、駒子と葉子とがそれぞれ何を暗示しているかは、私には明らかであるように思われる。以上の引用から窺えるように、葉子は非現実や狂気を暗示している。それに対して、駒子は島村との関係では狭間に位置するものの、やはり現実を生きている。
現実的生活力とは反対にある、妄想的な意志力に支えられている葉子は、確かにいずれ駒子の足手まといにならないとは言えない。駒子には実生活上の自由が必要である。それに対して葉子は、何のあてもないのに東京に行こうと考えたり、そのことでほとんど会話もしない島村を頼ったりしている。
葉子が非現実や狂気を暗示しているというのは、無論私の読みに過ぎない。だが、そう考えてみると、島村と駒子との関係の一つの解が、葉子によって示されていることが分かるのである。駒子の生活の徒労を徒労のままにしておこうとする島村、島村との関係がこれ以上を出るものではないことを自覚する駒子、そして非現実を非現実のまま生き通してしまうことのできる葉子。島村と駒子とが葉子の立ち位置に寄っていけば、彼らの関係はどう変わったであろうか。
しかし、物語は、そのような解決を否定しているらしい。物語の最後では、村で火事が起こり、大変な騒ぎになった。島村は駒子の後を追って、現場に駆け付けた。焼けている建物は一軒だけらしい。それは繭の家であり、映画の劇場を兼ねていた。現場には人が集まり、繭の季節でなくてよかったとか、そういったことを話している。
こんな、人々の俗な部分が強く出がちな場面で、駒子は「天の河。きれいねえ」などと呟いている。島村も夜空を仰ぐと、「天の河のなかへ体がふうと浮き上ってゆくようだった」と感じている。二人の関係にこれ以上は、実はない。しかし、二人は今、夢の淡いにいるようである。
が、未だ火の消えない建物の二階から、女が一人落ちて来た。葉子である。彼女は死んではいないが、失神しているようだ。島村は全てが一瞬であるように感じている。「どいて、どいて頂戴。」駒子が葉子の下へ駆ける。その声を島村は聞いている。
「この子、気がちがうわ。気がちがうわ。」
駒子に駆け寄ろうとする島村が最後に感じたのは、天の河が自分の中へ流れ落ちるような感覚だった。物語はそこで終わっている。だから、島村と駒子との関係がどう終わりを迎えたのか、あるいは迎えなかったのか、読者には分からない。ただ、おそらく、島村はもうこれ以上、雪国での非現実を呼吸することは耐えられなかったであろう。その先にあるのは、突き詰めれば狂気である。
葉子は二人のために犠牲になったのだ。非現実の危うい詩情に、これ以上深入りしてはいけないのである。あるいは、深入りする以上、覚悟を決めなければならない。我々読者は結局、決定的なことは何も分からない。与えられるのは、葉子の転落と、幻惑する天の河の輝きだけである。
もし、作者が島村や駒子の人生を縦に並べて物語ろうとしたなら、物語はまだ続いたであろう。しかし、作品はここで終わっている。二人の登場人物は今、天の河の輝きに飲み込まれるように、永遠を生きている。
永遠の煌めきは、どこか危うい。我々読者は油断をすれば、この作品のどこまでも抒情的な味わいの内に、実生活を失いかねないからである。
2. 参考文献
川端康成「雪国」『雪国』(新潮文庫)