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【解説】高校生でも分かる!芥川龍之介「地獄変」は「増上慢」というキーワードで理解できる?

芥川龍之介「地獄変」のイメージ画像として燃え盛る炎

 

今回は芥川龍之介地獄変」を解説してゆきます。

この記事はLian(リアン)の<高校生でも分かる!>シリーズの第11回目です。このシリーズでは高校生のみなさんと一緒に作品を理解してゆきます。

この記事の解説は、事前に「地獄変」を読んでいなくても十分に理解することができます。

私は自分の読解を絶対的な読みとは言わないので、みなさんはこの解説を自分の読解の参考として下さい。あるいは、解説は解説としてお楽しみ下さい。

さて、芥川の「地獄変」ですね。問題作と言ってもいいでしょうか。いや、衝撃作と言うべきでしょうか。なかなか、芥川の文学の洗礼を受けた気分になるのにふさわしい作品だと言えるでしょう。お好きな方も多いのではないでしょうか。

地獄変と言うのは、平安時代に描かれていた仏教的な絵のテーマで、地獄の絵のことです。屏風とかに描いていたようですね。この作品は、ある絵師が地獄変を書くために、本物の地獄絵図を目の前で見て、絵を完成させるという筋です。彼の地獄変は娘が燃え盛る炎に焼かれることで完成したわけです。そのお話のすさまじさに、読者は黙らされるのです。

それに、王朝物らしい典雅で怪しい書きぶり。雰囲気もばっちりなんです。

王朝物と言うのは平安時代を題材にしたもので、「羅生門」や「鼻」も同じジャンルに属します。「地獄変」は王朝物の代表作の一つなのですね。ただし、雰囲気は「地獄変」が随一です。

芥川の作品では、「歯車」とか「或阿呆の日記」とかは難しいかもしれませんが、ほとんどの作品は案外読みやすいです。特に王朝物などは、お話として単純に面白い作品が多いので、私は芥川を文学の入り口としておすすめします。「地獄変」も決して読みにくくはないですよ。

ぜひ、読んでみて下さい。

そして、私の解説も併せてお楽しみ頂ければ幸いです。

 

1. 作品のあらすじ

時は平安朝。良秀(よしひで)は技量並ぶ者のない絵師でした。

良秀の絵は優れていますが、普通のようではなく、似顔絵を描かれると死ぬとか、五趣生死の絵からは死人の腐った臭いがするとか、尋常ではない噂がありました。

その噂の理由の一つは、良秀が嫌な老人だったからです。彼はケチで、情がなく、強欲な上に高慢と思われていました。自分が天下一の絵師だという自負があるのです。周りの者は陰で猿秀とあだ名して呼びました。

そんな良秀ですが、十五の娘のことは大層可愛がりました。その娘は堀川の大殿と呼ばれる人物の下で働きました。美しいだけでなく、賢くて気が利くので、彼女は周りの気に入りだったのでした。堀川の大殿は彼女に気があるとまで噂されました。

ある日、堀川の大殿は良秀に地獄変の絵を描くことを命じます。良秀は娘のことを忘れるくらいに熱中して、弟子を縛ったり、猛禽に襲わせたりして、地獄の絵を描く参考にしました。しかし、良秀が地獄変を完成させるには一つだけ足りないものがありました。

良秀の相談を受けて、堀川の大殿は牛車に美しい女を縛って乗せて、それに火をつけて燃やすことを約束します。それはある晩に実現しました。しかし、その牛車で縛られているのは良秀の娘だったのです。

良秀ははじめ、何とも言えない苦悶の表情をしていましたが、最後には、恍惚と我を忘れて燃え盛る炎を眺めているのでした。それは鬼気迫る様子だったようです。

良秀が完成させた地獄変には他人を黙らせるほどの力がありました。しかし、良秀は絵を完成させた翌日、首をくくって死んでしまいました。

 

2. 一つのキーワードで理解しましょう

私がこの作品の読解の鍵として設定する言葉は「増上慢(ぞうじょうまん)」です。

この言葉は仏教において、悟りを得ていないのに、それを得ていると思って高慢になることを言います。日常的な意味では、思いあがること、うぬぼれ、高慢のことだと思って頂いて構いません。一般的な意味では、増上慢の人間は周りの目から見ると、実力以上に思いあがっていて、何か苦々しい気持ちにさせる、といったニュアンスがあります。

しかし、私は「増上慢」を二つの次元で理解したいと思います。一つは、すでに述べた一般的な意味での増上慢です。それは、本人が自分を過信して思いあがっているだけで、周りから見ればお笑いであり、間違いであるという意味のことです。みなさんも、そういう意味での増上慢であれば、他人の内に見たことがあるかもしれませんね。うぬぼれのことですから、よくあるものなのです。

ここに、もう一つ、「天性の増上慢」というものを、私は挙げてみたいと思います。

それを的確に定義することは難しいですが、言わば、生まれつき完成されている自信のことだと言えばいいでしょうか。それは本人にとっては自負、というよりは「事実」と言ってもいいかもしれません。天才であることに対する自負ではなく、天才であるという事実。以上。そういう次元です。

良秀は優れた絵師で、周りの人間は彼を、一般的な意味での増上慢、つまり高慢な人間として理解しました。しかし、みなさんが本当に良秀を理解するためには、もう一方の増上慢について考えてみる必要があります。少し難しいですが、順番に説明してゆきましょう。

まず、この作品において、「増上慢」というキーワードで理解することのできる人物が二人います。堀川の大殿と良秀です。みなさんは、ここに堀川の大殿が含まれることに疑問を持たれるかもしれません。実際、堀川の大殿に関して、こんな記述があります。

(堀川の大殿は)兎に角御生れつきから、並々の人間とは御違いになっていたようでございます。(…)色々とあげつらって大殿様の御性行を始皇帝煬帝に比べるものもございますが、それは諺に云う群盲の象を撫でるようなものででもございましょうか。(…)(大殿には)大腹中の御器量がございました。

明らかに、物語の語り部は、堀川の大殿を好ましい人物だと考え、度量が大きくて、人を驚かせるような人物だと言っています。とても増上慢のそしりを受けるような人物ではなさそうです。次に良秀に関する記述を見てみましょう。

(良秀が嫌われる原因である)その癖と申しますのは、吝嗇(りんしょく)で、慳貪(けんどん)で、恥知らずで、怠けもので、強欲で――いや、その中でも取分け甚しいのは、横柄で高慢で、何時も本朝第一の絵師と申す事を、鼻の先へぶら下げている事でございましょう。

堀川の大殿が豪放であるのに比べて、良秀は心や度量の小さい人間であると、語り部は言っているようでもあります。ちなみに、吝嗇とはケチのことで、慳貪とは情のないことを言います。

しかし、二人には共通点があります。それが、「天性の増上慢」です。この二人のような人物には生まれつきの自信があって、自分が人間世界において唯一で最も優れた人物なのだと確信しているのです。それは、おそらく敢えて言うことでもなく、そう思うのだから仕方ない、本人の活力の前提みたいなものです。自分が周りの人間とは一線を越えた存在であることは、彼らには言うまでもないことなのです。

ただし、良秀を見ていれば分かるように、「天性の増上慢」があるからと言って、世の中に対して超然としていられるわけでもないようです。実際、良秀は「世間の習慣(ならわし)とか慣例(しきたり)とか申すようなものまで、すべて莫迦に致さずには置かない」人間だったと、語り部は言っています。良秀は身分の高い人間ではないので、どこか卑屈なところが出来てしまっているらしいのです。

ところで、この作品は一般的に、芸術と道徳の対立がテーマであると、言われることが多いようです。自分の絵のために娘が焼け死んだとしても、絵だけは完成させるところなどは、確かに、一般的には情のない話なのでしょう。しかし、「天性の増上慢」における対立の問題とは、芸術と道徳との対立ではなく、天才と天との対立であると、私は思っています。天は神々と言っても構いません。道徳とは世間のことです。

思うに、「天性の増上慢」の正体は、何の理由もなしにムクムクと湧き上がる、泉のような自信のことです。これがあると、自分は周りの人間と違うのだということなどは考えるまでもありません。良秀は絵師なので、絵を理由に自分に自信を持ってもいいのですが、彼の自信は、実は無根拠の泉なのです。その自信は天や神々とは関係ないところからもたらされるものです。だから、本当の意味で高慢なのだとも言えます。基本的に、謙虚とは反対の性質の力なのです。

又獄卒は、夢現に何度となく、わたしの眼に映りました、或は牛頭、或は馬頭、或は三面六臂の鬼の形が、音のせぬ手を拍き、声の出ぬ口を開いて、私を虐みに参りますのは、殆ど毎日毎夜のことと申してもよろしゅうございましょう。

天才と天との対立は、良秀においては、以上の夢のような形で、内面の傷の暗示として表れています。得体のしれない自信があることに、かえって、無意識では責めさいなまれているわけです。

芥川の「或阿呆の一生」に、フランスの詩人・ラディゲの言葉の興味深い引用があります。

神の兵卒たちは己(おれ)をつかまえに来る(五十 俘)

芸術と道徳の対立という言語設定は、天才(芸術家)の抱える天との対立の問題、すなわち彼らの神経衰弱の本質を理解する上で、全然平行線な視点であるように、私には思われます。

それはそれとして、無根拠の自信と言うと、みなさんはむしろうらやましく思うかもしれません。しかし、「天性の増上慢」を完全にコントロールできる人間はほぼいないでしょう。良秀にしたところで、一見ただの卑屈な男なのですから。なぜなら、無根拠の自信はある意味実態がないものなので、人は知らず知らずの内に、もっと確かな才能とか技術とかを拠り所として、自負を育てるからです。その自負は、一般的な意味での増上慢に過ぎません。

ただ、「天性の増上慢」の自負には、周りから見てお笑い、ということだけでは言い切れないような、妖しい何かがあるようです。やることに、何か鬼気迫るような、怪しげな、人間を超えた力が感じられるのです。

良秀という男は確かに、魔道に近いところにいたのでしょう。実は、堀川の大殿も同じです。参考になる引用として、物語の最後の辺りを見てみたいと思います。堀川の大殿が号令して、良秀の娘が縛られている牛車に火がつけられた後の場面です。

あのさっきまで地獄の責め苦に悩んでいたような良秀は、今は云いようのない輝きを、さながら恍惚とした法悦の輝きを、皺だらけな満面に浮かべながら、大殿様の御前も忘れたのか、両腕をしっかり胸に組んで、佇んでいるではございませんか。

続いて、堀川の大殿の様子です。それまでは奇妙に笑っていたはずの大殿です。

が、その中でたった一人、御縁の上の大殿様だけは、まるで別人かと思われる程、御顔の色も青ざめて、口元に泡を御ためになりながら、紫の指貫の膝を両手にしっかり御つかみになって、丁度喉の渇いた獣のように喘ぎつづけていらっしゃいました。……

この物語で、明らかに「おかしく」なってしまった人物は良秀と堀川の大殿だけです。他の人物は状況に何か得体のしれないものを感じながらも、正気を失うようなことはありませんでした。これは、感じやすさの問題なのでしょう。「天性の増上慢」のある人間と、魔道というものには親和性があるように思われます。言わば、負のエネルギーさえ、怪しげな魅力を持ってしまうのです。本人たちは、その力に引かれて、道からフラフラっと外れそうになるわけです。常人が強くは持っていない、ある種の「魅力」に対する嗅覚があるからです。堀川の大殿なども、牛車に女を縛って燃やすことを良秀に承諾した時、けたたましく笑って、「御口の端には白く泡がたまって」いたり、「御眉のあたりにはびくびくと電が走って」いたり、明らかに半ば異常状態でした。魔に惹かれていたのでしょう。

私はその御言を伺いますと、虫の知らせか、何となく凄じい気が致しました。

反対に、ごく普通の感覚を持つ語り部は、目の前の状況( 良秀と堀川の大殿)の本質などは「虫の知らせ」程度にしか理解できていないようです。

今回の解説は少し長くなってしまいました。「天性の増上慢」。ピンときましたでしょうか。高校生のみなさんでも、特に文学がお好きな方であれば、実は知っている感覚だったりするのではないかと、私は思っているのですが、どうでしょうか。しかし、今回の解説はあまり簡単ではありませんでしたね。

私はこの作品を「芸術至上主義」という言葉で理解することをおすすめしません。つまり、芸術のためなら娘を捨てる、という理解ですね。良秀は言わば二重人格なんです。呼吸できる空気が二つあるんです。娘を捨てたいわけないじゃないですか。そうではなく、勝手に働いてしまう魔道の悲しさを、私は感じます。まさに、地獄。良秀は魔に吸い尽くされてしまいました。

 

3. 私のコメント

人でいたいと思うことは難しい。きっと、人でいたくないと思うことの方が簡単だ。

良秀は人でなくなることはちゃんと嫌だった。

人でなしにしか分からない。

 

4. 参考文献

芥川龍之介地獄変」『地獄変』(新潮文庫

この記事の引用は全て上記「地獄変」によるものです。引用中に一部私の補足が含まれます。

 

5. 他の記事

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